2023年1月に読んだ本たち+映画・アニメのこと | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

明けましておめでとうございます(今さら)

今年も本ブログをよろしくお願いいたします。

 

 

・ヴァージニア・ウルフ『青と緑──ヴァージニア・ウルフ短編集』(西崎憲編訳、亜紀書房、2022年。)

今年も読書記録の1発目がヴァージニア・ウルフとなった。本ブログお馴染み、20世紀のイギリスが生んだ偉大なるモダニズム作家である。本ブログを読んでくださっている皆様もそろそろお馴染みになりましたよね??

 

 

今までそこそこウルフの著作を読んできたと自負しているが、短編集はウルフのエッセンスがひときわ強いと感じた。本短編集には「文章」としてしかジャンル分けできない、あまりに難解で何が書いてあるのかよくわからないものも多い。思うこととしては、「意識の流れ」の手法が先鋭すぎて、一人称と三人称が溶けすぎててよくわからない作品が多かった。よくこんなん日本語に訳せたな、と思う一方で、英語の原文もいまいち曖昧なんじゃないかと思うところがある。例によって1月は夜に睡眠導入剤として本作をちびちび読んでいたわけで、今まとめる段になって結構困っている。何を読んでいたのか、自分でもうまく説明できない。

 

 

「ボンド通りのダロウェイ夫人」が興味深かった。長編『ダロウェイ夫人』の前に書かれたものらしいが、『ダロウェイ夫人』のスピンオフ、あるいはあり得ただろうヴァリエーションとしても読める。『ダロウェイ夫人』とめっちゃ似てる!と思って読み返してみたら、わりと展開は違っていた。まあやはりそう思わせるのは文体の妙か。

 

 

訳者解説にある「わたしたちはウルフを読むときただ作品を読んでいるのではなく、そうしたコード[自殺、神経症、フェミニズム、同性愛、異父兄弟からの性的虐待、など]のなかに組み込まれた作品を読む。ヴァージニア・ウルフというテキストのなかのテキストを読んでいるわけである」(247)という言葉が非常によい。ウルフの短編小説はまだウルフ研究の中で途上の領域にあり、ウルフのコードから比較的自由になっている作品たちであるという指摘も。長編ももちろん良いのだが、ウルフの鮮烈さは短編小説で最も発揮されているかもしれないと感じた。

 

・井上喜久子『井上喜久子17才です「おいおい!」』(主婦の友インフォス、2022年。)

(C)Kikuko Inoue & Sufunotomo Infos Co.,Ltd.2022

 

井上喜久子さん、本当にお綺麗である。マジ17才。それでいて『平家物語』の平時子さんの強い妻・母の説得力が凄かった。幼い安徳くんに「水の底には都があるんですよ」といって入水を促すシーンの、その怖さと悲しさが忘れられない。

 

 

自叙伝パートはぱらぱらと読んでいるだけでレジェンドの方々のお名前がごろごろと出てくるのが面白い。あと、『ガールフレンド(仮)』で本当に17才の役を演じられており、「日頃『17才役はいつでもOKです』と言っているわりに、毎回収録ではあの声が出るかどうかドキドキしている」と語っているのが、なんかすごくいいなと思ってしまった。

 

 

娘であり、同じく声優である井上ほの花さんとの母娘対談が非常によい。それまで母親としての喜久子さんから「あれをしろ、これをしろ」ということは言われたことがなかったのに、声優を始めてからは、声優の先輩としての喜久子さんからお芝居に対して「ああした方がいい」ということを言われて、それはなんだかイヤで聞いてなかったという話が、リアリティがある。喜久子さんからしても、世に出るものだからという気持ちがあって、ちょっと上から目線で言っていたかもしれないと振り返られている。親子で同じ仕事を選ぶっていうのは、そういうことなのかという気づきがあった。

 

・Quro『恋する小惑星(アステロイド)』(5)

 

『恋する小惑星』5巻表紙。(C)Quro/芳文社

 

1年以上ぶりとなる『恋アス』の新刊である。

 

 

