2024年1月に読んだ本たち+映画のこと | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

明けましておめでとうございます(超いまさら)

 

・加藤周一『日本文学史序説』<上・下>(筑摩書房、ちくま学芸文庫、1999年。)

毎年英文学の何かで始めていたが、今年は日本文学の大著から。大変素晴らしかった。1月から2月上旬にかけて集中的に取り組んで読んだ一冊。年末にえいやと買ってよかった、一生モノの知識である。

 

 

本書は主に教免のレポートのため、中古と中世の文学史を書く勉強として読んでいった。そのため、下巻は半分ほども読めていないが、上巻・下巻合わせて長大な分量を一応ざーっとは読んだ。古代から近代までの膨大かつ多様な文学史を書き通していく、筆者のその博覧強記ぶりにはただただ脱帽する思いである。

 

 

この後に出す『「日本文学史序説」補講』でもそうだが、この本を読みとおす中で一番勉強になったのは、本居宣長だ。もはやその影響力の大きさに、本居宣長さんとお呼びしなければならない。

 

「宣長の哲学の中心は、『人の情のありのまま』、すなわち人間の自然状態である。人間は誰でもが生れながらにして何でもすることができる。そこに善悪の両面が含まれることは、カミの行いに善悪のあるのと同じである。カミと人間との関係は、連続的であり、カミ(殊にムスビノカミ)は、自然現象を支配するばかりでなく、社会現象をも操る。そのカミと人とがつくる世界には、一種の秩序があって、その秩序を儒学用語を転用して「道」という。このような自然状態は、儒の影響の及ぶ以前の、日本の古代に見出されるはずであり、したがって「人の情のありのまま」は、また「大和心」ともよばれるのである。

 「大和心」の根源をつきとめるためには、かくして「漢意」を排し、古代文献を通じて、その復元につとめるほかはない。しかるに『古事記』は、日本の古代をもっともよく伝える書である。したがって『古事記』理解が、学問の究極の目標となる。……そして出来上がったのが、徳川時代を通じてもっとも実証的な文献学であった。

 しかし宣長はその文献学に、技術的に実証的な方法だけを用いたのではなかった。古代人の「情のありのまま」に迫るためには、想像力を働かせ、直感を活用しなければならない。その想像力を導き、直感を正確にするのは、あらかじめ「漢意」を排して、「大和心」に近づいた自分自身の精神である。そのためには、日本の古典に親しみ、殊に歌を読みまた作ることが必要となるだろう。……なぜなら歌は、人の情がもの事にふれて動く感情、──「もののあはれ」の表現だからである。同じ事は平安朝の「物語」についてもいえる。「物語」を読むのもまた「もののあはれをもしるものなり」。かくして「情のありのまま」、「人の情」、「もののあはれ」の表現としての歌や物語の評価は、文学作品の価値の、政治的価値や道徳的価値からの独立へみちびかれるだろう。」(107-09)

 

「宣長は、『古事記』のなかに、儒仏の影響以前の土着世界観の原型を見出し、それとの関連において、日本の文化的遺産に新たな意味──美学的な水準での文学的価値、社会的な領域での保守的な寛容──をあたえた。そのことはまた逆に、儒仏の影響にもかかわらずまさに「まことの心の奥」に生きつづけて宣長の時代にまで到ったところの、土着世界観の持続性を証拠だてる。……宣長が見きわめたのは、彼自身の裡に内在化された日本の大衆であり、彼自身の時代に現在する古代であった。(112)

宣長の方法論は、大和心の探究と裏返す形で、当時強い影響力を持っていた儒学、仏教、及び漢籍への反発心も強かったため、というのが非常に納得だった。宣長は、理性と心情の二分法で人間の思考法を捉えた際に、前者を漢心、後者を大和心に結びつける。哲学や思想を描いたのが漢籍であるとしたら、むしろそこで描かれていない人間の感情や心の動きを描出した日本文学に価値がないか?と捉えたのは、結構大きな転換点なのではないかという直観がある。また、今の人々が抱く文学観とも地続きなんじゃないかというところで、有意義な発見があった。

 

 

もう一点。加藤は<日本文学史>をより広く開かれたものにしようとしているのも印象的で、江戸時代に書かれた農民の檄文を筆頭に、近代以降においては朝鮮、台湾、また在日の人が日本文学の発展にどのような貢献を行ったのかという点も含めて、文学を特定の地位、階級、属性の人々によって閉じられた体系とはしないことを心がけている。

