牧師室から
『美しい怒り』詩篇109篇
小泉美早子牧師
礼拝ではよく交読がなされます。詩篇109篇は交読には向かないでしょう。別名呪いの詩篇とも呼ばれているからです。それほど、詩人の怒りや憤りが熱くまっすぐに発せられています。怒りを神に向けるならば、正しい選択をすることができると信じているからです。
私たちも日常生活の中で怒りを感じる場面はあるでしょう。怒りは神が人間に与えて下さった大切な感情のひとつなのです。怒りの感情がかえって慰めや力となることもあるのです。問題は怒りをどう取り扱うかです。怒りが暴走してしまわないためにも、私たちは感じているありのままを主にお伝えする祈りが求められているのではないでしょうか。
祈りの中で怒りの対象は相手本人だけでなく、相手の家全体です。別の角度から言うと、それだけ強烈な言葉を出さないといけないくらいに彼は傷ついているのだとも言えます。
同時に詩人は断食をしています。明らかに命のエネルギーの減少です。まるで苛立つ心を鎮めて、熱くなりがちな思いをクールダウンさせるように。その分自分の思いを主にゆだねるのです。相手を赦すという言葉は一言もありません。ゆるしがあまりにも簡単に語られることは人間の感情としては無理があり矛盾だらけで違和感があるのです。ゆるしの強要など出来ません。自分の思いを主にゆだねる。それだけでとりあえずは十分なのです。
その代わりに詩人は主を賛美します。私を祝福するのは主よ、あなたです。私を弁護して下さるのもあなただけです。祈りの中で主の優しさに触れて、回復していく姿がここには見られます。心が祈りに向かう時、主が怒りで燃え尽きないように助けてくださいます。主が傷ついた私たち、怒りの感情を持て余し気味の私たちを優しく取り扱ってくださいます。そこに主の慰めがあるのです。
〜みことばの黙想と適用〜
私たちは日常生活の中で、様々な場面で怒りを覚えることがあります。理不尽なことをされた時などは特にそうです。しかし、その怒りの取り扱い方によっては、暴走してしまって大変なことになってしまいます。今日の礼拝メッセージを通して、怒りをどのように取り扱えばいいかについて考えさせられました。怒りを人にぶつけたり物にぶつけたりしても何の解決にもなりません。かえって問題を大きくしてしまうだけです。また自分にとっても何の益にもなりません。では、どうすれば良いのでしょうか?詩篇109篇全体を読むと、そのヒントがあります。詩人は、人に向かってではなく神に向かって自分の怒りの感情を思う存分ぶつけています。ここに解決の鍵があります。聖書には、「怒っても罪を犯してはなりません」とあります。怒りのエネルギーは凄まじいです。爆発力があります。破壊力もあります。しかしその反面、取り扱い方によっては素晴らしい芸術作品を生み出すこともあります。あるいは仕事においてすごい実績をあげることもあります。大事なことは、怒りの感情は自分の中に押さえ込むのではなく、神に向かって包み隠さず全てを打ち明けてゆだねることです。生けるまことの神に祈るとき、神は優しく取り扱ってくださいます。助けてくださいます。理不尽なことをされたのならば、そのことも正直に神に訴えるならば、神が正しく裁いてくださいます。怒りの感情を持て余し気味の私たちを、主が優しく取り扱ってくださいます。祈っているうちに、最初は怒りをぶつけることで始まった祈りが、主への感謝と賛美へと変えられていきます。
ハレルヤ❣️主よ、感謝します💖