『恋アス』はみら・あおの主人公2人の関係性の挿話がメインとなっていたが、本巻ではメイン2人以外のカップリングがかちっと固まった印象がある。桜先輩とモンロー先輩、ナナチカ、イノ先輩とイヴ先輩、などなど。その中でも特にいいなとなったのはすずとみさ姉の関係性の挿話で、主人公たちを差し置いて本巻のハイライトの挿話だと思ってしまった。すずちゃんにはぜひ頑張ってほしい。

 

 

『恋アス』は他のきらら系作品と比べても時間の流れが早く、1巻で新入部員として入ってきたみら・あおが、5巻で早くも3年生になって地学部を取り仕切る側に回っている。『恋アス』がどこまでやるのかというのはかなり気になっているところなのだが、本巻で大学生になったみさ姉が素粒子物理学を学びたいと言っているのを見て、キャラクターたちのやりたいことの本丸は大学に入った後だし、もっと言えば大学院に入った後だよなと思ってしまったので、まだまだ先は長い。Quro先生はこの先も非常に大変だと思うけど、選んだ題材が学問だとそういうことにならざるを得ないのではないか、と思うところもある。

 

<映画・アニメのこと>

 

・『THE FIRST SLAM DUNK』(脚本、監督:井上雄彦、2022年。)

 

(C) I.T.PLANNING,INC. 2022 THE FIRST SLAM DUNK Film Partners

 

とても偉大な映画であり、偉大な達成である。原作者・井上雄彦が手掛けるからこそ許される、スポーツ漫画の正典をさらなる高みへと導く偉業。2023年初頭にして、衝撃と興奮を与えてくれた映画として今年のNo.1が決まってしまった感がある。

 

 

スポーツ漫画かつジャンプ作品は自分の趣味の領域から最も遠いところにあるのだが、こんなにも面白いのはさすが『SLAM DUNK』という感じである。バスケットボールのルールすら怪しいとか、視聴者のバスケに対するリテラシーがそんなレベルであっても、描かれるバスケの試合がちゃんと面白いし、作中の観客と同じ熱量を共有させられてしまったことがシンプルにすごい。

 

 

まず作画のレベルがとんでもない。最初の1on1の描写からもうそのことがびんびんに伝わってきており、並大抵でないリソースがかかっていることがよくわかる。その作画技術のレベルの高さを最初から最後まで余すことなく繰り出してくるから、純粋なアニメーションとしても一級の完成品となっている。1試合で2時間を使い切るというそのこと自体がもはや曲芸的なのだが、キャラクターの見せ方・構成の仕方の工夫だけでなく、単純に作画技術の高さが本作の強度の高さを下支えしている。絵や記号を積み重ね、まるで本物の人間かのようにAnimateしていく手法においては、やはりスポーツによる身体駆動の描写が王道なのだなと『明日ちゃんのセーラー服』を観ている時に感じたのだが、その認識をさらに強める結果となった。

 

 

スポーツ作品やジャンプ作品に対する語彙と知識がほとんどないため、何というか褒め言葉しか出てこないのでいったんこの辺で。僕はメガネくんにもちゃんとフォローが与えられているのと、対戦相手の強豪がただの記号的な敵でなく、彼らは彼らで考えていること・大事にしていることをちらっと見せる(それも、メインの湘北メンバーたちの印象を食わない必要十分な量に留めている)のがよかった。特に「自分に必要な経験をください」と神頼みしたら負けを与えられたというのが上手すぎて唸ってしまった。スポーツを始めとする勝負事においては、負けを知らないことにはより高みには行けないのだな。

 

・『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』(監督:長井龍雪、脚本:岡田磨里、2011年。)

 

昨年末に別アニメを観るためにU-NEXTを始めたため、アマプラなどにはなかった『あの花』をついに観ることができた。

1月のある週に、4日で完走した。その4日間は仕事・生活・『あの花』しかしておらず、かなり久しぶりに1つのアニメ作品に没入した。大変素晴らしい作品だった。文学的批評に耐えうる強度の高さを持ち、さらに震災直後に放映されていることの意義も然ることながら、茅野愛衣さんワークスとしても必修作品だった。

 

 

4日間は夢中になって観ていたのだが、正直に申し上げてこれはもっと早い時期に観たかった感がある。高校生のときに観ていたら間違いなく一生の指針となる作品であっただろうし、深夜アニメを観始めた2018年に出会えていたら、『高木さん』や『よりもい』と並んで基準軸となっている作品であったように思う。