 

 

個人的に思うところとしては、日本文学は古くは中国の文字と書物の影響を出発点に、中国の文化や伝統を受けた部分と、日本固有の文化として花開いたところの、そのダイナミクスが面白いと思っている。近代以降は、そこに西欧文学の影響も加わってくる。これらのダイナミズムの中に、日本語で書かれた文学の発展を追いかけていくことにいま自分の興味があるのだろうと考えている。加藤周一は、「日本文学の<日本>とは何かというときに、私の考えでは<在日>の人たちをふくみます」と明確に発言している(『「日本文学史序説」補講』24)が、人々の民族性や出自で規定するのではなく、純粋に「日本語」で書かれたもので文学史を考えていきましょう、というところは非常に同意するところである。

 

・加藤周一『「日本文学史序説」補講』(筑摩書房、ちくま学芸文庫、2012年。)

『日本文学史序説』に取り組む前に、実はこちらから読んだ。年末年始に3-4日でばーっと読み終わった。

 

 

本書は加藤周一とその読者たちによって開かれた『日本文学史序説』の読書会についての記録で、本書の内容やポイントについて筆者自身がコメントを加えたり、読者との質疑応答が記されたりしている。『日本文学史序説』を読む前に本書をさっと読むことによって、見取り図を手に入れられたような思いがして有意義だった。

 

 

本書の中で一番印象に残ったのは、平家滅亡の後にふと夜空を見上げ、そこで星を「発見」したという右京大夫のエピソードだ。

「『建礼門院右京太夫集』という歌とエッセイの混じった著作のなかで、平家が滅びたあと大原の建礼門院を訪ねた右京太夫は、悲しい運命を嘆き、帰り道に星空を見上げます。彼女の感想は、「生まれて初めて星空を見た。星空がこんなに美しいとは知らなかった」です。私はいったい夜空のどこを見ていたのだろう。<月>は見ていたけれど、<星>は見ていなかった、というのです。実に面白い。

 右京太夫は歌人なのに、どうしてそのときまで<星空>を見上げなかったのか。私の解釈は、誰も<星空>を見上げなかったからです。みんな見なかった。和歌に<星空>をうたう習慣がなかったからです。歌の世界の約束事、conventionです。実際の<自然>ではなくて、<自然>に関するconventionがあまりに強力であったために、<七夕>と<月>しか見えなかった。ところが平家の滅亡は、建礼門院に仕えていた彼女にとっては文化の崩壊だったわけです。世界のすべてが崩れた。第二次世界大戦後の日本よりももっと深刻だったろうと思います、彼女にとって、それはこの世の終りに近かったのではないか。Convention literature文学的な約束事をふくめて、貴族社会のなかでのすべての文化的・歴史的・伝統的約束事が、平家とともに全部崩壊した。だから、はだかになって見上げたら、<星空>がきれいだったのです。彼女にとってそれは文学的約束事からの解放でした。平家の崩壊を意識しないでも──。」(53-54)

 

文学の約束事を通してしか世界を認識していなかったという、世界と認識の逆転。そこで<世界の終り>を迎えると、自然の見方が変わるし、自分の認識も変わる。「なぜ文学を学ぶことが大事なのか」という問いにも示唆を与える、非常に重要なエピソードであると感じた。

 

 

また本居宣長の話になるが、現在における文学の定義を固定化したのは、本居宣長の国学での文学観と、英国から輸入された「Literature」がたまたま共通的に手を取り結んだから、というのは大変よかった。

 

「[日本において文学の定義が狭くなったことには]二つの非常に大きな力が働いたと思います。第一の力は国学。……国学というのは賀茂真淵以来なんだけれども、ことに本居宣長の力が強かった。その影響下にあった国学の、政治的な面ではなくて文学的な面からいうと、一八世紀の後半に宣長が日本文学を定義するわけですが、たとえば『源氏物語』というのはそれまで批判のほうが強かったのです。誰が批判していたかといえば、漢学者、儒者。江戸時代のインテリゲンチャとは儒者であり、医者であり、中国古典の教養を備えていました。中国の儒教はたいへん道徳主義的だから、ああやたらに恋愛ばかりしていたのでは困ったものだと、あのようなものは教育上よろしくないというので儒者は反源氏的だった。……圧倒的な力をもつ儒者たちに敢えて小人数で反抗していたわけですから、彼は非常に攻撃的で、だいたい漢文なんてものは中国語で書かれたもので、中国語で書かれたものは日本文学とはいわない、日本文学は日本語で書かれた文学だと主張しました。歴史とか社会の方角とか政治とか倫理とか、そういうことはすべて文学ではない、文学は<もののあはれ>の自然な感情的反応の表現だということを宣長は強調した」(293-94)

