2021年10月に読んだ本たち | ますたーの研究室

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英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

書影はいつも二次元の美少女ばかりなので、たまには三次元の美青年を載せます。

 

・ウィリアム・シェイクスピア、ジョン・フレッチャー『二人の貴公子』(原著:The Two Noble Kinsmen. 初版1634年頃。河合祥一郎訳、白水社、2014年。Kindle版。)

 

↑帝国劇場入り口前のポスター(筆者撮影)(C)Toho Co., Ltd.

 

先日、3年ぶりの再演となった舞台『ナイツ・テイル─騎士物語』を観劇した。井上芳雄と堂本光一の2人がメインキャストを務める本作は、シェイクスピアとフレッチャーの共作からなる『二人の貴公子』を原案とし、ロイヤル・シェイクスピア・カンパニーの名誉アソシエイト・ディレクターであり、世界的な演出家・脚本家であるジョン・ケアードが手掛ける舞台作品である。英国演劇の正統的な翻案としても、純粋なエンターテイメント作品としても、非常に完成度が高い作品であると思う。

 

ちなみに今回はF列(1階の前から6列目)かつど真ん中という神席だった。めちゃくちゃ近く、すべてがよく見えた。KinKi Kidsを始めジャニーズのコンサートや舞台に行くときは毎回母にチケットを取ってもらうのだが、ほんと母の席運は毎回毎回凄まじい。2016年のKinKi Kids20周年の武道館では前方2列目、2019年の「ThanKs 2 YOU」ではスタンドの前2列目に続き、再演「ナイツ・テイル」では6列目センターという伝説が加わった。俺も自力でチケットを買う時にそれくらいの神引きをやりたいんだよな……。

 

今回観劇にあたり原作を読んでから臨んだ。その結果、再演だったということもあるが、3年前に比べてシェイクスピアや英国演劇についての解像度がかなり高い状態で観劇できたので、非常に理解度が高い鑑賞体験ができたという自負がある。

 

 

本作の舞台は古代ギリシア。アテナイの王・シーシアスは征服した国の女王たちの「テーバイの暴君・クリオンのせいで亡くなった夫たちが墓にも埋められずに放置されている」という懇願を聞き入れ、クリオンとの戦争を決意する。クリオンを叔父に持つテーバイの騎士たち、アーサイトとパラモンは深い友情で結ばれたいとこ同士であった。彼らが本作のメインたる「二人の貴公子」だ。勇敢で実力もある二人はテーバイのために懸命にシーシアスと戦うが、敗れ捕虜となってしまう。アテナイの牢屋に入れられた二人は「俺ら2人がいれば牢屋も天国だぜ!」みたいなノリで永遠の絆を確かめ合うが、牢屋の窓から美しき王女・エミーリア(シーシアスの妻であるアマゾンの女王・ヒポリタの妹)を垣間見、2人とも一目ぼれしてしまう。さっきまでの友情から一変して、2人はののしり合いを始める(ここの即オチ2コマは原作でも舞台でもめちゃくちゃ面白い。一番面白い場面だと思う)。

 

アーサイトは身代金が払われ、二度とテーバイに入らないことを条件に釈放される。アーサイトは身分を詐称して、フィロストレイトと名乗りエミーリアの従者となる。その一方パラモンは一人牢屋に取り残されてしまうが、パラモンに好意を抱いた牢番の娘の計らいによって脱獄する。牢番の娘は助けたのに自身に好意を向けないパラモンの姿に絶望し、発狂してしまう(この後の展開で彼女に特に救いはない)。アーサイトとパラモンは森の中で再会し、エミーリアを巡って再び言い争いを始める。2人は決闘をし始めるが、シーシアスに見つかり二人とも処刑を命じられる。パラモンとアーサイトはエミーリアへの好意を打ち明け、エミーリアが選んだ者は結ばれ、選ばれなかった者は処刑されるという命令を下す。二人はこの条件を聞き入れ、パラモンとアーサイトは決闘を行う。決闘の結果、アーサイトが勝利する。しかしその直後にアーサイトは落馬の事故に遭う。絶命の直前、パラモンにエミーリアをめとるように伝え、本作はフィナーレを迎える。

 

 

本作の展開、特にアーサイトが死んでパラモンが結ばれるという結末はかなり問題があり、現代的な価値観から照らせば受け入れがたい。なので、舞台版「ナイツ・テイル」は現代の観客にも受け入れられるエンターテイメント作品として、細部から大筋に至るまでかなり翻案が加えられている。

