2022年10月に読んだ本たち+映画のこと | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

今月は冊数が少ない分、1個1個の濃度を上げてお届けしたいと思います。

 

・村上春樹『スプートニクの恋人』(講談社、1999年。Kindle版。)

ロンドン出張へのお供としてチョイスした一冊。ロンドンに向かう飛行機の中で貪るように読み、帰国後も10月いっぱいをかけて丁寧に読み込んだ。深く共鳴してしまったように感じる、とても素晴らしい一冊。

村上春樹は短編、中編、長編どれも固有の魅力がある作家だが、『アフターダーク』『色彩を持たない多崎つくる』と並んで『スプートニク』がかなり気に入ったので、自分は中編が一番得るものが多いと感じるタイプなのかもしれない。

 

 

本作の人間関係はかなりコンパクトで、主要人物が3人いる。語り手である小学校の教員をしている「ぼく」、「ぼく」の親友であるすみれ、そしてすみれが激烈に恋に落ちるミュウの3人である。

 

「ぼく」とすみれは互いが互いに大切な存在でかけがえのない友人としてあったが、「ぼく」がすみれを女性として好意を持ち欲望も抱いてしまう一方で、すみれには性欲がなく、男女の関係になることはなかった。そんなすみれが、ふとしたきっかけで出会ったミュウという女性(17歳も年上かつ既婚者)に急激に恋に落ちてしまい、自身の中にも誰かを好きになる感情と欲望があることに気づかされる。そして、ミュウと出会ったことを機に内面と外面が大きく変わっていく。

 

小説家を目指していたすみれは大学を辞めプー太郎な生活をしていたが、ミュウの秘書として彼女が営む貿易会社に勤めることになる。ミュウとすみれは仕事でヨーロッパに渡り、二人で生活を共にしていた。そんなある日、ミュウから「ぼく」のもとに国際電話が入る。ロードス島の近くにあるギリシャの小さな島で、突然すみれが消えてしまったのだという。

 

 

本作は典型的に村上春樹的というのがまず間違いなく言えることで、「こちら側とあちら側」(『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』『神の子どもたちはみな踊る』『アフターダーク』)「女性が突然消える」(『ねじまき鳥クロニクル』)「月」(『1Q84』)と本作の要素をいくつか挙げただけでも別作品との関連性を容易に連想することができる。それでも、自分が本作に抗いがたい魅力を感じずにはいられないのは、タイトルである「スプートニク」のモチーフがあまりにも卓越しているからだ。

 

本作の扉にはスプートニク計画の概要が記載されている。ソ連が1957年に打ち上げた人工衛星・宇宙船である「スプートニク2号」には、ライカという名の犬が乗せられていた。スプートニク2号及びライカの地上への帰還は当初より考慮されておらず、ライカは打ち上げから程なくして死ぬことが予め想定されていた。ライカは宇宙計画の中で初めて犠牲となった動物となるわけだが、一人孤独に衛星として地球の周りを回る様子がイメージされている。

 

 

本作のテーマは「孤独」で、「ぼく」、すみれ、ミュウの間で充足されない関係性が描かれる。お互いに大切な存在ではあるが恋人関係にはなれない「ぼく」とすみれ、旅の同行者としては素晴らしい間柄だったが、それ以上の関係にはなれないすみれとミュウ、観覧車に閉じ込められるミュウの挿話はまんまスプートニク2号に取り残されるライカのイメージそのものと、本作のお話は「孤独」というテーマの周りをあの手この手でずっとぐるぐる回っている感じがある。

 

わたしにはそのときに理解できたの。わたしたちは素敵な旅の連れであったけれど、 結局はそれぞれの軌道を描く孤独な金属の塊に過ぎなかったんだって。 遠くから見ると、それは流星のように美しく見える。 でも実際のわたしたちは、ひとりずつそこに閉じこめられたまま、どこに行くこともできない囚人のようなものに過ぎない。ふたつの衛星の軌道がたまたまかさなりあうとき、 わたしたちはこうして顔を合わせる。あるいは心を触れ合わせることもできるかもしれない。でもそれは束の間のこと。次の瞬間にはわたしたちはまた絶対の孤独の中にいる。いつか燃え尽きてゼロになってしまうまでね」(150-51)

