「慣れ」の功罪
初心を大切に、という言葉が最近は身にしみる。経験を積んで慣れること。
慣れることで、苦労していた作業も楽に早くできるようになるなど、良い面が取りあげらることが多い。
人間の無意識の学習は、繰り返してインプットされる情報を察知して、効率的な動作ができるように身体に命令してくれる。
反面、慣れることがマイナスに働くこともあると思う。
例えば、訓練のような習慣。最初は、苦労しながらも、効果のある形で出来た訓練も、慣れるとそこそこ手を抜けるようにも
なる。
自分のケースで感じるのは、1年間続けてきた座禅。週末、予定が無い場合は近所で座禅会を開催しれくれるお寺に通っている。
最初の頃は、大変だなあと思ったけれど、考えを止めて自分の呼吸に集中することも少しは出来たと思う。だいたい、150回くらいまでは
意識できていた記憶がある。
最近は、50回も難しい。
座禅会の途中で、参加者全員で「普勧坐禅儀」という漢文を参加者で合唱する。
その中で「心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて」というくだりがあるが、なかなかそうならない。
座禅を組み、目をうっすら空けて、香の漂う空間での静寂を味わおうとすると、途端に普段のこまごました悩み事、願望希望、空想に
頭が占拠されてしまう。ないしはうっすらとした浅い夢を見ているような状態で眠くなるか。
自分のペースで仕事をするために
企業に勤める人にとっての悩みの定番である「人間関係」。
組織で仕事をする場合、その組織でのルールの範囲内で仕事をしないと、とても居心地が悪いことになる。また、自分自身がルールを守っているつもりでも、それとは違う意識の人が近くに居る場合もまた居心地が悪い。
多様性の尊重が必要と言われて久しい日本社会も、地べたに近い職場の現状はまだまだ村社会が多いのではないだろうか?
自分の当たり前と他人の当たり前の違いにより、葛藤が生じる事実は、綺麗事とは関係なく生まれ続ける。
そもそも、こういう人間関係問題が無くなる、無い状態に恵まれる事を期待する前提を見直した方が良いのではないだろうか?と思う。
人と人とが分かり合えるとは限らない、分かりあえているつもりになるから、裏切られたという被害妄想も生じる。
分かりあえないという前提から、少し距離をおいて、じっくり自分と相手の距離感を見ていくのが良いと思う。
新卒社員の素直さ
自分を客観視して、ダメな所をちゃんと反省する。
こんな言葉を新卒の定期集合研修で聞く事がある。こういう事って、当たり前だけど、年数を重ねるほどできなくなる。
そもそも、こういう言葉を口にしたり、考えたりする事も、年を重ねるとできなくなる。
なんとなく、自分の選択は間違ってるのかなあ?と思いつつも、その間違った選択を反射的に繰り返し、自己嫌悪の感覚を持ちながら、日々が自転車操業のように流れていく。
その毎日の繰り返しをいったん止めて見つめる時間。
そういう時間を週に1時間でも持つ事が大事だと思っている。