渋谷TOEIの想い出
2022年12月4日、渋谷TOEIが閉館した。
映画館は渋谷の宮益坂の入口にあり、小さいながらも確かな存在感を放っていた。
渋谷TOEI館内の写真(筆者撮影)
11月末の祝日、『デリシャスパーティ♡プリキュア』の映画『夢みる♡お子さまランチ!』を閉館間際の渋谷TOEIで鑑賞した。
秋の祝日の昼下がりの回だったため、プリキュアイベントか?と錯覚するほど親子連れが押し寄せており、大盛況だった。それなりの年数プリキュア映画を劇場で鑑賞しているが、間違いなく一番ちびっ子が多いプリキュア映画体験だった。
それは、もう間もなく閉館してしまう渋谷TOEIだから、という理由も確実にあったように思われる。
思うに、渋谷近辺に住んでいる家族連れにとっては一番アクセスしやすい映画館だったのではなかろうか。加えて、渋谷TOEIはこじんまりとしていながらも、レトロな空気をまとい落ち着いていてかつ治安のいい映画館なので、ここがなくなるのは普通に寂しい。
来年夏にはまた新たな映画館ができるようだが、歴史ある商業施設がどんどんと渋谷から姿を消していく(※1)ことを、かなり残念に思っている自分がいる。なんだかんだ、渋谷近辺で生活を始めてからもう10年が経とうとしているので。
象徴としての「お子さまランチ」
さて、『夢みる♡お子さまランチ!』の感想に移っていきたい。
脚本・田中仁のプリキュア映画は『星のうたに想いをこめて』以来3年ぶりとなるわけだが、さすがの手腕と言うべき非常にまとまっている完成度の高い物語となっていた。
田中脚本のかなり好きなところとして、映画冒頭が必ずプリキュアのバトルシーンから始まりキャラクター紹介へと移行していくところが挙げられる。開幕早々からヒーロー映画としての見せ場を作りつつ、初見の視聴者にもわかるようにキャラクター紹介を端的に行っているところが非常に素晴らしい。例えば『名探偵コナン』の映画では、アバンの後にメインテーマが流れ、「俺の名前は工藤新一、高校生探偵で~」というお決まりの自己紹介をしてくれるターンは、もはや様式美すら感じる恒例の流れとなっている。シリーズものの映画作品のこういうところが好きで、プリキュア映画についてもOPをBGMとしたバトルシーン+キャラクター紹介が恒例の様式となればいいのにな~~と思っているところがある。
本作の主人公はコメコメであり、映画タイトルにもある通り「お子さまランチ」が重要な役割を果たしている。
(C)映画デリシャスパーティ♡プリキュア製作委員会
本作の内容は結構難しい。その難しさは、「子ども/大人」の二項対立のどちらかに寄せるのではなく、その合間にあることが最も良いというメッセージに収斂されるところにある。このことは、ヒーローであるゆいに憧れるあまり、幼くて無力である自分のことを1度は否定しながらも、今のコメコメのままの姿でもう悲しみの中にある他者を救えている、という結末の在り方を考えると妥当な読みなのではないかと思っている。
このことを考えるにあたって、本作全体を通して象徴的な役割を果たしている「お子さまランチ」が極めて重要となる。
お子さまランチは、まずわくわくする食事メニューとしてある。当たり前だが、定食にはないわくわく感とエンターテインメント性がお子さまランチにはある。お子さまランチに盛り付けられているハンバーグやオムレツ、おにぎりに旗を立てる意味は、本質的には特にない。特にないが、そっちの方が楽しくないですか?というところで、十二分に意味を持っている。
続いて、お子さまランチはお子さましか注文できないというところも重要である。大人になると、お子さまランチはもう頼めないのである。
なので、お子さまランチは本質的にお子さまのための食べ物ということになるのだが、そこで早く大人になりたいという子どもの願いと反発を生むことになる。「コメコメはもう大人だから、お子さまランチは食べないコメ!」と、こうなるわけである。
しかしながら、物語の終盤でコメコメはこのように言う。「ちっちゃいとかおおきいとか、かんけいなかったコメ。」
この台詞が本作で一番大事なメッセージだと私は受け取る。子どもと大人の二項対立にこだわることだけが本作で明確に駄目だとされていることで、多分駄目とされていることはそれしかない。それを象徴するのがお子さまランチで、別に大人になってもお子さまランチを食べてもいいし、いつまでもわくわくする気持ちを忘れないでほしいというところにメッセージが集約されている。
子どもの時の純粋無垢な気持ちは、大人になると失われてしまう、というのは非常にありふれた着想であるし、それ自体に新規性はない。
しかし、「お子さまランチ」を象徴的なアイテムとして持ってきて、子どもの食べ物かもしれないけれど、大人が食べてもよいのだと「子ども/大人」の対立を切り崩すところは、大変鮮やかで素晴らしいし、単純に「大人になること=成長すること」として肯定していないのがよい。