 

舞台版と原作との重要な相違点としては、①牢番の娘にフラビーナという名が与えられ、エミーリアと生き別れの姉妹という設定が追加されたこと。②パラモンとフラビーナが結ばれること(アーサイトは原作通りパラモンとの決闘に勝利しエミーリアを手にするが、その直後に落馬して死ぬという展開ではなくなる)、の2つが挙げられるだろう。特に②については、パラモンと牢番の娘が結ばれる方がよくないか?という発想法は17世紀英国の人たちも思っていたところで、そういう翻案も昔からいくつかあったという河合さんの解説にもある由緒正しき(?)翻案だ。

 

シーシアスとヒポリタ含め、最後には3組の夫婦が誕生してめでたしめでたしという『夏の夜の夢』とほぼ同一なハッピーエンドへの翻案は、約15,000円を払って鑑賞する現代エンターテイメント作品としてはあまりにも正しい(原作通りアーサイト落馬事故死エンドだったら、光一さんファンとしてもかなりがっくしきていただろうな)。しかし、シェイクスピア亡き後に当時の価値観に沿うような形へと好き勝手に翻案が横行し、本来のシェイクスピアの原作が忘れられつつある時代があったという上演史を思うと、原作と翻案をきちんと線引きをして比較・評価することの重要性を感じる。個人的に思うところとしては、原作における牢番の娘のポジションは『ハムレット』におけるオフィーリアに匹敵する、とても魅力的かつ問題の多いキャラクターであった一方で、本作品ではただの1ヒロイン(『夏の夜の夢』で言うハーミアやヘレナ)の1人になってしまったことには、若干の問題を感じないこともない。まあ、個人的な感想として、『二人の貴公子』で一番面白いというか、掘ったら何か出てきそうなのは牢番の娘だろうと思ったということだけかもしれないが。

 

翻案された本作のエンターテイメントとしての満足度はかなり高く、そこに言うべきことはほとんどない。芳雄さんの歌声の声量と伸びやかさはさすがミュージカルスターだなあという感じだし、光一さんのダンスの美しさはさすがジャニーズ稀代のダンサーだという感じだ。あと個人的には、フラビーナ演じる上白石萌音さんが圧巻だった。激賞の方向性としてはずれているのかもしれないが、彼女だけは二次元キャラクターと見間違う圧倒的な美少女感をまとっており、そら人気女優になるよなという稀代の天性みたいなものを見せつけられてしまったような実感がある。

 

もう一点だけ。今回原作を読んで、「アーサイトは背が低い方よ!」という絶対笑っちゃうよねというギャグが、原作にもしっかりあったということを確認できたことは、一番よかったことかもしれない。

 

・ヴァージニア・ウルフ『病むことについて』(川本静子編訳、みすず書房、2002年。新装版:2021年。)

お馴染みヴァージニア・ウルフのエッセイ+短編小説2編。9月にオンラインであった英詩研究会で言及があり、ふと気になったので購入した一冊。全部は読んでいないが、ほぼ全てを読んだ。なかなかよかった。

 

 

表題作「病むことについて」が気になり購入したが、最初のテーマ提起や途中の言及はすごくよかった一方で、最後の方は何の話をしているのかよくわからなくなるのがちょっと残念だった。病気になり寝込むことが人間に重要な経験を与えるにも関わらず、文学の主要なテーマになっていないのはおかしい。いかに身体が文学の中で蔑ろにされてきたか、思春期の子供が恋愛に思い悩んだら誰でもキーツやシェイクスピアを読んで「これは私の今の経験が書いてある!」ってなる一方で、体調が悪くて病院に行ったときには医者に自分の病状を説明するのに難儀する、なぜなら英語では精神について語る言葉に対して身体について語る言葉が発展せずに貧弱なままだから、この辺の指摘は首を何回も縦に振りたくなるような素晴らしい指摘だ。でも最後の方は何の話をしているのか、3回くらい読んだけどよくわからないままだった。このエッセイだけまるで病気のときのうわごとみたいな論理展開をしている、と言うと言いすぎだろうか。

 

 

