真霜拳號vs木高イサミ戦と、大阪プロレスの思い出話で感じた“団体を続ける財産” | KEN筆.txt

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鈴木健.txtブログ――プロレス、音楽、演劇、映画等の表現ジャンルについて伝えたいこと

BGM:槇原敬之『HALF』

 

2日はまずニコニコプロレスチャンネルKAIENTAI DOJO5・28新木場1stRING大会中継。真霜拳號と木高イサミによるCHAMPION OF STRONGEST-K戦が話題となり、超満員の中おこなわれる。

 

番組の中でも紹介したがこの2人の関係は当時から実に険悪だった。2002年4月にプエルトリコから逆上陸を果たしたK-DOJOの中で、真霜は当初から頭角を現し連勝街道をバク進。

 

その年の7月に3期生としてデビューしたのがイサミで、デビュー3戦目(7月21日、Blue Field)で真霜と対戦。わずか73秒、腕ひしぎ十字固めで無敵だった先輩を下してしまう。8月17日のディファ有明で組まれた再戦もイサミが3分50秒、飛びつき腕ひしぎ十字固めで返り討ちに。

 

真霜が雪辱を果たしたのは3度目のシングルマッチが組まれた9月30日のビッグショー。これがK-DOJOにとって初の後楽園ホール大会だったわけだが4分42秒、真剣(右ハイキック)からのレフェリーストップによるTKO勝ちだった。これを最後に2人の闘いは一区切りがつき、その年の最終興行(12・23ディファ有明)の愚乱・浪花戦を最後にイサミは千葉を飛び出した。

 

「プロレスは好きだけど、できないものだと思っていたんで総合なら体重別だから挑戦してみようかっていう気になって。4年ぐらい高田道場に通っていました。その頃、TAKAみちのく代表の『毒針日記』を読んだんです。あそこに『身長、体重、経歴すべて不問。プロレスラーになりたいと思って諦めているやつは俺のところへ来い!』と書いてあって、これは自分へのメッセージだと思って。いって、それでダメだったら諦めがつくじゃないですか。一番好きなのはDDTだったんですけど、自分は絶対に入っても逃げるだろうと。それで、逃げられないように飛行機でプエルトリコへ渡ったんです」

 

イサミがプエルトリコへ渡った時、真霜は先行隊としてバトラーツへ上がっていた。そして自分も2ヵ月目にケガをしてしまい日本へ戻る。その間、逆上陸を果たしたため旗揚げ戦には出場できず、4ヵ月遅れのデビューとなったのだが要はほとんどプロレスの技術をつけていなかった。

 

「普通のスタイルでこの人たちとやっても勝てる気がしないから、だったらほかがやっていない総合のスタイルでやればいいじゃんて思いました」

 

それを真霜は「格闘スタイルじゃなくて格闘技そのもので来た。プロレスする気ないんじゃね?っていうスタイルが嫌だった」と受け取った。イサミにはイサミの事情があった上での闘い方だったのだが、真霜には受け入れ難いものだった。

 

そしてイサミは千葉から消える。今となっては、K-DOJOを離れてもプロレスを続ける人間は増えたが「最初に謀反を起こした」のがイサミだった。気まずくて入場曲も使えず、一時期リングネームを“isami”にしたのもそのためだ。

 

フリーになったあと、TAKAから若手リーグ戦「K-METAL LEAGUE」への出場を打診されたことで団体との関係は修復されたものの、真霜との個人的感情までは良好にならぬまま続いていった。

 

あれから15年が経ち、2人は当時の自分と比べ物にならぬほどのスキルを身につけ、どこへいっても通用するプロレスラーとなった。だからこそ、このタイミングで闘う必然性があった。

 

イサミが在籍していた頃、まだS-K王座は設立されておらず千葉を出て業界を流浪している間にその価値を誰よりも高めてきたのが真霜だった。ユニオンプロレスのリングで“大家拳號”として巻き込まれ職人っぷりをいかんなく発揮する真霜と再会するも、イサミは「いや、あれは大家拳號ではなく真霜拳號です。怖いから嫌いだし、嫌いだから距離をとっています」としながら「でも…いつかはちゃんとした形でやってみたいですね」と続けた。

