2022年8月、9月に読んだ本たち | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

繁忙期をサヴァイブするのです!

 

・ウィリアム・シェイクスピア『ハムレット』(原著:The Tragedie of Hamlet, Prince of Denmarke. 初版1604年頃。河合祥一郎訳、新潮社、2003年。)

ご存知シェイクスピアの四大悲劇の1つ。重要なテクストなので、何度でも再読。

デンマークの王子・ハムレットは、父親である先代の王を毒殺される。叔父が王位に就き、母親は再婚して叔父の妻になる。ハムレットは亡霊となった父親に復讐するように唆され、気の触れた振りをして復讐の機会を窺う。やがて復讐のチャンスが訪れるのだが、最後は関連人物全員死ぬという凄惨な場面で幕を閉じる。

 

本作の筋を離れて、本書の中で一番使い勝手のいい概念は「亡霊」であると思われる。

亡霊「極悪非道の殺人に復讐せよ。」

ハムレット「殺人!」

亡霊「卑劣な殺人だ。いかなる殺人も卑劣だが、

これほど、無慙、異常、卑劣な殺人はない。」

ハムレット「早く、早く聞かせてください。

天翔ける夢の力、千里を走る恋心よりも速い翼をつけて

復讐へと飛んで行きましょう。」

亡霊「頼もしいぞ。

これを聞いて心動かぬなら、渡れば記憶をなくすという

三途の川の辺にぬくぬくと生い茂る雑草よりも鈍いと

言わざるを得ぬ。さあ、ハムレット、聞くがいい。

わしは果樹園で眠っているところを

毒蛇に噛まれたことになっている──わしの死について、

デンマーク中の耳に嘘という毒が

注がれたのだ──だが、知るがいい、気高い息子よ、

そなたの父を噛み殺したという毒蛇は、今、頭に

王冠を戴いている。」(第一幕第五場、46-47)

亡霊の教唆に導かれ、ハムレット君は自身の分を超え、ギリシア神話のヘラクレス的な英雄にならなければならなくなってしまう。苦悩する(「生きるべきか、死ぬべきか。それが問題だ」)。努力する。でも自分は平凡な人間で、英雄や神の領域には達することができなかった。だからこそ本作が悲劇として成立している。

 

 

それはさておき、このような「すでに死んでいるにも関わらず生きている人間に決定的な影響を及ぼす存在」を「亡霊」と名指してみると、この概念は非常に汎用性が高い。例えば幾原邦彦作品でいくと、『輪るピングドラム』のサネトシは自分で自分のことをわかりやすく「亡霊」と呼んでいるし、亡くなった両親は紛れもなくカンバを操る亡霊である。また、『ユリ熊嵐』に目を向けてみると、物語開始時点ではすでに退場しているにも関わらず、毎話毎話小倉唯ボイスで語りかけてくるためにやたら印象に残る泉乃純花も亡霊的存在である。後は『フラ・フラダンス』論でも書いたが、主人公・夏凪日羽の姉である真理は、生きている人間たちに影を落としたり、ぬいぐるみに憑依して妹を励ましたりと、これもまた亡霊の一形態だと自分は捉えている。このように、色々なフィクションを思い返してみると、あちらこちらに亡霊が偏在しているように感じられる。

 

 

シェイクスピアの亡霊の援用と言えばマルクスとデリダだよなーと思って適当に調べたところ、とりあえず適当な紀要論文が出てきた(飯田純也「シェイクスピアの、マルクスの、そしてデリダの亡霊たち 身体性と感情移入の劇場から見る暴力」)

 

 

よく知らなかったのだが、マルクスが『共産党宣言』で使っているのは『ハムレット』の亡霊ではなく、『アテネのタイモン』の亡霊らしい。そしてデリダが『マルクスの亡霊たち』を書く中で、マルクスの亡霊を『ハムレット』との絡みで論じていく、らしい。前掲の論文を流し読む程度ではあまりよくわからず、これ以上話を広げるのはやめておく。とりあえず、しばらくはシェイクスピアの亡霊論が気になるな、というところで。

 

・日経コンピュータ編『みずほ銀行システム統合、苦闘の19年史』(日経BP、2020年。)

・日経コンピュータ編『ポストモーテム みずほ銀行システム障害事後検証報告』(日経BP、2022年。)

久々に登場した「仕事のため」カテゴリの本。これら2冊は即オチ2コマみたいなもので、下を真剣に読めば読むほど上が面白い。特にシステム障害が原因で辞任へと追い込まれた坂井元社長が、上の本のインタビューで「(三度目の大障害は)あってはなりません」と答えているところは、申し訳ないけど気の毒な笑いが起きてしまう。

 

 

