たまに、「やっぱり受容なんて出来ない。
また走りたい、もっと動きたい。周りの友達とか見てると何気ないことだけど羨ましいなーと思ってしまう」と私。
私のこのモヤモヤを……診察の時に、主治医の先生に聞いてもらう。
「受け入れることって、すごく難しい事だし、無理して受け入れようとしなくてもいい。やらないといけないことと、受け入れられるってことは別だよ」と教えてくれた。
「受け入れられなくても、やらないといけないことはやらないといけない」と言われ、そうだなぁ。と素直に納得。
「こうやって電動車いすにして使い分けしたり、できること、やらないいけないことはことはしないといけない。それは受け入れとは全く別」だと気づいた私。
「障害があって良かったとも思えない。。
たまにそういう人がいるけど、私は、不自由になって、こんなに階段が憎いと思ったこともないし、動ける時は気エレベーターの場所なんて意識したこともなかった。気づいたこともあるけど……とてもじゃないけど、障害があって良かったとは思えない…。」と本音を打ち明ける私に、
「それは自然なことだと思うよ。
たまにそういう人いるけど、逆にすごいよねー。
障害があって良かった!という人は、そう思うことで、自分を保ってるんだと思う。そんなに簡単に受け入られない。
受容ってなんだろうね」という話になる。
「受け入れられなくても、できることをやってたらそれでいいと思うよ」と言われ、なんだかモヤモヤは、スーッと楽になる。
確かに、受け入れられないけど、
ちゃんと診察にきて、車いすも申請して、必要なものは揃えて生活はしてる。
以前とは大違い(笑)
でも、「それでいいんだぁ。無理して受け入れようなんて思わなくてもいいし、そもそもそんないうほど簡単なものでないわー。」と思うと、なんだかホッとした。
受け入れないと受け止めないと進めないと思ってたけど、別に出来なくてもそれはそれでよいんだと。
やることやっていればそれでいいと切り替えられた。
そして、私が以前悩んでた時に、
先生が言ってくれた一言がある。
心が軽くなった。とらわれなくなった。
障害ってそもそも何?本当に障害なのか?そもそも、運動音痴の人とどう何が違うわけ?とかグルグルして時期があった。
「障害は、日常生活に困ってるか、困っていないかで判断する。 日常生活に困っていたらそれは障害。逆に、社会的、日常生活に困っていなければほっておけばいい。
例えば、片付けられなくてぐちゃぐちゃでそれでも困ってなければ、それはそれで生活していけばいい。
でも、困っているんだったらそれは障害」だと教えてくれた。
つまり……私は、日常生活に困ってて、かつ、なんとかしたいと思ってるから、障害なんだ。と気付く。
「どうしたらいいか、一緒に対策を考えていこう」と言ってくれて、
障害を直すんじゃなくて、どうしたら困らずに済むか、困り度が減るか、楽しく生活できるか、を考えたらいいんだと切り替えられて、「障害」という言葉にはとらわれなくなった。
少しずつ。少しずつ。
ながーいスパンで見たら、成長はしてるかな?。と実感。
一生受け入れられないと思うけど、それでいいんだと思うと不思議と心が軽くなり、でも出来ることは頑張ろ!と思えたのであった。
ざっくばらんに、障害受容って何?とか話してみたい(笑)
綺麗事ばかりではないだろう。当事者にしか分からない気持ちや思いもあるような気もする。
歩む会Andante
坪田佳奈