(昨日のブログの画像ロゴ、大丈夫でしょうか…)

 昨日のブログのようなことがあり、そして、終わった9ヶ月間。一部の仕事は未だに現在進行形ではあるものの、一区切りがついた。さぁ、これからは月末まで休んで新しい会社です。

 2004年2月9日。その会社に入り、怒涛の9ヶ月間が始まる。営業のえの字も知らない人間が初めて営業した会社はSIA・シンガポール航空。なんと、広告掲載してくれる?!となったけれど、新規開設の日本路線予定が流れ、結局キャンセルに。その後でカオサンというバックパッカーのみならずタイの現役大学生が集まる場所に営業に。客単価低い…でも、7ヶ月特集ページを雑誌で組んだ。顔写真掲載で、変なこと書いて、恥ずかしかった。晒し者。そんなこんなでMAS・マレーシア航空にも営業に。きれいなPRのお姉さんに癒されながらもその上司がノンスリーブを好んで着用なさるおばちゃんで、きつかった。広告とれず。その間に十数社に営業に行き、そこそこの成果が出る。

 その間、研修ははじめの日にちょこっとあっただけ。7ページのマニュアルを渡され、ちょこっと説明の後、「えっ?これだけけ?」と言う隙なく、営業活動に。これじゃぁ経験になるかもしれないけど、正攻法じゃないですよね?卒業式やタイの旧正月で3,4月は10連休がそれぞれ取れるものの、学ぶこと少なし。上述の雑誌ページの構成と、ありえないイレギュラーに追われ、日々10時過ぎまで仕事をこなし余裕が生まれず体重は89キロに…身長178cmで、その体重はないでしょう...ちょうど今、PCから流れている音楽は Nelly "Flap your wings". まさに「この先どうなるの?おい」という展開で4月まで時が流れるのでありました。さぁ、この先は中篇で。

 しばらくこのブログを更新しなかったのは、会社を辞めるに当たってしなければいけないことがわんさかあったからということにしておくことにします。

 11月19日、とうとう退職してしまいました。不満も大きかった。でも、この会社にいたからできた経験も沢山あった。退職する日に契約書にサインしてもらったり、ちょっと考えられないこともあったし…その中でも一番大きかった出来事がそれ。(以下)

 某ナショナルフラッグのピー・ハウス。「最後に、仕事もう一頑張りね。今まで作ってもらった広告さ、君にものすごい労力を使ってもらって作ったので、それを使って最後にお金払うから、もう1回作って欲しいんだ。」この会社の別の方、営業部長の林さん(台湾人)は、「あなたに作ってもらった広告を打ってから、実は東京線が30%、名古屋線が5%、福岡線が60%も売り上げが上がったのよ。」とわざわざ開いてくださったお疲れ様会の席でおっしゃられて…ものすごく罪悪感があった。自分のエゴで転職してしまったのは事実。その裏に、プライベートにまでサポートしてくださったお客さんの期待を潰してしまったという事実もしっかり焼き付けられた。この林さん、やめることを伝えた時に、「今時間ある?ちょっとお話しましょう」とおっしゃり、台湾系企業の就職斡旋までしてくれようとした。ピー・ハウスとはどうして仕事を続けないのかと言う話になった時に、ポロっと、「先輩が信用できないからです。」とこぼしてしまった。すると彼は、「なんとなく分かるよ。見てるとね。本当に勿体無い。」と…言ってくださった。最後は、「今からあなたが出会う人たちは、CALとあなたがやってきたことよりも大きいことをさせてくれるだろうから、しんどくてもがんばるのよ。何かあったら、家族はタイにいないんだから私のことを家族として考えて、いつでも連絡頂戴ね。時間ができたらうちにご飯でも食べに来なさい。これからも、色々アドバイスしてね。」と林さん。