 

「こちら側・あちら側」の話をすると収拾がつかなくなってしまう気がするが、1点だけ。

加藤典洋『村上春樹は、むずかしい』において、本作での言及は物語の終盤・にんじんという生徒が万引きをした挿話に焦点が当てられている。「ぼく」が担任をする生徒のにんじんがスーパーで万引きを行い、スーパーの警備主任のおじさんに「ぼく」が呼び出される(警備主任はすげー嫌なおっさんで、村上春樹世界に出てくる嫌なおっさんはいつも紋切り型だなと思わされる)。にんじんの目は映ろで、半分あちら側に行ってしまっていたが、スーパーからの帰り道で「ぼく」がギリシャでの出来事とすみれのことを話しているうちに、徐々に目に光を取り戻していく。「ぼく」もギリシャの夜で月の光と謎の音楽に導かれてあちら側に行ってしまいそうになっていたわけだが、なんとか思いとどまっていた。その経験を、同様にあちら側に行ってしまいそうなにんじんに語り伝えることによって、彼をなんとかこちら側に踏みとどまらせることができた、とそう読めるのではないだろうか。物語が、あちら側からの干渉を防ぐ強力な手立てなのだという発想法は、確か『神の子どもたちはみな踊る』の中の「蜂蜜パイ」もそういう話だったなと思うところでもある。

 

 

もう一度孤独のテーマに立ち返り、自分の生活世界に引きつけて最近思うことを話したい。

人は本質的に孤独ではないか。孤独な人々が揺るぎない関係性を築くにはどうすればいいのか。生涯を共にする伴侶がいる人は、二人の関係性を強めていけばいいと思うが、既定の恋人同士の関係に当てはめられない「ぼく」とすみれやすみれとミュウ、あるいはそういうかけがえのない存在さえもいない孤独な人はどうすればいいのか。

 

自分が最近思うのは、「職場や趣味の場などでしか会わない人」「別に大して仲良くない人」「この先一生会わないであろう人」に対して、「私は今日あなたと交流を持ちました」という確かな軌跡を積み重ねていくことこそが、孤独へと抗う手段になるのではないか、ということである。

 

例えば、この先もう二度と会うことはないだろう旅行先の添乗員のおばちゃんと「今日はあなたのナビゲーションのおかげでめっちゃ楽しかったです」「気をつけて日本に帰ってね」と言葉を交わすこと。

例えば、職場の清掃員や自販機の飲み物を補充している人に対して挨拶をすること。

例えば、仕事の関係でしか会わないクライアントに対して、いつも誠実なコミュニケーションをすること。

例えば、好きな声優やアイドルに対して、「私はあなたのファンです。いつも元気をもらっています」と伝えること。

 

こういうことを日々積み重ねることを通じて、「わたしは友達も恋人もいないし、なんて孤独なのだろう」という深い悲しみに少しでも抗えるのではないか。あちら側に行かなくて済むのではないか。こちら側に生をつなぎとめることができるのではないか。

本作の最後の方で、ぼくは深い深い孤独と喪失感の中でも黙々と生を送っていくことができることを実感し愕然としているわけだが、20代で悟りを啓くにはまだ早すぎるんじゃないか??と反論を突き付けたくなる。すみれもフィクションの力を借りて(喉を裂いて新しい門に血をかけることができたために)こちら側に戻って来れたわけだし。

 

 

というわけで、日々考えていることに対しても示唆を与えてくれた重要な小説となった。

数ある村上春樹作品の中でも個人的な言及価値が高く、今後も事あるごとに『スプートニクの恋人』を持ち出すかもしれない。

 

・椋木ななつ『私に天使が舞い降りた!』(12)

