After the Quake, Who Helped Me? ──『すずめの戸締まり』 | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

新海誠監督最新作『すずめの戸締まり』(2022)は、久しぶりに自分の心の奥深くに突き刺さってしまう映画だった。

これは一生に残る映画だし、この先の人生で何度も参照するだろうなという感慨は、3年前のスタプリ映画『星のうたに想いをこめて』以来である。

 

 

(C)2022「すずめの戸締まり」制作委員会

 

最初に言っておくと、自分は新海誠の熱心なファンではない。

これまで、新海の作品は『秒速5センチメートル』『言の葉の庭』『君の名は。』『天気の子』の4作品を観ているが、どれも客観的には大変素晴らしい作品であることを認めつつも、心の底から好きと言える作品ではなかった。

だが、本作は自分の中での評価軸を突き抜けて行ってしまった。言い換えれば、自分は本作で初めて新海の映画を素直に受け取り、心の底から打ち震えてしまったのである。

 

 

昨年のコロナ禍で、『天気の子』論から派生して新海論を書こうと思っていたが、結局頓挫してしまった。

そして、『すずめの戸締まり』の衝撃でぶっ飛ばされ、仕事もままならなかった金曜日を終えて、今ようやく新海論に着手することができている。

 

 

僕は本論で、自身の2011年3月11日の体験に触れながら、すごく個人的な感想文を書く。そして、ネタバレにも何も配慮をせず、本作の核心となっている仕掛けにも、結末にも言及する。

最初に言っておくべきこととしては、僕もスズメの1人だったのだ。震災で大切な人を失ったり、故郷を失ったりした人に比べると、自分の震災体験の「軽さ」に鑑みてもなんと烏滸がましいことだろうと言われるだろうし、自分でもそう思う。それでも、2011年3月11日を経験した人にとっては、それぞれにとっての震災体験があるし、それが各自の人生に何らかの影響を及ぼしていることは、間違いないことであるように思えてならない。

 

こちら側とあちら側

少女は夢を見る。綺麗な星空と満月の下、苔むした廃墟の世界で母を探している。その世界では、船が建物の上に乗っている。誰かと出会い、そこで目が覚める。

 

 

物語冒頭、現実離れした美しくもどこか不気味な世界は、「建物の上に乗り上げている大型船」というシーンによって、津波の後の世界であることを指示する。苔むした緑色の世界で表象されているが、津波によって押し流された後の町である。

 

 

私たちは開始わずか1分足らずで、新海誠の最新作はついに震災そのものを語るのかと、身構えることになる。

2016年の『君の名は。』から一貫して、新海誠は作品で震災の文脈を語ってきた。だが、震災や地震を直接物語の文脈に乗せることはなかった。『君の名は。』では彗星の衝突であり、『天気の子』では豪雨災害だった。

 

本作の公開に先立ち、制作側は「地震描写および、緊急地震速報を受信した際の警報音が流れるシーン」があることを注意喚起している。緊急地震速報を受信した際の警報音は──実際のものとは違うというエクスキューズをつけつつも──かなり本物に近いそれで、地震で揺れる地面の音と相まって、本作の音声がもたらすストレスは結構強いものとなっている。

 

 

主人公・岩戸鈴芽(スズメ)は、宮崎県に暮らす普通の女子高生である。ある日彼女は、「廃墟を探している」という不思議な青年と出会う。スズメは青年が気になり、彼が向かって行った廃墟へと向かう。

その廃墟は、すでに打ち捨てられた温泉街だった。温泉宿の入口を抜け、すでに湖となっているかのような場所で、彼女は不思議なドアを見つける。ドアを開けると、夢で見る不思議な世界が広がっていた。彼女はそこへ行こうとするが、どうしてもドアをすり抜けてしまう。諦めた彼女は、何となく気になったドアの近くにあった石を引き抜く。

 

学校に戻ると、廃墟があった山から、赤黒い何かが猛烈な勢いで放出されているのを見つける。山火事!?