 

「英国の大学で文学といっているものは何か。英文学が大学の教科になったのはそんなに古い話ではなくて、文学の授業というのは古典、ギリシャ語とラテン語を中心とした授業をしていました。英文学というのはわりに新しい科目なんです。とはいうものの、英文学という考え方は英国に長くあって、近代文学の歴史のなかではフィクションが大事な要素になっています。人によっては「小説の国」だというほど、一八世紀、一九世紀以後の英文学ではフィクションが盛んです。

 もっと古く、英国はまたシェイクスピアの国です。芝居も非常に盛んで、芝居は文学だとみなされます。シェイクスピアは詩人であり、劇作家であり、俳優であり、シェイクスピアに代表される英文学は劇作を中心とします。それで詩と小説と劇が英国文学の中心になりました。抒情詩は世界共通ですが、散文の文学に関してフィクションを強調するのは、それが英国の歴史だからです。

 それがそのまま日本にも入った。芝居と小説が文学の中心だという考え方は英国からの輸入です。ところが、英国から輸入したときに宣長を思い出すと、ちょうどぴったりなんです、国学の『源氏物語』中心主義とシェイクスピアが合致したわけです。だから、ほかのものはいらないということになって、文学の考え方は狭くなりました

 ……中国で文学というときはあくまで詩と散文であって、散文は内容の問題ではなく非常に技巧的な散文で書かれたものを文学として扱っていた。だから中国と英国では文学概念がぜんぜん違う。歴史が違うからです。しかも日本では英国の定義が国学に重なった。敵が漢文だった時代の習慣も残っている。ということでますますその傾向が強くなってしまった。それが、近代日本の文学の定義が狭くなって戦争で固定したことの理由だと思います。(297-98) 

 

思えば、英国で英文学が大学の科目になったのは十九世紀以降で、それまではラテン・ギリシア語で書かれた「古典」(Classics)こそが大学で学ぶべき科目であり、身につけるべき教養であった(イーグルトン『文学とは何か』を見返しています)。英文学は新興の学問で、古典へのアンチテーゼとしてあるという見方をするならば、日本においては国文学、そして日本における古典は漢籍というところで、そういうつながりもあるのじゃないかと合点がいった。英文学を経てから国文学に来てよかったという感じだ。

 

「──『17歳のための読書案内』で先生は『論語』を薦めておられますが、若い人に薦める文学について何かお話を。

みんなが読む本というものがあると、すこぶる便利なんです。それを引用するとすぐわかるし、新しい解釈を出してもすぐわかる。解釈の程度が微妙に高くなってくるのです。一つのものをみんなが読んでいると非常に便利です。……大勢の人が知っている古典があるということ自体が非常に大事です。

 いまの日本では何がおこったか。共通の古典は戦前のほうがまだ少し残っていたでしょう。『論語』は日本人にとってもはや共通の古典ではなくなった。近代日本文化のちょっとあやしげな、いかがわしいところは古典としての『論語』がないことです。

 西洋語圏では『旧約』もふくめて『聖書』が広く読まれています。フランスは比較的に古典主義の教育をやっていましたから、一七世紀のモリエール。ラシーヌ、パスカル、デカルト、ラ・フォンテーヌなどは共通の古典です。みんながかなりよく知っています。日本には何があるでしょうか。何もないのは、残念なことです。漱石でさえみんなが読んでいないということになると、そもそも何もないのじゃないか。私が『論語』といったのは、共通の古典をもたない社会は野蛮に近づいたということではないか、という思いからです」(283-84)