+『私に天使が舞い降りた! プレシャス・フレンズ』の感想

 

『私に天使が舞い降りた!』12巻表紙。(C)椋木ななつ/一迅社

 

(C)椋木ななつ・一迅社/わたてんプレフレ製作委員会

 

『プレフレ』は久しぶりに業後のアニメ映画鑑賞として鑑賞したわけだが、火曜日の19時過ぎの回にも関わらず結構な数の動員があり驚いた。だだ、開始20分くらいで寝息を立てているオジサンがいたので、業後の映画館で寝ちゃうオジサンは無理せず家で休んでほしい。

 

 

久しぶりにアニメ版の『わたてん』を観て率直に思ってしまったこととしては、声と動きがつくことによってみゃー姉が花ちゃんにお菓子をあげて自前のコスプレ衣装を着させるという行為の変態性や異常性がだいぶマイルドになるというところで、正直に言って、言葉を選ばなければみゃー姉は花ちゃんを「消費」しているわけだが、アニメ版ではそういう趣きがかなり脱色されている。「可愛いからまあなんでもいっか」みたいな空気感が流れている。

 

 

本作の軸はかなりはっきりしており、みやこと花、ひなたと乃愛、小依と花音の2人組の関係性の挿話のグラデーションに焦点が当たっていることと、花のおばあちゃんとその友達のまちおばあちゃんの新しい2人組を導入することによって、「ちょっと歳が離れていてもずっと仲のいい友達がいる」と、みやこと花の関係性に対しロールモデルが提示されること、これら2点と自分は見ている。

 

花おばあのお友達のまちおばあは、初登場した際には同年齢くらいのおばあさんなのかなと見ていたら、回想シーンで花とみやこくらいの年齢差(小学生と女学生)が提示されることに驚いた。と同時に、歳をとると7つか8つくらいの年齢差ってあまりわからなくなるしどうでもよくなる(二人とも普通におばあちゃんにしか見えない)んだなあというところで、そこに妙なリアリティを感じてしまい一人笑ってしまった。

 

個人的には、3年前に「花とみやこの関係性は永遠であることが示唆されているのがいいのだ」と例の『わたてん』論に書いていたため、今回の映画で二人のおばあちゃんが出てくることによってそれが「示唆」から「明示」くらいまで行ってしまったことに対して、ちょっと不満に思っていたりもする。しかし、上段の『スプートニク』でも書いたことだが、そういう「関係性」を維持することこそが、こちら側に自分の生をつなぎとめる生存戦略なのだと最近よく思っているので、花とみやこの友情がそういう文脈に位置づけられることは、シンプルに素晴らしいことだなあと思う自分もいる。

 

いつも恥ずかしい格好をさせて写真を撮るし、時折気持ち悪い。でも、自分のことをすごく好いてくれているし、作るお菓子はとっても美味しいし、大切な髪飾りを親身になって探してくれた優しいお姉さん、と花がみやこのことをいつもそう思っていることと、この先もそう思い続けるであろうことが提示される本作は、やはり優しい多幸感に満ち溢れている。

 

 

本作の舞台であるおばあちゃんの田舎は秩父の長瀞であることが明示されているが、都心から2時間くらいで行ける田舎の描写のリアリティが大変素晴らしい。自分が特に唸ってしまったのは夜の蛙の鳴き声で、そうそう家の周りが田んぼだとめっちゃ蛙が鳴くんだよな~と実家に帰っていつも思うことを追体験できた。川下りや夏祭りなど、アクティヴなイベントもある一方で、基本的には静かで落ち着いている長瀞の魅力が確かに伝わって来たので、トラベルムービーとしてものんびり観られる完成度の高い作品だったように思います。

 

 

……原作12巻の話を全然していない。最近は毎回『コミック百合姫』ってすげえな~という感想を書いているが、今回も凄かった。というかデパート店員も小学生相手に指輪を試さすな(フィクションだからいいのです)。