悔い改めることができるということは、相当高度な人間であるということである。この高度さに学の有無は関係ない。

(それができない観念主義である偽ものが 年齢に関係なく純粋哲学思想系のなかにもあふれている―それで他者や一般の批判だけはする―ことを顧みて、うんざりしているのである。)

 

 

真の悔い改めは、理念的に自分をつきはなしておこなうのではなく、

自分にたちかえることによっておこなうのである。 

 

 

どのくらいいるであろうか こういうひとが   

 

 

 

 

 

ぼくは、文学者になることはできない。力量的にではなく本性的に。文学は聖なる純粋を描くときでも対比的にそうではないものを置くだろうから。ぼくはそういう文学を読むのもふつう好かない。 だからそういうものを捨象してもつくれる詩、詩のありかたのありうるひとつのかたちのみ、ぼくもできるとすればつくる気がある。 

 

 

 

 

 

精神は、みずからの表現するものと同一化して存在するのではなかろうか。つまり、自らを証しなければ精神は安らがず、「存在することの安らかさ」を得ることはできない。精神の一元的に全的に自分を表現する欲求は、存在することへの欲求である。

 「存在することの安らかさ」は深いものであり、形而上次元に直接する。 

 

 

 

参照(記録)

 

 

デカルトは、なによりもまず自分を疑う人間だっただろう。事実そう書いている。そういう人間の自己確信への到り方というものは、吟味に吟味を重ねるたいへん厳しいものである。その過程で方法的懐疑も生まれた。たいへん厳しい(孤独な)ものである。真摯なものはすべて孤独であるいいかげんで甘い人間が独断的なのである。様子をみていればわかる。自分で自立的に咀嚼するのはよいが、いいかげんな観念連合想に迎合するわけにはいかない。これがぼくの宗教嫌いの根拠だ。(ぼくのこだわりをやっと言葉にした。)

 

 

この世自体はじつに背反矛盾しているのである。この世の提供するいい話にはいっさい乗ってはならない。ただ自分が直接つながる神のみを信ぜよ。そしていかなる場合にも理性を保つこと。直接的信仰と理性。これのみで自立せよ。(理性はこの場合第一義的には理念ではなく、徹底した冷静さの努力である。そして知性は、ぼくにとって、この信仰にも理性にも働いている知的注意力である。)

 

 

 

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無恥な自己表出は積極的な悪である。なぜなら、そういう(それ自体は)無価値な言動にも、本性において無限な一個の人間の自己意志の肯定作用が逐一伴っているゆえに、この誤判断・誤主張は、悪魔の破壊意志となんら変わらないからである。都会の経済消費空間はそういうものであふれかえっている。それを感知してもなんとも思わないなら、そこに住む精神は深刻に汚染されている。(こういう場で作業していればそれを言わざるを得ない。)