 お客さんと一セールスの垣根を取っ払ってここまで付き合ってくださる人が本当にいるんだ…結局この会社、中華航空とははじめの契約金額よりも3倍近い契約を頂き、台湾にも連れて行ってもらい、家の中が中華航空グッズ(マニアにはたまらないんでしょうな。。。シャツやらカレンダーやら、この会社には関係ないけど高い台湾茶やら…)だらけになってしまい、日本に帰る航空券も発券できない価格で出してくれたり、暖かい言葉を掛けてくれたり、(ピー・ハウスにセクハラされたり)、人生において忘れることのできない思い出をくれました。実は会社を辞めると彼らに知らせる前に、絶対に怒るんだろうな。と思い、2週間ほど何も言えなかったのです。でも、言ったら「もう広告のっけない。かわいい(ちょっと引いた。)弟がいなくなるのは楽しくない。」とピー・ハウスが切り出したし、林さんも目を丸くして「え?どういうこと?ちょっとお話をしましょう。」とおっしゃられたけれど、最後は携帯電話の番号も交換し、「新しい会社の名刺、できたら持ってくるのよ。電話番号も変えるんだったら必ず教えてよ。自分で悩んで決めたことだから、私たちは止められないけど、困ったことがあればいつでも言ってね。(ここは日本語に訳しづらいので英語で原文。)We could learn a lot from you.」と言われた瞬間、これまたポロッと "Frankly, I did not want to lose this great opportunity, I mean, to work with you all here.., but it came up when think about my future, it would be nicer if I go for something I seek, but feel so guilty against what I am doing..."と言ってしまった。彼らがいなければ、普通に退職してしまうわけですが、そこはもう仕事として割り切るのか、人間味が出てしまうのか判断にこまる場面でした。会社を楯にして何かをすることを逸脱して Person to Person Communication に持ち込むのは時として弊害があることは否めないでしょう。しかし、このケースは身を以って人の温かさを体験できました。顧客として、広告代理店を通さずに最後まで営業の意見に耳を傾けてくれ、それを真摯に対応し、どんな意見も聞き入れ、そして教えてくれ、幸運なことに彼らのセールスが大幅に伸びたことは、こちらとしても最高なできごとでした。最後まで仕事をさせてくれ、4ヶ月と言う短い間にとても良好な関係を築かせていただいた「華航泰國分公司」の方に、この場を借りてお礼申し上げます。

 今年中は、新しい会社に行ってもナショナルフラッグの仕事が舞い込みそうです。ありがとう、チャイナ エアライン。今じゃ「あー、あのよく飛行機落っことす会社ね」なんて死んでも言えません。確かに昔は落としただろうし、バンコク支店での対応もまずいことがあるのは否定できないけれど、(オフィスに行った人なら分かると思います)入ってすぐ右のマーケティング部ではそんなことは一切ありません。この新聞広告が縁で、バンコク発日本行きの中華航空ご利用の日本国籍を持つお客様は12月より台北でのストップオーバーが無料となるように交渉が進んでいることも付け加えておきましょう。

 今朝メールをあけたら同じ大学に通っていた友達が入りたかった会社に内定したという報告を寄せてくれていた。彼女はフランスに興味があり、どうやらしたいことが叶えられる環境があるような会社に決まったらしい。それを聞いてなんだかとてもうれしかった。やりたいことをできることは、その時その時の精神状態にとても作用するだろうし、次の目標が持てるからだ。

 ぼくは今の会社に本当に不満が溜まっている。新聞社の広告営業をしているのですが、会社に入ったばかりの時に上司が言ったことは、「問題が起きたら俺たちがどうにかするから。」でも実際は、他のスタッフが起こしたトラブルを収集するために彼らの顧客のところに謝りに行かされたり、別のタイ人営業とある顧客を取り合いになった時には上司不在でその顧客に「どうにもならないんです。社内の事情をお話して申し訳ないのですが、どちらにお任せされるか選んでください。」と聞いたこともある。社会人1年生で他の先輩が面倒を見なかったインターンシップの学生と営業先を回り歩いたりもした。育てられてもないのに、知識が不十分なままで人にものを教えるような環境を作ったり、背景をあまり知らされないまま「謝ってきて。」とだいの大人が平気な顔をして言うような会社です。日本語の出来ないタイ人スタッフに日本語で書き置きをしたり、いざぼくがやめるとなるとあまりお世話も何もされてないのに「監督不行届きでした。」と言い出す人までいる始末。これじゃぁ、いくら製作側が2時3時までコンピュータいじって作成したところで、事故は減るわけがないでしょう...はじめから、「ほったらかしにするから。じゃぁ。」と言われればまだがんばれる。でも、言われたこととしなければいけないことが違うようなことでは、学校出たての半人前のぼくでも嫌気が差す。先輩がした翻訳を直していると、電子レンジをマイクロウェブなんて書いていて、「こんなものが新聞に載ったら…」なんて青ざめたこともあります。

