忘れてた、、(;'∀')
ジョーンさんの文章に触れると、、
何も書けなくなるってことに、、( ;∀;)
ジョーン・トリフソンさんがよく使う、「先鋭的な」 非二元という表現のほんとの切れ味に、、
朗読音源よりも、本を読むことを通して、、
思いっきり身を捧げている、、休暇中のひと時であります、、(;'∀')
これは、これまでのアドヴァイタ系のOSHOや、悟り系のエックさんなどのそれとは、
また違った鮮やかさが感じられます、、
彼らのメッセージも、時に強烈で、辛辣で、自我やマインドが黙るには十分なものがありましたが、、
「先鋭的な」 非二元ってやつは、、なんかもう根こそぎって感じで、、
ほんとぐうの音も出ないってところでね、、( ;∀;)
というわけで、毎度ハリー出る幕なしの文章をちょこっとだけ抜粋し、、
心ばかりの抵抗とさせて頂きます、、('-'*)(,_,*)('-'*)(,_,*)
覚醒も悟りも、<ここ・今> に関することでしかありません。
これこそが、どんな値段も付けられない宝石なのです。
この宝石のことは考えることも想像することもできません。
ただし、それはこの宝石が謎と神秘に包まれて手の届かない遠い場所にあるからではなく、
あまりにも近くにあって、あまりにもすべてを包含し、そしてあまりにも平凡に見えるからです。
・・・・・・
思考は、それが一体何のかをつかもうとしていますか?
「自分にはわからない」 という思考が起こっているでしょうか?
目覚めるとは、思考意識のこの動きを見抜くことです。
そして今ここで車の行き交う音と鳥のさえずりを聴きながら、
呼吸しながら、この瞬間の色と形を見ながら、単に目覚めているということです。
これは努力を必要としません。
なぜなら、ここにいて気づきながら自分が今していることをするというのは、
しないことが不可能だからです。
ただし思考には、私たちは自分の経験とは別物で、見慣れない世界で迷子になった断片で、
今にも沈みそうになりながら海に漂う船なのだと思い込ませる力があります。
宝石を見かけの上で見落とす最も一般的なやり方が、
それをどこか 「別の場所」 で探すという方法です。
・・・・・・
何の努力もなしに起こっていること-----
聴くこと、見ること、感じること、呼吸、気づくこと、あること-----
の中にくつろぐと、自分がすでにこの <ここ・今> の全体的で分離のない出来事として
今ここにいるということに気づきます。
つまり、これを手にしよう、これをしよう、これと同一化しようとする代わりに、
ただこれであってみればいいのです。
そして実際には、そうでないことはできません。
・・・・・・
今この瞬間に起こっている音、光景、味、香り、身体感覚のありのままの知覚に
意識が向けられれていると、そこにあるのは分離のないひとつの出来事だけです。
というか、本の巻末にあった、ヒロさんの文章で初めて知ったのですが、、
なんと、ジョーンさんは、右手首から先がない、、らしいです、、
つかみたくてもつかめない、、物理的な葛藤の中で、、
この本が紡がれる土壌が養われたのやもと、、勝手なストーリーが巡ったりもするのですが、、
本人の動画 を見つけ見ていると、、
ほんとにあっけらかんとして爽やかな、、ごくごく普通のおばちゃんでありながら、、
瞬間瞬間見せる、キラリとしたシャープな瞳が醸し出す明晰さに
ますますファンになってしまうハリーなのであります、、(*‘∀‘)
※というわけで、いつの間にかの6月、、今月もよろしくお願いします!
今日も読んで下さり、ありがとうございました!(#⌒∇⌒#)ゞ