まあそれでいて日本人がみんな読んでいる共通の「古典」があるといいよね、という一冊が、『古事記』とか『源氏物語』、あるいは夏目漱石や芥川龍之介とかでもなく、『論語』なんだな!というところが加藤周一という人物を表しているのかもしれない。これは僕の適当な思い付きかもしれないし、もしかしたら直観かもしれない。

 

 

・イリーナ・メジューエワ『ピアノの名曲 聴きどころ 弾きどころ』(講談社現代新書、2017年。)

昨年のクリスマスイブ、上野にイリーナ・メジューエワさんのピアノリサイタルを聴きに行った。ショパンを全曲弾くシリーズの第2弾で、今回のメインは「24の前奏曲」だった。大変素晴らしいコンサートだった。一生の想い出に残るピアノリサイタルだ。

 

 

僕がメジューエワさんの演奏を聴いてまず「そうなんだ」と思ったのは、楽譜を置いてピアノを弾いていたところである。正直に申し上げて、ピアニストは暗譜で弾くもの、という固定観念があったのだが、まあ普通に楽譜を置いて弾いた方が聴く方も安心するよな…となんとなく思っていたら、この点について本書の中でも言及があった。メジューエワさんも昔は暗譜で弾いていたが、「どこに音楽があるのか」を考えた末に、楽譜を置いて弾く現在のスタイルに到ったらしい。なるほど。僕はもう少しこの点についてピアニストの考えを知りたいと思った。

 

 

本書では、モーツァルトとベートーヴェンの比較のところが大変良かった。モーツァルトもベートーヴェンも、「自分は天から才能が与えられた」という自覚があったが、その才能に対する態度の違いが面白い。モーツァルトは、「神様、自分にこんなに才能をくれてありがとう!」と言える人物である一方で、ベートーヴェンは、「神様からこんなに才能を頂いたのに、その半分も使えていなくて申し訳ない」という気持ちを抱いている。神に対してModest(謙虚)か、自分に対してModestか、というそこは対比軸が引けるのだなというところは非常に合点がいった。

 

<映画のこと>

・パーシー・アドロン監督・脚本『バグダッド・カフェ』(西ドイツ、1987年。)

『バグダッド・カフェ』ポスター(C)1987 Pelemele Film GmbH

 

数年前の『ごちうさ』展において、『ごちうさ』のオマージュ作品として言及がなされていた映画。仲のいい人たちと鑑賞会を開いた。映画自体はあまり理解したとは言えないのだが、日曜の午後にゆったり観る映画として最高だった。

 

 

舞台はラスベガスに向かう途中にある、砂漠のダイナー兼カフェ「バグダッド・カフェ」である。ドイツ人旅行者のジャスミンは、夫と車の中で喧嘩してしまい、一人カフェに立ち寄る。カフェでは、女主人・ブレンダが仕事をしない夫を怒鳴り散らし、追い出してしまっていたところであった。多様な人が集まるカフェは、当初ギスギスした雰囲気であったが、ジャスミンがお節介を働きかけることによって徐々に環境が改善されていく。最初はジャスミンに反発していたブレンダも、次第にジャスミンと打ち解けるようになり、笑顔を取り戻す。

 

 

ぶっちゃけ言うと、男4人で観るには若干退屈な映画であったことは否めないのだが、話の筋を熱心に追いかけるというよりは、映像の雰囲気や温度感をゆったりと楽しむ映画で、なかなか味のある映像がたくさん出てきてよい。特に朝焼けのシーンがすごく綺麗で印象的だった。

 

 

『ごちうさ』要素としては、マジックが出てきたところがあまりにもドンピシャで、そこはちょっと興奮さえしてしまった。カフェがマジックで盛り上がるところは、『ごちうさ』3期の映像を思い出させる感じがしてよい。

喫茶店でファミリー的な共同体が出来上がるところがまさに『ごちうさ』の核だなという感じで、『ごちうさ』が本作に影響を受けたというのはよく理解できた。ジャスミンのパーソナリティがいまいち見えない感じは、ココアさんのミステリアスさともつながると言えなくもない。

 

 

それにしても、映画の最後のジャスミンの台詞からばすっとエンディングに入っていくところがとてもよかったなあ。女性同士の結びつきをまざまざと見せつけられた感じがして、僕は本作の結末の評価がかなり高い。

 

・ジャン=ピエール・ジュネ監督・脚本『アメリ』(フランス、2001年。)

 

