ちょっと前に話題になった本を今ごろ読みました。
いろいろ遅い気もしますが、まあ許してください。
発売当初、序章の「ごんぎつね」についてのことが
ネットで取り上げられ、反響も大きいものでした。
著者の石井さんが都内の公立小学校で、
国語の授業を見学したときのエピソード。
「ごんぎつね」での
兵十という人物のお母さんの葬儀のシーン。
村の女性たちは兵十の家の台所で、大きな鍋を使い何かを煮ている。
一体何を煮ているのでしょう、という先生の質問に、生徒たちは答える。
「お母さんの死体を煮ている」
これはふざけているのではなく、
班ごとに大真面目に話し合って出した結論らしい。
これは少々極端な例ではあるそうだが、
現場の校長先生も読解力の低下を感じているそうだ。
……そうか……
教育に長く携わっている人が言うならそうなんだろうなあ。
低下しているんだろうなあ。
でも、ちょっと疑問が。
今どき、葬式は自宅では行わないだろう。
そうなると、参列者に料理をふるまうことも知らない。
そもそも小学生ぐらいなら、多くの子が葬式に参列したことはないと思う。
それに、先生がわざわざ「何を煮ているか、みんなで話し合おう」
と聞くぐらいだから、
物語上、何か意味があったり、派手なシーンだと解釈しても不思議ではない。
いや、ほんとなんで聞くんだろう。
子どもたちが正解がわからないのは、読解力だけの問題ではなく、
時代の変化も大きいと思う。
私は、この本は今どきの子どものダメさ加減を述べているだけの
本なのかなあ、そうだとしたらちょっと気分よくないよね、
と、本書に対する反発のような気持ちもあり、
読まずにいたのでした。
だが、読まず嫌いはよくないよな、
と思い返し、ちゃんと読みましたよ。
ええ、すごくまともな本でした。
私が間違っていました。すみませんでしたっ!
(過ちをすぐに認めるいい子。小心者なのかもしれんが)
確かに前半は、絶望的なまでに国語力がない子どもたちの
エピソードがつづく。
「クソ」とか「死ね」ぐらいしか言えない子、
相手の話が理解できない子、など。
なんだかもう、「来世ではちゃんとしようね」
を合言葉に、みんなで手をつないで炎のなかに飛び込もうかと思いました。
別に私までも飛び込む必要はない気もするが、
このままでは我が国は終わりかと思って。
教育が死ぬと国も死ぬ。
しかし、後半では国語力アップに取り組んでいる学校が紹介される。
例えばある女子校では、国語の授業で、
文庫本(ここでは「アンネの日記」)をじっくり精読していくという。
授業を見学した著者の石井さんは、取材も忘れて心を奪われていたそうです。
「授業を見学しはじめてたった数分で、
文学作品の精読が生徒たちに与える学びの深さと
豊饒さを思い知らされた気持ちになった」(P284)
本書でも少し触れているが、
かつて兵庫県の灘中学では「銀の匙」を精読する授業を行っていた。
私はそれを知ったとき、少しうらやましく思ったものだけど、
そうか、今でも似たようなやり方をしている学校はあるのね。
名門校ではそうした例はいくつかあるらしい。
いいなあ~。
問題は、こうした授業が私立校で行われているということだ。
公立の、まあ地元の子どもたちだけが通う学校ではなかなか実行は難しいだろう。
そのことはもちろん本書でも書かれている。
「教員がその気になっても、
実現するには高いハードルがある」(P326)
む~ん、そうだよね。
どうすればいいのかなあ。
私には何の力もないし、何もできないし。
私自身は教育関係者ではないし、子どももいない。
国語力について何か発言する立場でもない。
発言しても誰も聞いちゃくれないだろうし。
でも、「だから関係ないじゃ~ん」では済まさず、
教育に真摯に取り組んでいる人たちがたくさんいる、
ということをきちんとこころに留めておく、
そういうことが大事なのだと思う。