1.非知

a) 根源における転回点としての非知

単に否定的な言表としての非知はそれ自体無であろう。非知が絶対的意識の運動であるのは、まだ私が〔物事を〕知る前の私の無知の一般的自覚としてではなく、その都度対象知を揚棄することによって自覚されるような、自分で獲得した非知としてなのである。それは、知ることを試みる前の、知の空虚な否定ではなく、あらゆる規定的な現実から身を引くための断念でもない。そうではなく、〔具体的に〕知るに応じてこの知のなかで、自分を非知として見出す、そのようなその都度内実に満ちたものとして、非知はあるのである。非知は、単純に口に出されるものとしては無であるから、常に繰り返される言い回し、すなわち、「それは認識できない」「概念形成できない」「言表できない」、というような言い回しは、ただそれだけのものなら、空虚である。これらの言い回しは、〔具体的な〕知識との関連において、この知識が非知へと克服された場合にのみ、重みを得るのであるから、非知はただ、具体的内容のある道の途上で生みだされる特別の非知としてのみ、内実のあるものなのである。知を最大に包容することに拠って獲得される非知にしてはじめて、本来的な非知なのである。
 〔このようにして〕獲得される非知は、しかし、安らぎの地点なのではない。そうではなく、非知は、この運動においては、到達されるとそこから即座に帰還が生じるような転回点(Wendepunkt)なのである。転回点ではいかなる滞留もない。転回点は、知ること 確信すること とへ駆るものであり、この知ること確信すること は、転回点から生じたものとして、己れの運動の根源を自らの内に蔵しているのである。
 したがって、知ろうとする試みの失敗を繰りかえした挙句に、この知の試みをすべて放棄してしまい、ただもう 「私は知らない(非知である)」と知るのみであれば、とても充分ではない。このような非知は、知ることへ関わることがないまま、運動させられることもなく、〔何かを〕運動させることもない。それは、単に停止であるから、自らをもって何も始め得ない。真の非知へ達するためには、知り得ることを現実にも知ることが必要なのである。真の非知は、規定的知を破壊するのではなく、克服するのであり、この規定的知が満足させるものでないゆえに、この知の限界を踏み越えてゆくのである。真の非知は、この場合、認識する者が限界地点に立っているだけの どうでもよい無知(非知)ではない。真の非知は、知ることを断念した者が 知られなかった自分の存在の余白(Rest)として捉えるような空虚な無知(非知)ではないのである。そうではなく、真の非知は、運動させられるものであり、同時的に〔自分の存在へと〕帰還的に駆るものなのである。
 この真の非知は、規定的な知によって片付けられる(止揚できる)ような有限的事物に関する不確実性を意味するものでもない。真の非知は、止揚できるものではなく、本来の知が明瞭になる程、益々決定的に経験されるものである。真の非知は、深み(die Tiefe)であって、この深みは、ただ運動の転回点に存するものとして踏み込めるものではない。運動は自らの充実をけっしてそこ〔転回点そのもの〕には持たず、運動がそこへと帰還してゆくところのものにおいて、持つのである。〔II.261-262〕
 
b) 非知における知る意欲

非知としての絶対的意識の深みは、「私としては知り得ないのだから」と断念することによって達せられるよりもむしろ、転回点に達して益々力強く前進駆動する一方である知る意欲によってこそ、達せられる。私は、もはやそれ以上知り得ない場合でも、知ろうと欲することを自分で止めることはできないで、非知においてなお知りたいと思い、ひとつの棘(Stachel)によって駆られるように、根源的な知る意欲に基づいて予め踏み出ているので、非知に耐えているのである。
 世界定位(Weltorientierung)における知る意欲は、自らのパトス(情熱)を、自らの意味と可能性とを批判的に限界づけることのなかに持っている。知る意欲一般には、いかなる限界もなく、あらゆる限界を踏み越えてゆく。知る意欲は、挫折を欲するのではなく、挫折せざるをえない〔必然的に挫折させられる〕のである。
 真理への勇気は、したがって、存在自体に関する何らかの知を盲目的に主張することに存するのではない。真理への勇気は、むしろ、限界づけられることのない知る意欲の、開放性〔開放的態度〕(Offenheit)に存するのである。〔そうしてこそ〕この知る意欲は、自らが必然的に挫折するのを見るのである。この知る意欲は、どんな非知にも倦むことはない。ただ実存そのものをもって〔知り得た場合〕のみ、もはや知ることを欲さないという状態になるだろうが。したがって、実存の運動としての非知は、私に知ることが可能なものの探究のなかに不確実性をもち込むものではない。そうではなく、むしろ、私の中で、知ることのあらゆる決定的な仕方を鋭くするのである。〔II.262-263〕

