「美」とは何であるか。「秩序」である。秩序は、放っておいたら拡散してしまうものを統合する「志向の力」である。醜いと感じるとき、それは力の拡散状態をそう感じているのである。この美感覚は、趣味判断の次元を超えている。「精神性」とはこの「秩序志向」のことであり、この反対(非精神性)は拡散怠惰である。「美」は、単に形態の好ましさではない。この、はやく言ってしまえば、「メタフィジックな精神志向において自己を一元化する生意識が感ぜられること」なのである。この「一元化志向」が精神に感ぜられることを「品格」という。品格は、『事実的に志向され感じられている「神」』なしにはありえない。(それいがいは全部体裁と形式儀礼である。)

「メタフィジック意識」を非日常的だと思っていたらとんでもない。この意識は日常意識のなかに浸透すべきである。ヤスパースの「絶対的意識」も「メタフィジック意識の浸透展開」なのであり、「人間を品格あらしめる主体的自立的意識運動」なのである。

これを言う契機になったのは、あまりに見るに耐えない画像が検索欄に氾濫しており、生活の中味が全部画像に出ているのをたしかめたことだ。神は、神を忘れ意識にものぼらせない者たちを滅ぼす。

3.15


上文は、この電子欄が調整中のとき、他で作成した文 殆どそのままである。きわめて重大な直観が働いて書いた。その本質射程は大きく深い。ぼくの思想全体の自覚であり核であろう。草稿にはなかった「 」を付加し、重点を明確化した。


― ぼくが「高田博厚」の枠を、ぼく自身の枠として けっして離れないのがよくわかる。そのなかに「ヤスパース」がおり、「森有正」がいる。高田博厚は最高の(「人間理念」の)具現であり、ぼくの ほかの勉強はその本質的なものの解釈と明確化のためだ。―


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秩序意識(動的な過程をふくむ統括的意識)-これが「知性」である-のない者は、信頼安心ができない。ひとの魂を壊す言動を抑制しないから。


ヤスパースに係ること自体は、観念の小屋のなかに導かれて、自分の現実を傍にして観念の酒で自己満足ようにさせる。早くきりあげて、自分の海へ戻りたい。そのとき、観念小屋で思惟したものがどう生(活)きるか。


日本の愚劣な民度は広告動画に現れている。そのまえに一般画像がひどい。精神性志向がまったく定着していない悲惨さだ。





初心確認
100 自分自身への手紙七十七(人間という想念)

ぼくが今でも「人間」として言動しているのは、繰り返すが、「人間」というぼくの内にある想念にもとづいているのだ。自律的に培ってきた想念(理念)なのであって、断じて自然に生じてきたものではない。「神」とは、人間という自律的想念の極限象徴なのであって、これを「自然」原理と同一視することは常に「人間」そのものを不純にすることだ。自然崇拝も造物主崇拝も自然保護主義もすべて巧妙な全体主義への道である。自然美への感動は、それに感動している人間の魂への感動にと還元されるべきことを知るがよい。人間精神のみが音楽をつくった。これは人間の魂の自律性の証である。その極北に「神」を感じる。それに「賭ける」のが本当の信仰なのであって、デカルトもパスカルもその純粋真意においては照応し合っている(彼らで権威づけることではない)。この「態度」に忠実であれば「人間」は再び目覚める。



amis solitaires ou DIGNITE

裕美さんの五曲のファーストアルバムがほんとうにすばらしくっていまそればかりを聴いている。この感ぜられる真剣な情熱には抵抗できない。やはりこの原点にぼくの愛情のそれもある。そしてこの原点をぼくは彼女の本質として信じざるを得ない。そこからぼくは彼女の魂の像をつくっているのだ。他のなにによってでもない。人はぼくを迷信家というだろうか。 先生が言うように、美が信仰させるのだ。いまぼくの言葉では、魂の感覚が愛させる。この愛情は同時に信仰なのだ。信仰にならない愛はない。そのひとの本質への信仰、それが愛情だ。そうでない愛はいまぼくにはかんがえられない。


〔ヤスパースの言葉をまったく忘れていたことを感謝する。ぼくの根源から同義の言葉を書けた。同時に 高田先生の言葉を「ぼく自身」で定義したのだ。3.15〕





真の普遍の同胞愛に至るためには、此の世では、最も狭い窮極の排他的愛という隘路のなかへ沈み込まなければならない。それを通って世界の裏側へ抜けることによってのみ、真の普遍の同胞愛へ至り得るだろう。




自分の愛の本心と意志に忠実であろうとする努力の敢行のためならば、全人類、全霊界から、いや、神から、有罪宣告されて構わない。他存在の眼に適うように自分の愛を全うすることなど不可能である。逆にぼくの眼からは、そういう連中は一人残らず偽善者であり裁かれるべき者等なのである。




ぼくは、他からの人為加害行為によって不当に此の世での生と愛を奪われたのだから、これを奪った存在を、それが人間であれ霊界存在であれ創造主であれ、憎み怒るのは当然である。ぼくの本質が生であり愛であるかぎり。愛は無条件で許すこと(それは愛そのものの放棄だろう)であるどころではなくその反対である。ぼくが「生きている存在」であるかぎり。







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別件:
ヤスパース・ソフィストは、ヤスパース思想の「交わり」に関する言辞を、(相手との)真摯な対決を避け、表面的に並置して対決を「気取る」ために、つまり、空虚な観念自己を夜郎自大意識で守るために、おおいに利用する。「まず相手の思想の中に、真理と見做して誠心誠意沈潜する」というヤスパース自身が実践し表明している「我有化」を敢行する器など、全くない。そういう実践の経験陶冶を欠いて、大学で「ヤスパース哲学」のただ思想構造的観念積み木を説くのであれば、世にも空虚でみじめなことである。「きみたちこういうふうに生きなさい、私はしてないけど」、と説くのが、「せめてヤスパース伝道師として生きる」ということなのか、おい君、それで誰にたいしても一言「交わりにおける不可避の闘争」と称してもの言う資格が、自分にあると思っているのか、「伝道師」として、ええ ?!





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仕事の効率がわるいのは、この電子欄枠は精神的に有害な くだらぬ障礙が絶えないからである。「祈り」の最中だから 殺意を起すのは当然だ !!
いつもお祓いをしなければならない!

おいアメブロ、神聖な祭事の最中けがらわしいものをみせるな!!!!殺すぞ!!!!
アメブロは死刑(これは脅しではない)