2021年9月に読んだ本たち | ますたーの研究室

ますたーの研究室

英詩を研究していた大学院生でしたが、社会人になりました。文学・哲学・思想をバックグラウンドに、ポップカルチャーや文学作品などを自由に批評・研究するブログです。

 

I'm gonna do my bestest tomorrow!

 

・イアン・マキューアン『贖罪』(原題:Atonement. 小山太一訳、新潮社、2003年。新潮文庫の新版:2019年。)

『クララとお日さま』『遠い山なみの光』『忘れられた巨人』と立て続けにカズオ・イシグロの小説を読んできたのでちょっと違うのを挟むかと思い、イシグロと同じくイースト・アングリア大学に学んだ現代イギリスの作家、イアン・マキューアンの小説を買った。もう3年前の話になるが、英文学史のゼミで自分の先生が『贖罪』を激推ししていたのが今でも印象に残っており、ようやく買って読んだ。

 

自分は1冊の小説を読み切るまでに結構だらだらかかってしまうタイプなのだが、本書はかなり気合を入れて取り組み、2週間ちょいで読了した。確かに先生が激賞していたように、並大抵ではない小説、いや、物凄い小説だった。今でも頭をぶん殴られたような衝撃が残っている。ここからはネタバレ全開で書くので、もし読んでみようとなる人がいたら一応注意されたい。頑張って全部書こうと思う。

 

 

本作の最初の舞台は1935年夏のイギリス、郊外の屋敷。主人公は13歳の少女、ブライオニー・タリス、作家志望(開始時点ですでに物語を書いたこともあるし、戯曲も書いた)。ブライオニーは3人兄妹の末っ子で、兄のリーオン、姉のセシーリアがいる。本作におけるもう一人の重要人物、タリス家の家政婦の息子で幼馴染のロビー・ターナーも兄妹たちと一緒に住んでいる。彼はセシーリアと共にケンブリッジ大学を卒業したばかりであり、ロビーの学費もタリス家の両親が出していた。セシーリアとは付き合っている。他には、ブライオニーの母方の従妹であるローラと、彼女の双子の弟のジャクソンとピエロが居候になっていた。

 

ブライオニーが窓から外を眺めていると、庭の噴水の近くで不可解な光景を目撃する。姉セシーリアとロビーが向かい合っている。プロポーズでもするのかしらん。ブライオニーが興味津々で見ていると、ロビーは片手を上げて、まるでセシーリアに命令を下すかのような身振りをする。すると驚いたことに、セシーリアは服を脱ぎ、下着姿のままで噴水に飛びこむ。いったい2人の間に何が起こっているのか、意味が分からない。セシーリアが水から顔を上げた瞬間、ブライオニーは作家として、そして大人と子供の間にある不安定な年ごろの娘として、この世界の真理を悟る。「もはやおとぎ話のお城や王女さまはありえないこと、あるのは『いま・ここ』の不可解さだけであること、……」(70)

 

この出来事をきっかけに、ロビーへの嫌悪感が強まっていく。セシーリアに渡すようロビーから言われた手紙を盗み見ると、とても口には出せないような卑猥な内容が書かれていた。その後、図書館でロビーとセシーリアが性交をしているのを目撃する。間違いない、姉はロビーから性的暴力を受けたのであり、ロビーは恐ろしい変質者なのだ──。

 

その晩のディナーで、双子の弟たちが逃げ出したことが判明し、双子たちを探しに夜の庭を探索する。暗闇の中で、ブライオニーはローラが何者かに襲われているのを目撃する。誰が襲ったのか、はっきりとは顔は見えなかった。でも、私は、犯人が誰なのかを知っている。確信している。噴水の出来事、手紙、図書館でのセックス、そして暗闇で襲われたローラ。

 

年下の少女は自分が抑えられなくなった。すべては筋が通っているではないか。発見したのは他ならぬ自分なのだ。これは自分の物語、自分のまわりに記されつつある物語なのだ。

「ロビーよね。そうでしょ?」(284)

 

こうして、ロビーは生贄となり、ブライオニーは罪を犯した。

 

 

噴水での出来事や、図書館での情事の場面では、セシーリアの視点からの語りがあり、本当はどうだったのか、どういう経緯なのかを読者は把握することができる(だが、後述する理由でここの描写も正直怪しい)。図書館の場面は、「I Love You」の言葉を使わずに、いかように、確かにそこに愛があったのかが語られており、思わず感嘆の息を洩らさずにはいられなかった。

 

 

第2部では第二次世界大戦の最中の描写が続く。ロビーは刑務所に送られるが、軍隊に加わることを条件に釈放される。彼はセシーリアと再び会うことだけを唯一の頼りに何が何でも生きのびることを誓う。

 