 上に立つひとがその業界で経験不足だったりしてそれでもし、「あいつは仕事を分かってない。」と何のサポートもなく言われたら、どうしますか。仕事が理解でき、それを人に教えることができる人とぼくは働いてみたいです。次の会社は、本当に慎重に選んだ会社なので、こういうことが起こらないことを願います。一つ一つの言葉の意味が分かって、それを使い分けられる大人にならないと、仕事なんてできないんだな。そう感じた9ヶ月間でした。来週の金曜日でそんな会社ともおさらば。
 
 ついやってしまうこと。ぼくには沢山あります。暇な時に友達に電話を掛けたり、タバコを吸ったり、色々。でも、たまに「あー、いけないんだけどな。」とまじめに考えてしまいながらもやってしまうこともあります。悪い癖です。  

 時間がないときはバンコクではタクシーやバイクタクシーを使ってしまいます。でも、彼らは所詮東北部の貧しい地域の出身の人間。敬語を使って話したりすることは毛頭期待していません。お釣りがないと言ったり、遠回りしたり。時間がないときにやられるととんでもなく頭にきます。無論、彼らと話すときは敬語なんて使わず、あー、うーで終わらせます。  黒いタイ人を見たらまず、信用できません。どうしても下に見てしまいます。彼らは歩くのが遅いし、何をやっても言ったとおりに出来ません。  

 腹をすかせている犬を見たら、えさを買って買い与えてしまいます。犬が好きだからです。  

 今日もタクシーの運転手が遠回りをしたので、つい「さっき、***を曲がれって言っただろう。このクソボケ。だから東北部の黒いのはだめなんだよ。」とポロリ...連日仕事の引継ぎとか、やらなくて良い翻訳の仕事とかで疲れているせいもあるのかもしれないけれど、もう少し大人にならなければと思う今日この頃です。しかし、タイ人のタクシーとか乗り物の運転手、人に対する口の聞き方を勉強して欲しいものです。
 ぼくは、犬がすきです。今日も野良犬にえさをやりに行きました。この犬、もうえさをやり始めて13ヶ月目になりました。もともと、日本語を教えていた学校の前に住み着いていた犬で、初めて見たときにあまりに汚なそうで、腹を減らしていたので、えさを与えてみたところ、次の日からキチガイみたいに喜んでぼくに近寄ってくるので、そこから最低週に1回、バンコクの隣の県までえさをやりに行くことにしたのです。  

 犬の名前は誰が付けたのか知らないけど、テム(メス・推定7歳)とタワン(オス・推定4歳)で、いつもベーコンを買い与えています。この2匹の犬、いつもえさをやる前に押し合いへしあいのけんかをして、しまいには仕事帰りのぼくによっかかって来ていつも服を汚してくれます。

 テムのほうは、いつもぼくがやってくると、きゃいんきゃいん吠え、ベーコンを売っているセブンイレブンに直行するのが分かっているのか、先にセブンイレブンのほうまで走っていってしまいます。タワンのほうは、テムがぼくに近寄ろうとすると押しのけて体をくねくねさせてきます。クレヨンしんちゃんのようなキャラクターです。そのタワンを横目に、テムはいつも牙をむいて怒っています。  

 日本の実家でも犬を飼っていました。ミミという名前で、小学校2年生から去年まで14年間生きました。いつもセブンイレブンまで散歩に行き、好きだったお菓子とか牛乳とかを毎日与えていたし、貧乏そうな格好をしている人にはそっぽを向くので、そういうところがテムやタワンとかぶります。  