 

 ▲K-DOJOオフィシャルHPより

 

その“ちゃんとした形”で闘い、怖い存在の真霜からベルトを奪取したイサミに対し挑戦の名乗りをあげたのはTAKAだった。この2人にも、前述の過去を思えば真霜とは違うやるべき理由がある。決戦の日は7・16TKPガーデンシティ千葉に決定。

 

▲K-DOJOオフィシャルHPより

 

このように歳月を重ねて熟成される物語こそが、団体を続けることで生まれるの財産なのだと思う。それは、このあとの番組「鈴木健.txtのオールナイトニコプロ」でも感じた。

 

今月15日がテッド・タナベさん九回目の命日ということで、直系の弟子である吉野恵悟レフェリーを招き、その思い出と“あの頃の大阪プロレス”について語るというもの。あの頃とは、吉野さんが業界入りした当時と、2010年&2012年のMoveOnアリーナの風景。それを画像とともに振り返った。

 

 

テッドさん話に関してはみちのくプロレス以前にさかのぼればいくらでも出てくるし、吉野さんは“あの日”にその場へいたひとりとして克明に憶えている。そして亡くなられた翌年から今も続いている大阪勢と東京勢が集結してのお墓参りで起こるエピソードについても話した。

 

▲MoveOnアリーナがあった頃、バックステージにはテッドさんの遺影が置かれ選手たちが試合へ臨む前や終えたあとに手を合わせていた

 

じつは番組開始直前、ニコプロスタジオ内にあるトイレの扉が自然と開いた。それもけっこうな勢いだったから、てっきり誰か中に入って出てきたのかと思いきや、その場にいたスタッフを含む3人以外は当然いなかった。

 

普通なら気味が悪くなるところだが、当たり前のように吉野さんも私も「これは絶対、テッドさんがいるよ!」と喜んだ。自分の話題やみちのく&大阪の思い出とあれば、じっとしていられるような人ではない。

 

そんなテッドさん話はもちろんだが、大阪プロレスのエピソードがあまりにグンバツ過ぎた。なぜ2010年と2012年の話になったかというと単にその時、私がMoveOnアリーナを訪れて写真を押さえていたからなのだが、これも今見ると相当面白く、絵だけでも想像が膨らむ。

 

▲2010年4月25日観客として「大阪ホリデーパラダイス」を楽しむためにチケットを買って観戦。ありがたいことにリングサイド1列目を用意していただいた。3代目えべっさんこと菅沼修と松山勘十郎の「UFO!」ネタ、大好きだったなー

 

そこに当事者である吉野さんのぶっちゃけ話が加わるのだ。中でも“プロの酔っぱらい”の異名をほしいままにする菅沼修さんのエピソードは、広く世に伝えなければ大阪の笑いの損失となるので『週モバ野郎』の方で晒そうと思う。

 

また、なんばのど真ん中に常設会場を作ったスペル・デルフィンさんの偉大さを再認識させられた。試合用の会場だけでなく、そこに事務所と合宿所、グッズ売店、はてはバーまであるという環境を東京の歌舞伎町に置き換えれば、それがどれほど恵まれているかがわかるだろう。

 

▲2012年5月20日のMoveOnアリーナの風景。なんばの歩道に面しており、メインを務めたくいしんぼう仮面とヨーネルサンダースが返り客を見送る

 

今年も命日前後に吉野さんと名古屋のテッドさんのお墓へいく。その報告もかねて、今月の吉野さんのレギュラー番組『ちょこっとオールナイト』に出させていただくことになったのでお楽しみに。

 

テッドさんと大阪プロレスの話だけで3時間半ノンストップで語れたオールナイトニコプロは、6月10日(土)23:59までタイムシフト視聴可。全編無料です。

 

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