『アメリ』デジタルリマスター版(C)2001 UGC Images-Tapioca Film-France 3 Cinema-MMC INDEPENDENT-Tous droits reserves

 

同じく『ごちうさ』がオマージュした作品その2。なんだか映画欲が高まっていたので『バグダッド・カフェ』を鑑賞した翌日に観た。非常によかった。画面がとにかく独特の感性で作られており、楽しい映画鑑賞体験だった。

 

 

本作の感想としてよく言われるような「アメリが幸せを運ぶいたずらをする」というよりも、アメリはああいった間接的なかかわり方でしか世界や他者に関係を取り結べない、という話だったと個人的には思っている。そんなアメリが、初めて自分のために主体的に行動して人生を変えたのがニノへの恋だったというところで、ラブロマンスとして上質である。

 

 

あと個人的に気になったこととしては、なんだか死が前景化しているシーンが前半に多いというところで、アメリのお母さんが飛び降り自殺に巻き込まれて突然死ぬというところを筆頭に、色々な場面で死の要素が顔を出す。だから最初は実は怖い話なんじゃないかと思ったのだが、ニノへのラブロマンスに突き進んでいくにつれてそういう感じは控えめになっていく。色々な批評や感想を見たが、この点について語っている人はほとんどおらず、批評のひっかかりとしていいのかもしれない。

 

 

『ごちうさ』との関連については、こちらは直接的な影響関係はあまりわからなかった。だが、ココアさんがアメリっぽいのはなんとなくわかったような気がしており、ココアさんが他者を気にかけすぎるあまり自分に興味関心が向いていないところや、自己肯定感が低いところ(自分が褒められるとすぐに否定しにかかるところとか)が、もう少し自分のことも愛してあげられればより魅力的なのにな、というところである。

 

・増井壮一監督、横谷昌宏脚本『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』(2023年)

 

『青春ブタ野郎はランドセルガールの夢を見ない』(C)2022 鴨志田 一/KADOKAWA/青ブタ Project

 

 

久しぶりの『青ブタ』映画、かつ久しぶりの業後アニメ映画鑑賞だった。

 

 

前回『青ブタ』映画を観た際に、『ゆめみる少女』と『おでかけシスター』を対として語ったが、本当は『おでかけシスター』と『ランドセルガール』が対であったというのを理解した。以前にも書いた通り、僕は『ゆめみる少女』が「青ブタシリーズ」のお話としては一番好きなのだが、『ゆめみる少女』はジュブナイルSFとしての本作のハイライト的な作品だったので、『おでかけシスター』と『ランドセルガール』はその話の後に必要な後日談を丁寧にやったという印象がある。有り体に言ってしまえばこの2作はかなり地味で、ジュブナイルSFというよりは青春物語や家族の物語としての性格が強い。

 

 

今までの『青ブタ』映画3作の中で、本作が一番よかったとまずは率直に感じている。非常に心地よいテンポ感で、業後観る映画として最高の部類だった。そして、本作で展開される家族のお話が普通によくて泣きました。お父さんが一人暮らししているアパートのひなびた感じがすごく生活感があったのと、「ああここで家族の時間が過ごされていたのだな」という確かな手触りがあったのがよかった。

 

 

本作では主要な新規キャラが特に出ずに(途中出てきた赤城郁美はほんと誰?ってなったけど、彼女の活躍は今後の挿話なのだろう)、梓川家と麻衣さんの挿話になっているのが良かったのだと思う。アニメ後半からずっとやってきた花楓-かえでの挿話としても本作が集大成感があった。本作の花楓は、なんだかすごく年相応の女の子として魅力的に見えたというか、成長を祝福したくなったというか、親のような気持ちになった。

 

 

そして本作の主人公はまぎれもなく咲太自身だ。今まではずっと彼の周辺にいる女の子たちにハイライトが当てられていたが、本作では紛れもなく咲太くんのための物語だった。本作は、咲太くんが大人になったことを優しく祝福してくれる挿話である。

 

 

それにしても、本作の麻衣さんめちゃくちゃよかったなあ。中盤の咲太くんのピンチの場面でのクリティカルな台詞、とんでもない破壊力だった。それまでのロジックを全部ぶん投げて、ここで映画が終わっても許される力があったのは、特筆すべき点である。大学生編も楽しみにしています。