第3部ではあの事件から5年後のブライオニーの話が描かれる。彼女は自らの虚偽の告発を深く後悔しており、家族とのつながりと上流階級の生活を全て捨て、看護婦(看護師、だとアナクロニズムになると思うので、あえてこの表記で)になることを選ぶ。自らの罪を償うかのように、多くの戦傷兵を看護し、悲惨な現実に目を向けようとする。その一方で、作家になる夢だけは捨てられずに、小説を書いていた。雑誌に作品を送り、その返信が返ってくる。

 

「噴水のそばの人影ふたつ」拝受いたしました。……掲載は不可能ですが、わたしを含む当編集部の一部スタッフがあなたの将来の創作に興味を抱いていることをお知らせいたします。……

「噴水のそばの人影ふたつ」ですが、一気に読ませるだけの力強さはあると思います。社交辞令ではありません。……思考の流れをとらえ、人物の性格を浮かび上がらせるために微妙な変化をつけて描き出すことにも成功しています。これまで説明のつかなかったユニークな事柄が捉えられているといってよいでしょう。ただし、ミセズ・ヴァージニア・ウルフのテクニックに負うところが多すぎるのでは、というのがわれわれの意見です。……

たとえば、最初の視点人物となる窓辺の子供ですね──彼女が事態の理解を根本的に書いているという事実は丁寧に書き込まれています。それに続く彼女の決心、それから、大人たちの謎に一歩踏み込んだという感覚も。この少女の自我の目覚めをわれわれは目撃することになります。……(517-19)

この批評はかなりヤバい。まず、本書の描写自体がヴァージニア・ウルフ的な印象で進んでいるなあと読者が感じていることを、すでに書き手(マキューアン)が把握しており、メタフィクションの次元を1つあげているというのが1つ。また、ここでブライオニーが送った「噴水のそばの人影ふたつ」なる小説は、罪のきっかけとなったあの噴水での出来事であり、ブライオニーが作品内で「客観的に」描写されたことを創作したという体で、噴水の場面を作品内作品へと変容されてしまったということ。作品の最後まで読むと、この批評がこの時点での読み手の想像を超えてはるかにクリティカルであることが判明するのだが、普通に読み進めていたこの段階でもかなりぎょっとしてしまう内容となっている。

 

 

物語のクライマックス、ブライオニーはセシーリアに会いに行くことを決心する。あの日の私の証言は間違いだった、撤回したいと告げるために、許してもらうために、姉との再会を決心する。当然のことながら姉にはかなり冷たく扱われることになるのだが、2人で話していると寝室からロビーが現れる。ロビーは、セシーリアが話している相手がブライオニーであることを認めると、この上なく怒りに震えて言葉をぶつける。ブライオニーは、ロビーの再審の手続きを始めることを2人に約束し、実家へと帰る。

 

 

そして、第3部の終わりは、「ブライオニー・タリス ロンドン、一九九九年」という署名で締めくくられる。

 

 

……文学界隈の方にとっては、この最後の署名がいかに私にとって衝撃を与えたか、きっと理解してもらえるだろうと思う。

第1部から第3部までのここまでの語りは、神の視点であるはずの三人称部分も含めて全部、ブライオニーの一人称の語りだったのだ

 

 

この小説が提示するテーマは、エピローグにあたる「ロンドン、一九九九年」の断章の次の一言に全て集約されている。

 

「この五十九年間の問題は次の一点だった──物事の結果すべてを決める絶対権力を握った存在、つまり神である小説家は、いかにして贖罪を達成できるのだろうか?」(617)

幼い日のブライオニー・タリスが、作家の全能感に憑りつかれたがために犯してしまった罪、この告白によって、犯人とされてしまったロビーはもちろんのこと、ブライオニー自身のこれまでの、そしてこれからの生活は全て壊されてしまった。作家は神ではない。間違うのだ。

 

もう一点重要なこととして、現在77歳になったブライオニーは、何度も何度もこの小説を書き直していることが判明する。第一稿は1940年1月、第二稿は1947年6月、……、そして最終稿が1999年の現在。そして、「恋人たちが幸福な結末を迎え、南ロンドンの歩道で寄り添いながらわたしが立ち去ってゆくのを眺めるのは、この最終稿でだけ」ということが告げられる。実際は、ロビーはダンケルクで戦死しており、セシーリアも1940年のロンドン大空襲の犠牲になっている。つまりは、本作の結末は何度も何度も繰り返されたゲームオーバーの果てに辿り着いたトゥルーエンド、しかも作家といういわばゲームメーカーがこしらえた捏造トゥルーエンドに過ぎないことが明らかになる。

 

