いま、Jaspers の絶対的意識の論述を訳しているが、懐かしいとともに、昨日のような昔の様々去来する想いがある。そのなかでひじょうに痛切なのは、哲学畑という、本来なら最も純粋な動機の営為をする者達が集まる場所と、こっちは勝手に思い込んでいる場に、いかにきたなく俗な心性の者達がたむろしていたかということである。ぼくと殆ど同世代でも、完全に世故だけで、しかも(誰でも陥る)一時の気の迷いで刹那的にそうなのではなく、長期の戦略性をもって、完全犯罪的意識的に、自分の売りである人間性と誠実性のすべてを挙げてその戦略性の中へ投入して、うごいているのである。これができるには、余程 したしくつきあう相手をも心底で舐めきっていなければ出来ない。 ぼくには想像もつかない老猾性である。そういうことを思うと、なんだかほんとうになにもかも馬鹿馬鹿しくなってくるのである。そういう輩が表面では理念論 文芸論を まともな顔してたたかわせてくるが、とっくに世俗の抵当に入っている。そういうことでとても(ぼくと)同次元の話などできなかったわけだ。そうして、〈プライド〉だけは、ぜったいに譲らないのである。〈プライド〉は、虚偽の虚偽、観念の観念であって、これに拠らなければ、すべて崩壊してしまうだろう。自分を支えるのはこれしかないのだから。連中こそ、〈けっして悔い改めないラスコーリニコフ〉なのである。

 時間が無駄だからこう言っておこう:

 生きていて恥ずかしくないのか 黙って死ね 

 

 安心したまえ、ぼくの信仰は自殺を禁じてなどいない。己惚れの免罪符となるきみたちの〈信仰〉とちがってね