 テムとタワンを時々学校のおばちゃんと一緒にトイレで洗っていました。ダニが湧くので、シャンプーを買って、3階にあるトイレまでぼくが下着姿になって抱えて上がり、乾くまで冷房のついた教室で電気を消してじーっとさせるのです。その間にいすを持ち上げて追い掛け回したりして、おばちゃんが部屋に乱入してきて、10分近い説教を受け、乾いたらまた抱えて下に降ろすのですが、下着姿なのでカウンターのお姉ちゃんたちが顔を赤らめているのに嫌な顔をします。そんな学校が8月末に閉鎖されてしまったので、今日はそれ以来はじめて、お絞りを買ってきて犬を拭いて見ました。汚かった…  

 犬を見ると、何か落ち着くのです。 

 実はぼく、土日は日本語の先生のアルバイトをしています。別にお金が欲しいわけでもなく、平日会社で働いているのに、どうして休日までこんなことをしているのでしょうか。

 こっちに留学していた時からしていることの一つで、時々生徒とご飯を食べに行ったりもします。学校内の規則では、生徒とプライベートでかかわりを持つことは禁止されているけれど、どうしても仲良しになってしまうのです。そんなこんなで、もうやめたいと思っているのですが、それを察知したら学校がすぐに時給を上げてきます。「他に探せるじゃん。」と言っても、探そうとしない。時給、あまり良くはないけど、普通に生活すれば1時間で1日分稼げちゃう金額です。かといってぼくが金持ちとかそういうわけではないですけれども…

 今日は家から50キロ離れた学校まで行ってきました。なぜか家が空港に近いせいで、バンコク周辺を持たされてしまうのです。ブーブー言えば「特殊言語手当て付けるし、とりあえず我慢して。」それでも遠すぎて我慢できないので、「今月末でやめるわ。3週間あげるから、新しい人探せるでしょう?」というと、「今年3回目だわね。時給アップ。」と軽く返される。

 なんだかおばちゃんの生徒さんに好かれてしまうらしく、1回やめたときに生徒がオフィスでブーイングしている場面に遭遇してしまい、「だったら最後までやってやるよ。」と言ったのが事の発端でした。その生徒さんたちが今回で一区切り付けると言うので、土曜日だけは休みに回したいのです。。

 いろんな生徒を見て、タイ語の練習させてもらって、決して悪くはない環境だけど、時間が持てるかもてないかということをふと考えた時、正直言って負担だと思ってしまう。それがぼくにとっての副業です。
 

 1982年1月7日。この日はある2人に共通する。それは、友達とぼくの誕生日。この日があるから、お互い双子の兄弟ということにしている。2人は同じ大学で出会って、ひょんなことから誕生日が同じだと言うことに気づき、仲良くなる。友達は芯の強いとてもしっかりした女の子。妹と言うことになっている。頼りないのはぼくのほうなのですが…

 大学時代のパプアニューギニアから来た友達 Steve とは、いつも "Bro" と呼び合う。どうやら彼の国ではあるものは何でも分け合うという道徳背景があるようで、お互い助け合って学生生活をしていたことを思い出した。

 1回生のゼミの時に知り合ったフィンランドから来た Tiia は、頼もしいお姉さんだ。何か悪いことをするとすぐに叱られたような記憶が。今は卒業して、国に帰ってしまったけれども、ときどきMSNで話すくらいだけど、いつもと変わらないテンションで2,3時間の会話があっという間に過ぎる。

 そして場所は変わってここタイ。たびたび登場している某フラッグキャリアのバンコク支店長補佐・ピー・ハウス。この人もまた、ぼくのことを時々「弟」とタイ語で呼んでくる。歳、一回り違うけど、まぁ、こういう呼ばれ方なら許すとする。というのは、これには話せば長~いお話が隠されているのだ。ここで触れると誤解が発生してしまうので、敢えてどんな経過があったのかと言うことは書かない。でも、「飲みすぎるな。タバコ控えろ。よくイライラするだろう。お母さんいい人だろう。」的を得た注意やコメントを時々顔をじっと見ながらしてくる。確かにうちの母親はぼくに「勉強しなさい」とは一度も言った事がない。むしろ、「食べなさい。寝なさい」を連発して、大学入試の前には寝すぎて心配してたと後になって言われたくらいだ。

 ブラザーフッドはお金で買えない。大学で応用社会学の勉強をした時にフィリピン人の先生が言っていた。教材として配られたプリントにも書かれていた。お金で買えないもの。それは得がたく、失いやすいもの。「出会いは縁。」されば大切にしようじゃないか。ブラザーフッド。
 
