源氏物語を書いた紫式部の父・藤原 為時(ふじわら の ためとき)。藤原北家良門流、中納言・藤原兼輔(ふじわら の かねすけ)の孫にあたります。藤原兼輔は、小倉百人一首では中納言兼輔。三十六歌仙の一人。そして醍醐天皇の外戚であったそうです。
大河ドラマ「光る君へ」では、岸谷五郎さんが演じられています。
藤原為時の家は藤原兼輔といわれ、その家の一部を継いだとされ、その場所が廬山寺(ろざんじ)だと『京都市平安京創生館』で説明を受けました。
藤原為時は学者肌の人で、出世に関してはうまく立ち回ることが出来ずに辛酸を舐めています。そのために、当時は「婿入り婚」で結婚に関しては妻側の実家が準備していたことが主な原因で、紫式部の婚期が遅くなったとも言われることがありますね。
一条天皇の時に越前国の役人として赴任していますが、その際には紫式部も同行しています。まあ、紫式部にとっては父親の収入が無ければ生活できなかったというのもありそうです。
紫式部の父・藤原為時の越前赴任後の出来事をまとめるとこんな感じです。
◎赴任中に娘・紫式部は先に都に帰り、藤原宣孝と結婚
⇒紫式部が都に帰るきっかけは、父親の用事で都への伝令が必要だったためと言われます。
◎1011年に越後守となり再び受領を務めた。
⇒この時に、息子の惟規も越後国に同行したが、惟規はまもなく現地で亡くなっている。
◎1016年4月29日に三井寺にて出家
<明石の入道のモチーフは父・藤原為時!?>
第13帖・明石は、辛酸を舐め都を後にした光源氏が都へと復活するきっかけになった重要なパート。そして「明石の入道」という京官に見切りを付けて播磨守となり、そのまま出家して明石の浦に住む人物が重要な役目をします。
(都から離れた)明石にたどり着いた光源氏と愛娘・明石の上とのあいだをとりもつために、光源氏が明石の上に贈った文(和歌)の返事を代筆するという少し変わった一面もあります。
最終的には、明石の上の娘・明石の姫君が東宮の御子を生んだと聞くと、大願成就を信じ、家を寺として弟子を残し、深山にあとをくらましています。
源氏物語での明石の入道を見ると、紫式部は父・藤原為時をモチーフにしたのかなって思っています。