 

このような書きぶりでも推察される通り、修論を通過した今の時点から見ると、『あの花』ファンが怒りそうなクリティカルなところが色々と目についてしまい、十全に楽しめたかというと微妙である。

 

一番思ってしまったのは「超平和バスターズ」の6人の中でめんまだけが第二次性徴が遅く、彼女だけが幼いままであったために共同体が崩壊してしまったのだろうな、という邪推である。めんまが不幸な事故で若くして亡くなってしまったのは間違いなく悲劇だが、「超平和バスターズ」という共同体はたとえめんまが亡くならなくても多かれ少なかれ人間関係のもつれで瓦解していたんじゃなかろうかと思う。めんまとじんたんは両想いであることが最終的に明示されるが、それを伝えるめんまの言い方が「およめさんになりたい」というところでオシマイだと思ってしまった。それはじんたんの「好き」と質が違う。じんたんがめんまを欲望してしまうよう(そして、他のキャラクターたちが叶わない恋に思い悩んでいるのと同様)に、めんまもじんたんを欲望してしまうフェーズに行かないといけなかったのだ。

 

もう1つ蛇足的に言うと、めんまは茅野さんヴォイスだから許されている感じがあるが、実際ちょっと鬱陶しくないか?と思ってしまったところに、岡田磨里脚本の意地悪さが出ている。最終的にみんな「めんまが大好き」というところに落ち着いていったが、男も女もめんまに情緒を乱され、叶わないと思わされ、「こいつなー」と思ったこともあるだろうというところと、めんまが幼すぎてそういうところに関心を向けられていないところが、またたちを悪くしている。これでは死人の悪口になってしまっているので以上とする。

 

 

本作を観ているときに会社のお世話になりまくり大好き先輩と日次で会話をしていたのだが、「『あの花』は1話の時点で着地すべき点が決まっているんですよね」「残された者たちはめんまの死を受容しなければならないし、めんまは成仏しなければならないし、共同体は再生されなければならないんですよね」といったことをつらつらと言っていたら、「君はどんなアニメを観るときもそういう風に評価軸をもっているの?」と聞かれてしまったのだが、長らく文学界隈にいたことの弊害がここにも出てしまったという感じである。一方で、自分の第1話時点の読みは大枠としては正しく、最終話まで観ると果たしてその通りの結果となったため、やはりこの題材を選んでしまった以上王道を逸脱することは倫理的に許されないよな、という思いを強く持った。そのことは完全に正しいことであるが、あまりに倫理的・道徳的に正しい結末を迎えていったところに、若干の物足りなさを感じないこともない。

 

 

さて、本ブログに何度か登場してきた国文学者・ポップカルチャー研究者の千田洋幸さんの論文に、「死者と可能世界──村上春樹の一九九五年/『あの花』の二〇一一年──」がある(『危機と表象』所収)。この論文では、『あの花』において生きている者が死者との邂逅を経て「この」世界を生きていくことを肯定すること、そしてそのような道を啓く死者との対話可能性を提示したところを評価している。

 

本論で引用される、東日本大震災の被災地で目撃された幽霊話が、『あの花』の描写をそのまま持って来たかのような証言であることに驚かされた。亡くなった子供がよく遊んでいたアンパンマンのおもちゃに、なぜかスイッチが入って動き出したり、数年前に亡くなった子供たちが成長した姿で父親の前に現れたり、など。

 

自分は、本作が震災の直後、2011年の4月から放送されていることが、本当にあまりにも偉大だなと思ってしまう。当時この物語のおかげで救われた人がたくさんいたのではないだろうか。先ほどは倫理的にあまりにも正しすぎることに若干の不平を述べたが、2011年という時分にこの物語が要請されていたのは間違いないので、そのことの評価や意義を見誤ることは避けるべきとも思う。

 

 

余談だが、本作が放映されていたのは2011年は当時自分も高校生で、その意味では作中のキャラクターたちと同世代であるため、作中に出てくるあらゆるアイテムが自分の世代にドンピシャで刺さってしまった。特に「ですよ。」を持ってくる岡田磨里のセンスに痺れてしまった。個人的な事情があり、高校時代のエモに浸りたいフェーズだったので、その意味でも本作を今観れたのはなんだか大変よかったです。