 昨日仕事の途中で休憩していると、あるインド人が話しかけてきた。どうやらペニンシュラホテルというところに行きたかったらしいのだが、ペニンシュラプラザという全く別の建物に連れて来られたらしい。"Can we walk down to the hotel from here?"と訊かれ、いたずら大好きなぼくは歩かせようと思ったが、1時間近くかかるので素直に"No way, it takes 40 minutes, sir."と言うと、"Then how can we go there?"と聞かれた。"You take the SKY train, and drop off at the terminal station"と言うと、そのおじさん、どうやらもじもじし始めたのです。スカイトレインの駅まで連れて行き、それから川を越えてホテルに行かなければ行けないことを説明し、一緒に改札をくぐって逆方向に送り出すまでの15分、彼はぼくのことをタイ人だと思っていたらしい。最後に、実はぼくはタイ人じゃないんだ。日本人なんだよ。と言うと、"Oh! Really? But your face's really similar to Thai"とお決まりの文句を浴びせられ、バイバイしました。

 3週間前は、ベトナム人のお姉ちゃんに"Could you please tell me the bus number goes to ***?"と話しかけられ、めんどくさいから教えてあげていると、お互いがお互いのことをタイ人だと思っていたらしく、何で英語で話しかけてくるの?と答えると、私タイ人じゃないの。どこから来たかあててみて?と言うので香港?台湾?中国?と聞くと、「違うわ。ベトナムよ。」と…「あー、ベトナム人かい。」と納得したのは良かったけど、"Were you brought up in foreign country?"と返され、"Huh? Do you think I am a Thai?"と聞き返す。もちろん、"Yes.. but it seems you are not.., are you?"と…またか。。と思いパスポートを見せるとびっくりされました。何でと聞くと、だって…「顔タイ人だし、質問に答えてくれるし、でも英語の発音がタイ人のものじゃないのよね。。流暢なのよね。だからどこか外で育ったのかと思ったの。」と説明を受けました。タイにいると道端にいてもタイ人に道を聞かれたり、台湾でもマレーシアでもベトナムでも現地人に間違えられて何度も「ぼくは…この国の人間じゃないんだ。。」と言い、その度に人に笑われているのです。顔は無国籍、友達は多国籍。毎日どこかの大陸の友達とあーじゃないこーじゃないと話すのも、なかなか楽しいものです。無国籍ながらも、会社で「日本のパスポートとタイのパスポート、両方持っているの?」とか聞かれ、「両親日本人です。」と顔を引きつらせながら言ったことは今でも忘れられません。

 海外にいる人ならば、現地人みたいな生活一度はしてみたいですよね?でも、間違えられた時、時にいらいらしませんか?
 今年の3月に大学を卒業したぼくは、今はバンコクで働く社会人1年生。大学のときにタイに交換留学に来たのだけれど、そのときは英語で授業だったのでタイ語が学べず、大学を卒業するまで余った時間を利用してタイに滞在することにしたのです。そして卒業間際、今の会社に就職が決まったのですが、会社としての魅力を感じられずに辞めることに。新しい会社が決まり、今は仕事の引継ぎに追われる毎日です。  その社会人1年生で経験できた一番おいしかった出来事は、お客さんに誘われて遊びに行くことができた台湾旅行でした。そのお客さんの会社は航空会社で、ピー・ハウスはそこの支店長補佐をやっている人なのです。そのピー・ハウスが引率するツアーを今日は書き出してみることにしましょう。  