20世紀にあたって、娘に自身の蔵書を開放し、自由を尊重した父・レズリー・スティーヴンの挿話(蒙を啓かせること、自由を与えること、これが親が子供に対してできる唯一の贈り物なんだろうな)や、あらゆる職業の中で、女性がまず進出して成功したのは作家であった理由は、原稿用紙が廉価だからという「女性にとっての職業」での指摘(これは、女性が作家としてやっていくためには年500ポンドの収入と個室が必要と主張した「自分ひとりの部屋」の内容とも通じるところがある)など、ヴァージニア・ウルフという作家を知る上で重要なエッセイが目白押しだが、その中でも「斜塔」があまりにも素晴らしい。

 

 

作家たちの受けた教育と作品の偉大さには関連があると彼女は指摘する。19世紀の英国の作家たちはみな、裕福な中産階級の出身で、パブリックスクールから大学まで充実した教育を受けた人たちであった。彼らは大衆よりも高い化粧しっくいの塔かつ、金のかかった教育である黄金の塔の住人だった。この状況は1914年まで続く。続く20世紀前半の作家たちは、先輩作家と同じく裕福な環境のもと充実した教育を受けた世代だが、19世紀作家たちと状況は一変していた。ドイツ、ロシア、イタリア、スペインで、古い生垣は引っこ抜かれていた激動の時代だった。塔が傾き始めていたのだ。そして、傾き始めた塔の中で、彼らは葛藤する。悲惨な戦争の現状と激変する社会の在り様の中で、自分たちが既得権益に甘んじていることに、やり場のない怒りをぶつける。だが、彼らは「斜塔」を徹底的に否定することはできない。なぜなら、それをすることは自分が十数年間受けて来た教育を否定することになるからである。

 

 

このエッセイを通して、学部4年~修士での留学生活にかけてずっと思っていた2つの疑問、なぜイギリスでは人文教育の重要性の比重が高いのか(人文学を修めないと「人間」になれないから)、 なぜ英文学研究はマルクス主義批評が中心なのか(「作家という種類の蝶を育てるには、少年をオックスフォードかケンブリッジで三、四年日光浴させねばならない」(174)という指摘はあまりにも真理だ)、この2つにウルフがすでに答えてくれていたんだなあと感動さえした。「自分ひとりの部屋」と「女性にとっての職業」でも、経済的要素がいかに重要かというウルフの現実主義者な発想法をひしひしと感じていたが、「斜塔」を読んだことによって、やはりイギリスはガチガチの階級社会なんだよなという気づきを改めて得た。自身の置かれた経済的環境と社会的状況は作家、作品と密接な関係を取り結ぶという発想法がマルクス主義批評の根幹にあるが、端的に言ってイギリスはその前提を抜きにしては何も考えられない社会なんだよなという感じだ。英文学研究の方法論のメインストリームが、フォルマリズムとか構造主義みたいな方向性に全然行かなかったのはそういうことなのだろう。

 

・椋木ななつ『私に天使が舞い降りた!』(10)

『私に天使が舞い降りた!』10巻表紙。(C)椋木ななつ/一迅社

 

『わたてん』も早くも10巻か。どうでもいい話だが、『わたてん』はKindleで読んでいるために全部白黒なので、紙のものの表紙を改めて見たらカラフルでいいなあとなった。やっぱり漫画は紙で読みたいんだよな……。Kindleは買うのも読むのも手軽、持ち運びやすい、管理が容易といいところもたくさんあるんだけれども。

 

漫画版『わたてん』について語るときはいつも散漫的な話になってしまうが、ご容赦願いたい。

花ちゃんが好きすぎで頭ベッド足バタバタするみゃー姉からスタートする。思春期の男子か。

今回も乃愛ちゃんはぐうかわだった。「好きな人(物でもOK)」を恥ずかしそうに見せるカットがたいへんよかった。それを受けて「親友だもんな!」と返してしまうひなたのまだ子供なところ(そこがひなたの良さでもあるんだけれども)が、乃愛ちゃんの前途が多難なところを表わしている。でも一方で「妹はわたしだけでいい」を短冊に書いちゃうところがいいなあ。みんなかわいいんだけど、嫉妬とか独占欲みたいなドロッとした感情がときおり滲んでいるのが本作の魅力だと僕は思っている。

 

最後みやこは短冊に何を書いたのか。「~~花ちゃんと~~れますように」だけは読めるが、全てが明示されないのがよかった。来年の映画も楽しみです。