能力が発揮できる適正な業務にアサインされるかどうかは | 団塊世代の"愚考にため息"

団塊世代の"愚考にため息"

ふと思い出す過去の出来事と後悔。次々と、浮かんでは消えていく愚考を書きとめていけば、いつかはネタ切れになるはず。きっとその後は、良き日々の思い出だけが浮かんでくるにちがいない。

「適正を知ること」
人は、自分が適した状況においてのみ能力を発揮するようです。肝心なのは、能力の欠陥を克服することではなく、自分の適性を知るということです。

革命成就のあと政権に参加せず、一介の闘士として人生を締めくくった南米の革命家は、政治的な適正がないことを知っていたのでしょう。「能力がないからできない」のではなく、「適正がないからやらない」ということです。

歴史学のフィールドではなく実業の世界では、課題を期待された内容で消化し成果物を上長にとって目に見える形で提出しないと、能力不足で適正がないと評価されます。


能力と適正は同じフィールドにあり、能力が発揮できる適正な業務にアサインされるかどうかは、日頃の勤務態度や経営幹部にまで届く社内外の風評です。


それを嫌うなら、ベンチャー企業を創業するというのが、私なりの「解」です。