 先週の金曜日、朝5時バンコク・ドンムアン空港集合で、7時前の飛行機にのり、台北へ。初日は台中に行くことになっていて、着くなりバンコクでつい2ヶ月前に知り合った台中在住で中国語ぺらぺらの木村さんに案内してもらうことになりました。なかなか落ち着かれた方で、話題の豊富なおねえさんです。再会後、台中そごうのお茶売り場のお姉ちゃんがかわいかったり、屋台を切り盛りしている日本語を話す台湾人のお爺さんに教育勅語を知らないとはなんぞや...と説教されながらもゆで卵をごちそうになったり、最後はコンビニめぐりでご満悦でした。コンビニ...タイのコンビニは使えなさすぎですが、台湾のは日本のと似ていて、とても嬉しくなり、(もらった人には悪いけど)人のお土産までセブンイレブンで買ってしまいました。ごめんよ。。そうこうしているうちに朝5時が近づいて、その夜は寝ずに木村さんとお友達の日本語超うまい台湾人に付き合ってもらいました。ありがとうございました。そして、2日目は台北ですが...午前中バスの中で寝すぎて何箇所か見学をすっぽかしてしまいました。ピー・ハウス曰く「あまりに気持ちよさそうに寝ていたから、起こせなかった...」起こせよコラ。。。2日目は日月潭というきれいな湖を中心に見学して、夜に台北に。ピー・ハウスお父さんが中国人でお母さんはタイ人なので、中国語はばっちり。ですが、食事中にレストランでぼくのコップにお茶が入っていないのを見ると、「ごめん、ごめん」とどら声の片言日本語で言いながら小指を立ててコップをかっさらってお茶を汲みに消えたりするキャラの持ち主で、オフィスでもお茶の入った薬缶を持ってわざわざ汲みに来てくれる35歳のおっさんです。ただ、マイカップで人にお茶飲ませるの、やめて欲しいです。おっさんに食事の世話をさせながら、夜になり士林夜市へ。お茶を買って、その夜はホテルでぐったり。3日目は最終日だったのですが、朝から故宮博物館や中正記念館(蒋介石記念館)、淡水と呼ばれる台湾海峡に面した港町を散策して、空港へ。ハードなスケジュールだったのですが、楽しかったです。ただ、中国語が全く分からないぼくに中国語で話し続ける人々にはちょっと困りましたが、それをフォローしてくれた木村さん、本当にありがとうございました。  

 台湾。今の会社で広告関連の仕事をするまで正直言って全く興味がなかった場所でしたが、今は台湾人と接して日本人の感性に似たものを持ち合わせていて、落ち着ける場所かなと思えるようになりました。そして、よく落ちると言われている某ナショナルフラッグの中に入って一緒に仕事をさせてもらえ、今では「この会社はいい会社です。」と理由と共に言えるようになりました。社会人1年生も半分が過ぎたわけですが、台湾と近づけたことが一番の収穫になったんじゃないかなと思います。最後の仕事はこのナショナルフラッグの広告作成。クリエイティブなものを作成したいです。目下打ち合わせ進行中なり。
 戦後の情報通信技術の進歩は瞠目に値する。情報化社会の発達を短く表せばこんな概論になるのではないでしょうか。電話は進歩しテレビ電話やFAXやネット通信にまで発展し、端末さえあれば世界のほとんどの場所からインタラクティブな通信ができる世の中。お金さえ多少かかるものの、「あっ。あれどうなったんだろう」と思いつくなり即ネットサーフィン。1982年生まれのぼくには、当たり前のことなんだろうけれども、いかんせん活字離れは危惧すべき事態ではないでしょうか。
 昨日の夜、家に帰ってインターネットを開くと、イラク日本人人質の殺害声明が発表されたというニュースが。殺害映像もこの「インターネット」にアップデートされて世の人に戦争とはほとんど関係のなかった外国人の最期が流されてしまいました。会社の先行きが不安とかという理由で自ら命を絶ったりする人も、あの映像をご覧になられたら、混乱の中で迎える不本意の死と生かされていること、相反する2つのものが自分にとってどういうものかということを理解できる機会だったのではないでしょうか。世論は24歳で殺されてしまった被害者の方について色々と言っているけれど、ぼくは何も言うことはないと思う。自己責任という言葉で物事を括ることは簡単かもしれないけれど、自分にしか分からないことだってあるのだから。。その「自己責任」と言う批評でさえインターネットで拾えてしまう情報の軽さが今の社会を動かしているのだろう。
 今回の事件を通じて、1人でも多くの人が何かを感じ取り、見るべきものを見れるとしたら、人質の気持ちも多少は安らぐのではないでしょうか。情報化社会における社会のインターネットに対する依存度はますます高まり、弊害も生み出す傍らで個をつなぐ架け橋になってゆくのです。このブログだって、ネットが発達していないと成り立たないんですから。。