慌てて廃墟に戻ると、先ほどの青年が必死にドアを閉めようとしていた。ドアからは得体の知れない何かがとめどなく溢れている。空に立ち上っていった「それ」がやがてバランスを崩れ、地面に打ち付けられる。すると、大きな地震が起きる。宮崎県を震源として、最大震度6弱の地震が発生した。けたたましく鳴る緊急地震速報の警報音。

 

2人はなんとかドアを閉じることに成功する。スズメは怪我をした青年を家に上げ、傷の手当てをする。青年は宗像草太(ソウタ)と名乗る。彼は日本中の廃墟にある「後ろ戸」を閉じる旅をしているという。「後ろ戸」からは地震や疫病(※ここで、わざわざ疫病と名指ししていることに注目したい。物語本編では、疫病が後ろ戸から出てくる明確な描写はなかった。)などの厄災が出てきてしまうため、ソウタはそれを封じることを先祖代々の家業にしている「閉じ師」と自己を紹介する(入場者に配布される『深海本』より、『すずめの戸締まり』企画書前文から)。

 

スズメはやがて、窓にやせ細った猫が来ていることに気がつく。スズメが煮干しを与えると、猫がしゃべり出す。「すずめ すき おまえは じゃま」

「後ろ戸」から出てきた不思議な猫「ダイジン」の力により、ソウタはスズメの部屋にあった、前足が1本欠けたイスの姿へと変えさせられてしまう。かくして、スズメはソウタを元の姿に戻すための、そして日本中のあちこちで開いてしまう「後ろ戸」を閉じるための、冒険が始まる。

 

 

新海誠作品において、村上春樹へのオマージュはこれまでもちらほらとあった。だが、本作ではある意味露骨なまでに村上春樹を引用している。地震を引き起こす赤黒い猛烈な何かは「ミミズ」と名指されており、地面の中にいるミミズが抑えきれなくなると地震が発生すると説明されるが、これは「かえるくん、東京を救う」で登場するみみずくんの着想そのものとなっている。また、ドアでこちら側/あちら側が隔てられ、災厄があちら側の世界からやってくるという着想そのものが、阪神淡路大震災を扱った『神の子どもたちはみな踊る』を貫くモチーフであるし、『1Q84』で描かれる、急に呼び鈴を押されてドアを開けさせられる宗教勧誘/NHKの集金という要素も、僕は連想した。そもそも、「こちら側/あちら側」という着想自体が、村上春樹の色々な作品から見て取ることができる普遍的なモチーフであることを、本ブログでも度々書いてきたところである。蛇足的に言っておくと、観覧車は最近読んだ『スプートニクの恋人』だ。

 

 

2011年3月11日のこと

ここで、僕の個人的な過去の話をしたい。

 

 

東日本大震災が起きたとき、僕は高校1年生だった。地震が来たのは英語の授業中だった。

それまで経験したことのない尋常ではない揺れに、本能的に机の下に隠れた。揺れはやがて収まったが、授業は中止され先生たちは慌てていた。大分長いこと教室に待たされたが、やがて帰宅が命じられた。

 

次の日の土曜日は所属していたジュニアオーケストラの練習があったので、僕は音楽室に寄ってファゴットを背負って帰った。自宅への電話が、いつまで経っても繋がらなかったのが心配だった。

 

学校から駅までバスで行くと、駅は人でごった返しており、騒然としていた。自分の家の方面に行くバスに乗ろうとしたが、あまりの人の多さに諦め、8キロ近くある道を楽器を背負って帰ることを決心した。

 

僕が事の重大さを徐々に実感し始めたのは、家がある住宅街に近づいて来たタイミングだった。信号が止まっている。もう暗くなってきているのに、店や家に灯りがつかない。自宅に帰ると、母親が普通にいた。だが、停電していた。父親もやがて帰ってきた。その晩、結局電気がつくことはなかった。幸いにもガスは問題なく届いていたので、冷蔵庫にあった鶏肉を母親が料理してくれた。しかしながら、暗い中フライパンで焼いた鶏肉は焼き加減がよくわからず、生焼けだった。ご飯を食べ、ラジオで情報を聴きながら、家族3人で布団を並べて寝た。翌日、当然ながらオケの練習は中止となった。

 

 

僕は今東京に住んでいるが、実家は北関東にある。だから、多分東京よりも揺れた。

幸いにも、地震の揺れと停電以外に大きな被害はなかった。自分も含め家族は皆無事だったし、少し離れたところに住んでいた祖父母も無事だった。大きな揺れ、津波、そして原発の被害に遭った東北に比べると、客観的には何も大したことはなかったと言える。だが、主観的には、重い楽器を背負って長い道のりを歩いて帰ったこと、そして帰る道のりで信号が止っていることを見つけた驚きと怖さは、一生忘れることができない「震災の経験」としてある。