さらに、本作における「お子さまランチ」の位置はそのまま「プリキュア作品」ひいては「子ども向け作品」全般に置き換えられると思っており、子供向け作品を大人が観ても良いのだというメッセージと読みとれるところは、プリキュア作品を愛好する大きなお友達ファンとしては励みになるように感じられた。
何度も言うように、自分は文学の中でも詩の人なので、「お子さまランチ」というアイテム1つで様々な想念を象徴させる手腕がバチっとはまってしまった。本作の評価の高さは、やはりまずはそこにあるのだと思う。
食事、言葉、記憶
本作は幼き日のゆいの回想から始まる。
ある雨の日、お店の前で偶然出会ったお腹を空かせている男の子を、ゆいはなごみ停に招いてごはんを食べさせてあげる。
作り置きのお惣菜とおにぎりをそのまま提供しただけでは、その子は食べてくれなかった。しかし、ゆいは機転を利かせて、1枚の大皿に品目を集め、おにぎりに旗を立てて「お子さまランチ」に仕立てあげる。すると、その子は食べてくれて笑顔になるのだった。
この体験は、ゆいを突き動かす「ごはんは笑顔」の原体験の1つとしてある。
同時に、「お子さまランチ」はここでも誰かに食べさせてあげる食事として、『デリシャスパーティ♡プリキュア』の作品全体を通して重要な位置を占めるようになる。
物語の終盤、その時の男の子が再び笑顔を失ってしまった現状を目の前にして、ゆいは迷いを抱える。どうしようもなく辛いことがあって心が粉々に砕けてしまったとしたら、「ごはんは笑顔」でも救えないときがあるのかもしれない…?
ここでゆいはいつもの固い信念がゆらぎかけるのだが、「でもケットシーさんは今もお子さまランチが大好きコメ!」とコメコメが伝える。このシーンを見るに、やはり本作はゆいではなくコメコメが主役なのだなあという印象を改めて強く持つわけであるが、ここで3人が一緒にお子さまランチを食べるシーンは、あまりにも良くて涙を流してしまった。ケットシーはようやくここでお子さまランチを食べる。お子さまランチは、一人で食べる食事ではなく、みんなで食べる食事なのだ。
本作は食事をテーマにしている。だが、食事そのものではなく、誰かと食べた経験であったり、作ってくれた人への感謝の気持ちであったりと、1回1回の「食事」の裏にある、人間の感情や意識に強くハイライトが当たっている。
一つ一つの料理自体は、当然ながら食べたら無くなるものであるし、食事とは生きていく上で何度も繰り返し行っていく消費的な行為である。しかし、1回1回の食事が身体を作り、健康を作り、明日を作っていくことになるので、脈々と受け継がれていく行為としてもある。その点においては、食事とは決して刹那的・消費的な行為ではなく、連続性を持ち、かつ積み重ねられていく行為としてもあるのだ。
本作において、食事と同じく重要な位置を占めているのが言葉である。言葉も食事と同じで、一つ一つの言葉は刹那的で形の残らないものであっても、言葉の積み重ねによって人格が形成されていく。そのことは、おばあちゃんの言葉をずっと大切にしており、「おばあちゃん言ってた!」を事あるごとに繰り出すゆいを見れば、明らかな通りである。
ゆいが気づいた通り、人間がひどく絶望した状況においては、「ごはんは笑顔」では救えないときがあるのかもしれない。
それでも、あの日ゆいに救われたケットシーが常にお子さまランチを大切にしていた通り、救われた経験というのは必ず何らかの形で残るし、逆に「ごはんは笑顔」でしか救えないときもあるのかもしれない。
形は残らないが、確実に形として残っていくもの。この想念こそが『デリシャスパーティ♡プリキュア』が描きたいテーマなのだと捉えている。だから、『夢みる♡お子さまランチ!』は、本作の思想を理解するうえで非常によくまとまっている作品としてやはり完成されている。
「トロピカってヒーリングっとできらヤバ~☆なお子さまランチ」
(C)映画デリシャスパーティ♡プリキュア製作委員会
さて、ここからは雑感である。本編の後にやってくる短編「わたしだけの→みんなのお子さまランチ!」が、本当に好きすぎるのである。トロプリチームはいつもの平常運転であるし、のどかさんは相変わらずふわぁ~っとしているし、星奈ひかるは変わらずいつもの彼女独自の空気感にしてくれるところが非常に頼もしい。加えて、「そんな都合のいい人がいるわけが…?」とか毎回言って丁寧に登場を振るキュアフィナーレさんが本当に好きだった。真面目で格好いい彼女にしかできないお笑いのスタイルというのがある。非常に祝祭的で楽しく、大好きな作品である。
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※1:渋谷の東急百貨店本店も、2023年1月末をもって閉館する。渋谷に行く目的の大部分を占めていた商業施設であるため、ただただ残念である。