トラック諸島の終わらない昭和 | ケネディスタンプクラブ日記

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四谷駅前のケネディスタンプクラブの日記です
商品の紹介など書いていきます。

 今回はミクロネシア連邦のトラック諸島について書いてみます。
 まず、こちらの切手をご覧ください。

トラック諸島ダイビングスポット 切手小型シート ミクロネシア連邦発行 | 切手,オセアニア | 趣味の中古切手や紙幣・硬貨の販売と買い取り|ケネディ・スタンプ・クラブ (kennedystamp.jp)



 南洋の色鮮やかな魚たちと、ダイビングを楽しむ人たちの姿が描かれています。
 ですが、よく見ると、中央にはプロペラの飛行機の残骸が、そして奥の方には更に大きな何かの影が確認できます。
 プロペラ機も奥の影も、旧日本軍の戦闘機と軍艦です。共に第二次世界大戦時にこの海に沈みました。
 現在ではチューク諸島と呼ばれているトラック諸島は、スペイン、ドイツの植民地となりました。その後、第一次世界大戦後の国際連合決議にて、敗者側であるドイツ領のトラック諸島は勝者側の日本の委任統治領となりました。1922年には日本の南洋庁の支社も置かれます。
 その後はインフラ整備と共に諸島の基地化が急速に進み、日本海軍の重要拠点となります。
 第二次世界大戦事を大東亜戦争や太平洋戦争といった呼び名で表すことがあります。フィリピンからインドネシアまで侵攻した日本は、イギリス連邦であるオーストラリアと対峙しつつ、太平洋西側の島々を支配下に置きます。オーストラリアやアメリカに対する日本海軍にとって、トラック諸島はが太平洋戦略のための重要拠点だったのです。
 軍事基地としての整備が進み、連合艦隊の一大拠点となったトラック諸島は、大和や武蔵といった主力戦艦も停泊します。軍に関連する様々な業種の民間日本人の数も増えていきます。
 ですが1942年のミッドウェー海戦の敗退以降戦況は悪化。1943年にはソロモン諸島上空で山本五十六連合艦隊司令長官が戦死。その後、ガダルカナルを含めたソロモン諸島、マーシャル諸島がアメリカ軍により攻略され、1944年2月17日から18日にかけ、アメリカ軍機動部隊はトラック諸島空襲を開始します。
 この戦闘でトラック諸島の基地としての機能は壊滅。以後、太平洋の拠点となる島々を次々と陥落され、硫黄島まで失った日本は、本土空爆が日常となります。
 そしてミクロネシアのテニアン(サイパンの隣)より出撃したエノラ・ゲイが、1945年8月6日に広島上空へ現れるまでになります。

 大量の死者を出した先の大戦ですが、日本国内はその惨禍の痕跡を探す事が次第に困難になりつつあります。
ですが、この旧トラック諸島をはじめ、太平洋各地には、当時の施設が風化しつつも残されています。沈没した戦艦や戦闘機周辺は、現在ではダイビングスポットとして観光地となっています。この切手はそのような場所の一つを描いたものです。
 そこがかつて激戦地だったとは思えないほどの美しく平和な場所で、かつての砲台や軍艦、戦闘機、そして戦死者の魂が眠っているのです。