c) 非知における確信

絶対的な良心(absolutes Gewissen)は、非知における確信となる。この確信は、何か或るものについての知ではなく、己れの内的行為と外的行動との決然性なのである。
 この確信は、知る意欲の非知にのぞんで点火されるが、この確信から、至上の知る意欲のなかに、ひとつの新しい情熱が入り来るのである。この情熱は、知へ帰還する可能性の代わりに実存的確信の根源が作用するような非知へと、至ろうとする情熱なのである。この情熱においては、「存在を知り得ないということ」は、もはやただ耐えて荷われるのではなく、己れの超越者との関係において本来的自己存在を確信すること(Gewissheit eigentlichen Selbstseins in bezug auf seine Transzendenz)の対価として〔能動的に〕摑み取られる(ergriffen)のである。私はここでも、非知をそれ自体のために摑み取るのではない。非知それ自体はひとつの空虚であり、私はその中にただ沈み込むだけだろう。非知は、私に分与された転回状況〔転回の在り方〕なのであり、そこにおいて私は自分〔自身〕を、非知に抗して、非知に面と向かって、見出さなければならないのである。
 この非知において私は私自身を確信するが、この確信は、〔他の何ものによっても〕基礎づけられないままに、「私は愛し、そして信ずる」、「私は様々な限界状況の中に在りながら、それでも生きることが出来る」、「〈もはや思惟することが出来ない〉という〔意識状況の〕なかで、超越者の存在を感得しうる」、〔等〕と確信するものなのである。世界の中での知は、他存在という透徹できない抵抗にぶつかって挫折する。この他存在を私は、私が思惟するものの彼方に、謂わば質料(Materie)として、非思惟を通して思惟するのであるが、そのように、私は、私が思惟するかぎりどこでも、沈黙のなかで(schweigend)、思惟することのできないものを思惟するのである。それは〔例えば〕神性(Gottheit)であり、これを、最大の明るい光においても、最も暗黒の根底においても、私に自らを隠す「了解不可能なもの」(das Unverstehbare)として、私は思惟するのである。
 非知において実存は自由(Freiheit)として自らに差し向けられる。対象的に固定された形式をもつ絶対的な知などというものが、認識上の命題としてであれ、行為上の目的としてであれ、存立するならば、実存の絶対的意識は揚棄されてしまうであろう。そして、残るはただ意識一般であり、この中に、今や客観的な絶対的なるものが踏み入るのである。現存在(Dasein)は操り人形遊戯の如くなり、あれこれの客観性によって操作糸は采配されるだろう。〔そうなっては、自由など存在しない。〕
 実存は自らの確信によって〔自分を確信することによって〕、非知を、これにおいて実存が自分自身を経験する非知を、はじめて充実させなければならない。ゆえに、「非知の知」〔非知を知ること〕(Wissen des Nichtwissens)は、たしかに、絶対的意識にとって、ひとつの一般的公式ではあるが、しかし、非知の現実的確信としての絶対的意識は、歴史的(geschichtlich)であり、交換不能なものなのである。確信としての現実と、意識の非知とは、相互にその都度具体的一回性において駆り立て合うということは、根源的〔に重要〕なことであり、このことなくしては、当該事象(dies)〔今の場合は絶対的意識あるいはこの意識の非知〕に的中しようとする哲学思想は、空虚な遊戯であるに留まるのである。〔II.263-264〕






  - 以上、「非知」の項全訳。〔 〕内は訳者(古川)の補充 -





〔初回: 2016-03-04 20:31:11〕