実際のところ、恋人たちは二度と会うことなく戦争の犠牲になるし、ブライオニーは姉やロビーに許してもらっていないどころか叱責もされておらず、実際のところ姉に会いに行く勇気が出ずに引き返しているし、恋人たちの手紙は戦争博物館の資料庫に収められている。でも、そんな「事実」を書いても何になるんですか?と語り手は開き直る。そんな小説、読みたいですか?と。だから、事実を物語へと成型すること、恋人たちの愛が冤罪や戦争を乗り越え、ついに幸福な結末を掴みとらせてあげることは、作家であるブライオニーの贖罪の試みなのだ。たとえそれがうまくいかないことが最初からわかっていたとしても(だって、ここまで読めば重要なところはブライオニーが創作していることがわかっているので、ブライオニーの語りの全てを無邪気に信じ切ることができるだろうか?)、贖罪を試みることが全てなのだ。

 

 

これは巻末の武田さんの解説で気づかされたことなのだが、前述のシリル・コノリー(実在の文芸評論家、編集者らしい)の批評をもう一度読むと、「少女はふたりのあいだを割く災厄となるのでしょうか?あるいは、故意か偶然かは知らず、ふたりをいっそう緊密に結びつける役割を果たすのでしょうか?……あるいは、若いふたりが少女をメッセンジャーとして使うようになるという筋は?」(520-21)と提案している。老ブライオニーがこの提案をどこかの書き直しの段階で参考にしているのは明白で、物語世界内でのブライオニーはまさにセシーリアとロビーの関係を破壊する災厄となり、そしてそれがゆえに二人を永遠に結びつける役割をも果たしている。また、ブライオニーがロビーへの不信感を決定的にした、卑猥な手紙を受け取って盗み読む重要な場面の信憑性も疑われることになる。それも後付けの創作じゃないの?と。だから、第3部の最後で結局ローラを襲った犯人が誰だったのかがブライオニーによって告発されるのだが、それの信憑性もかなり怪しいし、正直言ってもうどうでもいい(一応言っておくと、ここまで客観的に読んでいると、ローラを襲った真犯人はあの人です、は非常に唐突な展開で、蓋然性も物語的正しさもその両方が薄弱であると僕は思った。でも、それももうどうでもいい。この物語における本当の被害者はロビーなのだから)。

 

 

この小説は極めて優れているし、同時にありとあらゆるフィクション全般に波及する劇薬でもあると思っている。「神である小説家でさえも間違う」という本作のテーゼに対して、全ての作家は向き合わなければならない(安直にキャラクターに酷い目に遭わせがちな作家、いませんか?)。そして、ここ最近何度か言及してきた「人間は物語に弱い」ということに対して、わたしたちはもっと日常的に自覚しておかなければならない。でないと、ブライオニーのように一生消えない罪を犯すことになる。とはいえ、人間は物語を生きてはいないが、物語がないと生きていけないというのも厳然たる事実としてある。だからこそ、物語を真摯に研究し続けてきた文学研究の価値と実用性があるのだと、僕は信じたい。

 

 

最後は思わぬ結論に行き着いてしまったが、とにかく射程が広く言及価値の高い極めて重要な小説でした。純粋に読み物としてもたいへん面白く、もし英文学で小説を専門にしていた世界線があったら、自分はマキューアン研究をしていたかもしれないとさえ思ってしまった(これも一人称の語り手である私の嘘、捏造、妄想、あるいは想像力だ)。

 

・永井均『これがニーチェだ』(講談社現代新書、1998年。)

『倫理とは何か』に引き続きこちらも読了。『倫なに』に比べると遥かに難しく、かなり険しい読書となったが、2回読んだら大分ノリが掴めてわかったような気がする。やはりこういう哲学書は「理解しよう」と努めるよりも「ノリに乗ろう」と読んだ方がいいかもしれない。まだ脱線が続くが、本書は地元のブックオフの100円コーナーで買ったが、黄色いマーカーで線が引かれていてうひぃとなった(だから100円コーナーにあったわけだが)。ただ、マーカーは第2章で途絶えていて、前の持ち主は前半で早々に脱落してしまったのが窺われる。確かにまあ、最初の方で「どうして人を殺してはならないのか」という議論はかなりわかりやすい話をしているのに、第一空間が云々という話が始まったら途端によくわからなくなるというところはある。

 

本書は、ニーチェ哲学の推移を第一空間、第二空間、第三空間への展開として整理している。

キリスト教道徳の捏造性を暴き、既存の価値判断の秩序を転倒させ真理への意志と誠実さを展開した第一空間、全てはある観点から切り取った虚構に過ぎないと主張する第二空間、そして「一切が現在あるのと少しも違わない形と順序のまま、無限の時間の流れのうちで、無限回繰り返されること」という永遠回帰の天啓を得て、全ての外部的な基準に基づく価値判断を退け、そのように生きられた事実の一回性そのものを尊ぶべきだと主張する第三空間への展開。筆者はニーチェが自分の主張を肯定する際には常に一歩引いた視点を持ち合わせており、よりメタ的な視点に立ったらその自分の主張自体が否定したいことに包摂されないかに自覚的である点を評価しているが、自分もその通りだと思う。脱構築的な議論のダイナミズムそれ自体がニーチェ哲学の魅力という感じがする。