 

 

それから11年が経った。震災は過去の出来事になりつつあるが、自分にとってはそれでもまだかさぶたくらいの状態なのではないかと思うことがある。

 

昨年公開された『フラ・フラダンス』も、震災を直接的に物語の文脈に乗せる映画だった。そして、僕は『フラ・フラダンス』に深く共鳴してしまったのも記憶に新しい。

 

『すずめの戸締まり』も、物語冒頭からとっても心地よい雰囲気に包まれながら、めちゃくちゃ面白く観ていたが、あまりにも直截に震災が扱われているため、物語の要所要所で時折強いストレスを感じずにはいられなかった。ミミズが後ろ戸から物凄い勢いで出てくるシーンは、それまでの新海映画にはないくらい圧倒的に暴力的でおぞましい(あれは『もののけ姫』のオマージュだと見る)。それが、作中5回繰り返される。宮崎、愛媛、神戸、東京、そして東北と、九州から始まり東北へと向かって行く旅の中で、どこでも地震が起きているというのは、今改めて突きつけられるととても辛い。私たち日本に暮らす人々は、日本のどこで暮らしていても、「地震」を共通言語としているのだ。

 

 

あの日常世で出会った人は

 

宮崎から始まったスズメと不思議なイスの旅は、やがて東京へと向かって行く。

イスであるソウタを要石にして、スズメは東京で起こったであろう大地震を防ぐことに成功する。だが、東京に暮らす100万人の命を助けた代わりに、ソウタを失ってしまった。

 

ドアの向こうの世界──ソウタはそこを死者が暮らす「常世」の世界と呼ぶ──に置いてきてしまったソウタを救うため、スズメはかつて自分がくぐり抜け「常世」へと入ったドアを探す。彼女は4歳の時から二度と帰ることのなかった、東北にある実家を目指す。旅のメンバーは、ダイジン、自分を連れ戻しに来た環さん、ソウタの友人である芹澤さんと自分の4人。芹澤さんが中古で買ったというチャラいオンボロのスポーツカーに乗って、サブスクでコテコテの懐メロをかけながら、北へと向かって行く。

 

福島県・浜通りで途中休憩しながら、彼女たちの旅はやがて目的地へとたどり着く。そこはかつてあったスズメの実家で、地面を掘り起こすと「すずめのだいじ」と書いてある箱が出てくる。箱に入っていた日記帳をめくっていく。3月7日、8日、9日、……そして11日。11日から先は真っ黒に塗りつぶされている。真っ黒。真っ黒。真っ黒。真っ黒。やがて、綺麗な星空と、お母さんと、お母さんが作ってくれたイスの絵のページが出てくる。夢で見るあの光景は、夢ではなかった。そこにあるドアから、スズメは「常世」へと入る。

 

「常世」の世界で、要石となっていたソウタと再会し、元の姿に戻すことに成功する。スズメとソウタは、ダイジンとサダイジン(途中なんやかんやで出てきた黒いでかい猫)の力も借りながら、大きな2匹のミミズを防ぐ。

 

 

防がれた厄災の後で、スズメは泣いている女の子と出会う。それは、夢を見ているときの夢の中の私、幼き日のスズメだった。

未来のスズメは、過去のスズメに言う。「あなたは、光の中で生きていくの。…私はね……すずめの、明日!」

 

 

僕がどうして本作にどうしようもなく共鳴してしまったのかは、このクライマックスのシーンに結集しているのだと思う。幼き日、母を探して「あちら側」に迷い込んでしまったスズメを救ったのは、スズメの母親ではなく、未来のスズメ自身だった。そのセッティング自体が、あまりにもいいと思ってしまったのだ。

 

このシーンでは、僕が重く受け取めてしまったものが2つある。1つは、亡くなった人はもう帰って来ないこと。たとえファンタジーであっても、いなくなってしまった人にはもう二度と会えないのだという残酷で厳しいメッセージが伝えられている。

 