メガバンクの中でなぜみずほ銀行だけが大規模システム障害を繰り返し引き起こしているのか。本書は一般読者というよりもIT関係者や金融業の関係者(あるいはもっと上の立場の経営者とか)向けに書かれており、結構込み入った話をしている。だが、システムの専門的な話よりもより重要なのは、ITやシステムに関するところを経営の中でも最重要なトピックの1つと認識すること、そしてシステム運用にちゃんとリソースを割くこと、といったような人や会社の体制の問題なのだろうなというのが今回の気づきだった。みずほ銀行が苦節してシステム統合を行った結果であるところの新システム「MINORI」自体が悪いわけではない。むしろ、旧態依然としたシステムを使い続けている多くの他の銀行に対して、そのままずっと古いシステムを使い続けていて大丈夫なのだろうかと思うところがある。

 

・ヴァージニア・ウルフ『自分ひとりの部屋』(片山亜紀訳、平凡社ライブラリー、2015年。)

お馴染みヴァージニア・ウルフの、これまた(英文学徒にとっては)お馴染みのエッセイである。

 

 

<女性が小説を書こうと思うなら、お金と自分ひとりの部屋を持たねばならない>(10)というテーゼが全てと言ってもいい。女性が自らの精神を開放し、素晴らしい小説を書くためには、「年収500ポンド」と「個室」の2つが必要である、と繰り返しウルフは主張する。前者は経済的自由、後者は精神的自由という風に解釈できるが、ハイエク風に言えば経済的自由は精神的自由とイコールであるので、結局のところ「誰にも何もやっかまれなくていい」人生を送るためにはお金と個室の両方が必要なのだ。この真理に100年前からすでに気がついているウルフはやっぱりすごい。

 

 

本作は「女性と小説」というテーマで歴史とかつての社会状況を結びつけながら語っているため、かなり密度の濃いフェミニズム論となっている。ウルフを読む時はいつも長期戦の大格闘となってしまうのだが、本書もまたなかなか苦しい読書だった。論旨は明快でわかりやすいのだが、どうしても滲み出てしまう男と女の階級闘争みたいな趣きにはストレスを感じてしまう。ウルフは1930年代のことを「執拗なくらい性別を意識させられる時代」(171)と述べているが、21世紀も20年が過ぎた現在においても状況はあまり変わっていないように思われる。

 

 

第4章では19世紀の英国で傑作小説を書いた女性作家について語られるのだが、依然として女性に課せられた制約が厳しかったので、男性に対する怒りと怨みで作品が歪んでしまっている事例があると指摘する。本書全体を通してウルフはかなり冷静に語りを運んでいると思うのだが、第2章では「女性に関心のあるひとの中には、愛想の良い随筆家、器用な小説家、文学修士の若い男性だけでなく、何の学位もない男性、女性ではないということ以外およそ何も資格を持たない男性もいることでした」(49)という記述があり、ウルフも滲み出ちゃってる!!と思った。

 

 

総じて、ウルフ研究はもちろんのこと、英文学とフェミニズムの双方において重要な著作なのは間違いない。

だが、面白いかと思うとうーん、なかなか苦しいところである。次はウルフの小説を読みます。

 

・椋木ななつ『私に天使が舞い降りた!』(11)

『私に天使が舞い降りた!』11巻表紙。(C)椋木ななつ/一迅社

 

『わたてん』は10月に新作映画が公開されるし、それに合わせて新刊も出るので今回は軽めに。

 

今回の巻数のハイライトは表紙にある通りこよりとかのんの関係性の挿話で、「小学生は最高だぜ!」みたいなテンションで読んでいたら、急に「かの、結婚しましょう」みたいな、「そうだ、これはコミック百合姫だ」と思い出させるとんでもねえ重いブローが飛んで来たりもする。『わたてん』は全くもって油断ならない。

 

あと、最後の挿話で、千鶴(みやこ母)が他のお母さんたちをしれっと下の名前呼びにしていたのがなんかよかったです。

 

 

・博『明日ちゃんのセーラー服』(10)

 

博『明日ちゃんのセーラー服』10巻表紙。(C)SHUEISHA Inc.

 

今回の巻数のハイライトは、やはり戸鹿野さんと蛇森さんの関係性の挿話だ(「関係性の挿話」という言葉は使い勝手が良すぎるのでこれから頻出すると思う)。アニメ版の第7話「聴かせてください」と大筋では同じ流れでありつつも、明確に違う世界線の挿話として原作で描かれるのはかなり素晴らしい。こちらは二人が下の名前で呼び合う世界線なんですね。

 

 

最近の巻数では、勉強合宿、そして学園祭と話は流れていっているはずなのだが、前も論じた通り、本作は「動き」そのものを主題にしており、執拗なまでに時間を微分しているものだから、全く話が進んでいるように感じられない。8巻くらいからずっと時が止っているんじゃないのという感じさえする。大きな事件が起きず、代わり映えのない日常が繰り返されるという意味で「時間が進まない」のではなく、本当にスローモーションのカメラでずっと撮影しているかのごとく動きを分割するものだから「時間が進まない」というのは、『明日ちゃんのセーラー服』の独自性として突き詰めて考えていってもいいポイントなのかもしれない。