 

ただ、永井均が肯定するニーチェが辿り着いた第三空間の帰結は、ニヒリズムを突き詰めた果てに全肯定へと反転するという構図的な美しさを自分も称揚したい一方で、「外部の価値判断に基づかず、自分の生がそのようにあったことそれ自体を内側から祝福する」という主張自体が「外部の価値判断」なのではないか?という堂々巡りに入ってしまっている感もある。無限にメタ視点を設定することは理論的に可能である一方で、その行為自体に果たしてどこまでの意味があるのかという説もあるが、ニーチェが最終的に行き着いた(と本書では整理されている)第三空間=永遠回帰の思想もまた、メタ的発展の途中段階に過ぎないという可能性はなかったのかという批判的検討は成立するのではないだろうか。

 

本書の感想からちょっと脱線するが、数多いる偉大な哲学者の中で、ニーチェの言葉はあまりにも固有の文脈を離れて軽々しく引用されているという認識がある。「人文知こそがビジネスに役に立つ」という、少し前に(今もその潮流はあるか?)そこそこ流行ったビジネス本に飛びつく社会人に対して、「原著を読め」とまでは言わないものの、しっかりとした研究者が書いたそこそこ難しいレベルの新書くらいは読もうよという思いが結構ある。まあでも、アーレントの原著に挑戦したはいいもののやはり結構厳しいのを実感した身からすると、研究者が書いた一般向けの教養本(≠ある思想を無理やり卑近な例へと矮小化させ教訓化させるノリを持つビジネス本)のありがたさを痛感する。

 

・得能正太郎『NEW GAME!』(13)

『NEW GAME!』13巻表紙。(C)得能正太郎/芳文社

 

先月に引き続き『NEW GAME!』の新刊にして最終巻である。

 

連載自体は8年間続いていたが、個人的な付き合いはこの3年間になる。自分が読んでいた時期は連載期間の半分にも満たないが、漫画を全部揃えて留学先に持って行き(そしてちゃんと持ち帰ってきた)、フランスに行くコウさんを自分と重ね合わせたり、ゲーム研究会で修論の時期に『NEW GAME! -THE CHALLANGE STAGE-』の実演企画をやったり、仕事を始めてからはまた新しい読み方をしたりなど、結構深い付き合いをしてきた。実際、本作で描かれる働き方や仕事への価値観は1つの理想形であり、自分もそうでありたいと日々思いながら仕事に勤しんでいる。

 

前回の12巻の続きから。キービジュアルをほたるに奪われ、今まで見たことのなかった絶望顔とひどい顔を晒しまくる青葉ちゃんからスタートする。本作全体を通しても屈指のきついエピソードで、まあこんな青葉見たくなかったというのが正直なところではある。しかし、紅葉のグーパン(ここでグーパンできるのも紅葉だからこそという感じだ)で見事に復活を遂げ、素晴らしいキービジュアルを仕上げる。4巻「PECO」での青葉vs.コウの時も思ったが、どちらもいいキービジュだけど、勝者とされた方の絵が確かに優れているように思われるというのは、作者の力量はすごいと感じさせるところだ。今回のほたるのキービジュもいいのだが、確かに青葉の絵の方がシンプルなデザインに関わらず惹きつけるものがあるし、ノアの表情にたくさんの意味が乗っていて説得力がある。広告のことは何もわからない素人だが、広告としても青葉の絵の方が優れているかもしれないと思った。

 

本編屈指のシリアス展開も早々に終わり、ブルーローズのスタッフも開発に合流してクライマックスを迎える。やっぱりみんなが和気藹々と仕事をしている雰囲気が本作には似合っている。ついに青葉、ねね、ほたるの3人が一緒に仕事をしているのも感慨深いものがある。また、個人的にはたまことミラの絡みが好きだった。フランス編の時点でミラさんいいキャラしてて好きだなとなっていたところで、最後の最後にフォーカスが当たって嬉しい。そうして完成した「フェアリーズストーリー4」の打ち上げでは、メインキャラ総出の記念撮影のカットが映される。ありふれた感想だが、(ここに映っていない人も含め)実にたくさんの人が関わって1つのゲームが作られるのだなあということを実感した。

 

 

頑張って『NEW GAME!』全体の作品論を書きたいという思惑があるため、ちょっとあっさり目ではあるが今回はこれくらいにしておきたい。

この8年間で青葉さんが立派にクリエイターとして成長していく過程を見届けられて、たいへんよかったなと思う。これからも仕事で壁にぶち当たるたびに向き合いたい大切な作品です。