もう1つは、自分を絶望から救うのは自分であるということ。新海は、インタビューの中で「鈴芽が救われるのも超越的な何かがあったからではなくて、震災後の12年間を彼女は普通に生きてきて、そのシンプルな事実が彼女自身を救う話に出来ればいいなと考えていた」と語っている。これは全くその通りで、スズメが災厄の後を、絶望の後を、それでも生きてきてもう16歳になったことが、これ以上ないシンプルな救済となっているのだ。この着想法はもはや個人主義の極北("Heaven helps those who help themselves.")なのだが、同時になんと暖かいメッセージなのだろうか。

 

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僕は、はっきり言って新海誠の映画がどうにも苦手だった。いい観客にはなれないとずっと感じていた。

それは、「大成建設」のCM「ごめんなさい、同窓会には行けません」という台詞に代表されるような、自分を物語の主人公として語り上げる肥大した自意識、そしてセカイ系の倫理に正しく準拠し、自分/あなたたちを相対化して、どこまでも自分と世界を接近させる意志が、どうにも受け容れ難かったことにある。僕は、帆高ではなく、水没した東京に住む「その他大勢」の1人なのだ。たった1組の男女のエモのせいで、世界がめちゃくちゃにされるのは、たまったものではない。

 

 

だが、本作は違う。スズメは、どこにでもいる普通の女の子なのだ。そして、旅の途中で出会う、とても気のいい人たちもまた、自分たちの生活を全うする普通の人たちだ。環さんだって、震災で姉を失い、女手一つでスズメを育ててきた苦労人だ。イケメンのソウタは、物語中の大半がイスなので、もはやイケメンであることさえも忘れてしまう。でも、大変な事態の中で「イスの体が馴染んできた!」などと真顔で言う男なので、きっと面白くて気のいいヤツだ。イス目線から見たスズメちゃんの回想がとんでもなく可愛く、同時に男の欲望丸出しなのも、信頼できる。

 

 

僕がこうして本作を手放しで褒めちぎる理由は、『君の名は。』と『天気の子』ではできなかったこと、「普通の人たちを描く」ことに、『すずめの戸締まり』では成功しているからだ。そして、物語の中盤くらいで、震災の記憶をまざまざと呼び起こされている僕もスズメであったことに気がついてしまった。だから、本作のメッセージをあまりにも素直に受け取ってしまったのである。だから、僕はもう、本作を客観的に批評することは、きっとできない。

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新海のフィルモグラフィ、ひいては震災を扱ったフィクションの系譜や現代のエンタメ作品の中で、本作をどう位置付けるか。

名前だけで大勢の観客を呼べるようになった新海誠という作家は、すでにとても大きな力を持っている。そして、現代日本のアクチュアルな作家の1人で、世界的にも影響力を持っている新海が、とんでもない映画を作ったな、と率直に思わずにはいられない。なにせ、『君の名は。』や『天気の子』を観て震災を連想しなかった観客も、本作ではさすがに震災を想起せざるを得ないのだ。そして、震災で本当に辛い思いをした人は、本作を観ない方がいいとも思っている。なぜなら、地震の描写があまりにも生々しすぎるからだ。スズメは幸いにも喪失していた自分の過去にカギをかけて鎮めること、喪に服することが出来た。だが、これまで頑張って生きてきた人がみな、無理に自分のトラウマと向き合う必要が果たしてあるのだろうか。

 

 

こうした観点を提示しておきながらも、震災を「なかったこと」にする話になってしまっていた『君の名は。』に比べると、震災を「受容する」話である『すずめの戸締まり』は極めて倫理的に優れていると僕は本気で思っているのだが、そもそもあまりにも直接的に東日本大震災を語ることが、フィクションの倫理として問題のある手つきという主張は、あり得る。また、本作はあからさまに神話とジブリのアリュージョンなので、神話の形式で震災を語ることの魔力性と暴力性にも、無自覚でいないわけにはいかない。これは、一歩間違えれば、プロパガンダだ。

 

 

でも、僕はあまりにも真っ直ぐ本作を受けとめ切ってしまったので、何も語ることができない。

震災の時、16歳だった僕ももう大人になったし、それからもずっと生きてきたんだよなあ、と思ってしまったので。

 

<関連>

『フラ・フラダンス』も、全日本観るべき映画なのでよろしくどうぞ。

『フラ・フラダンス』では、震災で亡くなった姉が「わたし」を導くので、それを思うと本作の残酷さがより際立つ。

 

 

『天気の子』の簡易感想は、2019年8月の読書記録にあります。