ハリー・ニルソン「ハリーニルソンの肖像 Harry」 | Kenny@爺の人生イロイロ オヤジがウロウロ

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私の一番好きなアーチストはちょっとマニアックだがシンガーソングライターのハリー・ニルソンである。だれや?それ?

1941年6月15日生まれで1994年1月15日没(享年52歳)

私が悪いことをして「遠島」を申しつけられ、お情けでCD1枚だけプレイヤーとセットで持って行くことを許されたら、ローラニーロ「New York Tendaberry」か、ジェイムステイラー「Mud Slide Slim And The Blue Horizon」か、キャロルキング「Tapestry」か、ビーチボーイズの「Pet sounds」か、どれにしようかな??と迷ったあげく結局たぶんニルソンの「ハリー・ニルソンの肖像Harry」を持って行くと思う。

1941年6月15日午前2時15分ニューヨークブルックリンのブッシュウィック病院で生まれたハリー・ニルソン。母親が21歳、塗装工であった父親が24歳の時の子だ。母親の名前は通称ベット、父親の名前は本人と同じハリー。ややこしいので父親はハリーシニアと呼ぶことにする。
戦争で父親が出て行ったあと母のベットが世話をした。ほとんど母子家庭状態であった。
1948年ニルソンが7歳の時、飼い猫ソフティの凍死。この出来事がニルソンの心にかなりの衝撃を与えたようだ。
1952年母がハリーと妹のミシェルを連れてニューヨークからロスアンジェルスに引っ越し。母はドライヴインレストランにウエイトレスの仕事を始めた。そのころから母は酒におぼれがちであった。住み込みであったが引っ越し先はトレーラーハウスだった。
ニルソンはスポーツマンで頭も良かった。小学校では成績優秀だった。
色々あって1957年再びニューヨークへ引っ越し。ベイポートハイスクールでバスケットと野球を楽しみ、1960年、19歳の頃、経歴を詐称?して銀行の面接を受けコンピュータプログラミングを学び、セキュリティファーストナショナルバンクに入行。32人のスタッフと3台のコンピュータを受け持つ夜間勤務担当の管理職になった。傍らで音楽活動もした。部下を抱え7年勤続したのはやはり優秀な人材だったのだろう。
1964年10月24日サンディ・リー・マクタガートと結婚。この頃に出来た作品「1941」「ウィザウトハー」「ドントリーヴミー」など初期の代表作だ。作曲家でギタリストのスコットターナーやフィルスペクター、ハーブアルパートなどとの出会いがニルソンの才能を開花させた。
1967年、ニルソンは26歳の時、母親のベットから、父親ハリーシニアは戦死したと教え込まれていたが、実は生きていたと言うショッキングな事実知った。最初の妻サンディと離婚して間もない頃の出来事だった。母親ベットは、ハリーが有名人になって、いずれ事実が明らかになるので、真実を息子ハリーに明かした。この事実を知ったとき書いた曲が「1941」である。ニルソンが過去を悲喜劇的に歌った、自伝的な歌詞の歌だ。


1967年「1941」や「ウィザウトハー(ウィザウトユーではない!)」などの名曲を含む実質的なハリー・ニルソンのデビューアルバム「パンディモニアム・シャドウ・ショウ」この頃発表された。このアルバムの中の1曲「You Can’t Do That」はビートルズのレノンマッカートニーの作品だが、ジョン・レノンがこのアルバムを絶賛し、このあたりからニルソンとジョン・レノンの交友が始まった。「You Can’t Do That」の中にはよく聴くと「She's a Woman」「I'm Down」「Drive My Car」「You’re Going To Lose That Girl」「Good Day Sunshine」「A Hard Day’s Night」「Rain」「I Wanna Hold Your Hand」「Day Tripper」「Paperback Writer」「Nowhere Man」「Do You Want To Know a Secret?」「Norwegian Wood」「Yesterday」などたくさんのビートルズ作品の1節をもじったり、ちりばめられている。

 

この「ハリー・ニルソンの肖像Harry」のアルバムジャケットにはニルソン本人が10歳の頃の写真が前面に出ている。この写真を見る限り、「ええとこのボンボン」に見えるが、母子家庭で決して裕福でなかった子供時代の珍しい写真だ。このアルバムの中には「The Puppy Song(小犬の歌)」や「Maybe(メイビー)」と言った名曲のほか、ビートルズの作品「Mother Natures Sun(マザーネイチャーズサン)」や伝説的黒人タップダンサーのビルロビンソンを歌った「Mr.Bojangles(ミスターボージャングル)」そしてニルソンが映画「真夜中のカウボーイ」のために書いた名曲「I Guess The Lord Must Be In New York City(孤独のニューヨーク)」などが収録されているが、この「孤独のニューヨーク」は映画では不採用になり、替わりにフレッドニールの作品「Everybody‘s Talkin’(うわさの男)」が採用され、この歌を皮肉にもニルソンが歌って、ちゃっかり?グラミー賞まで受賞してしまった。このアルバムの中にちょっと異色の作品が入っている。「Mournin' Glory Story(モーニン・グローリー・ストーリー)」だが、さっと英語を聞き損じると、「輝かしい、朝の物語」と勘違いしそうだが、とんでもない!路上で眠る酔いどれホームレス女モーニン・グローリーの凄まじい生きざまを歌ったものなのだ。

私はこのアルバムの他、1967年~1973年までの下に並べた初期のアルバムは全部CDで保有している。

「Pandemonium Shadow Show (パンディモニアム・シャドウ・ショウ)」 (1967)

「Aerial Ballet (空中バレー)」 (1968)

「Nilsson Sings Newman (ランディ・ニューマンを歌う)」 (1970)

「Nilsson Schmilsson (ニルソンシュミルソン) (1971)

「Son of Schmilsson (シュミルソン二世)」 (1972)

「A Little Touch of Schmilsson in the Night (夜のシュミルソン)」 (1973)

余談であるが、1998年、トムハンクスとメグライアンが出演した「ユーガッタメール」と言うロマンチックな映画の中でニルソンが歌った歌が3曲もエエ場面で流れておりました。

「The Puppy Song」

「Remember」

「Over The Rainbow」

 

今日はニルソンの人生のほんの前半部分だけの話だが、後半はジョン・レノンとの酒浸りのむちゃくちゃな生活、リンゴ・スターとの友情などビートルズとの交遊、そして飲酒・薬物に溺れながらも新たな創作に挑戦しつづけたその波瀾万丈の続きの人生について書きたいが、書けば原稿用紙100枚くらいになりそうなので今日はやめておく。