自分の中で長い間わかったようでわからないこと。
なんで人に教えてはいけないのか、助けてはいけないのか。
その答えがわかった気がする。
ただし、教えてくれと言われたり、助けてくれと言われれば教えるべきで、助けるべきだ。
しかしながら、「自発的」に教えることや助けることがなぜ良くないのか?
結論から言えば、その人のためにならないからである。
いやもっと言えば、その人のためにならないどころかかえって、害になる。
なぜか?
その際にほとんどの場合は、それを授けられた相手は何も学ばず、同じ目にあった場合に何もできないからである。
本来得るはずだった体験や情報や知識を得る機会を失ったのである。
教えた・救った当人はその機会を「奪った」のである。
子供に転ばない方法を教えるただ一つの方法は、
子供自身が転び、転ばない方法を自ら学ぶことである。
子供を転ばせないように助けたり、
子供に転ばない方法を教えたところで、
子供は転ぶのである。その時に初めて学ぶ。
しかし、教えること助けることで学びが遅くなる。
また自発的に助けてくれる人がいたら、その機会すらないかもしれない。
あるいは、自発的に教えてくれる人がいてもただの時間の無駄になるかもしれない。
何言ってるのかわからないの場合さえあるだろう。
その人自身の経験で体験で、その時得た情報で、他から得た情報で、
自分の中で構築して初めてその人の身になる。知恵や知識になる。
教えたって人は変わらない。ただの時間の無駄になる可能性がある。
助けたって人は変わらない。
本当の助けは次同じ目にあった時にその人自身で解決できるように促すことである。
魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ、ということである。
じゃあ周りは何もできないのか?
基本的には。
唯一教えたり、助けるべきときは、
その人自身が苦しみ、悩み、考えて、教えや助けを求めてきたときである。
その時に人はいくらか真剣であり、変わろうとする意志力をもって教えを乞うのである。
なんでこんなことを言うのかというと、ほとんど変わらない人がいるのだ。
いつもおなじことの繰り返しだ。
私はおせっかいで、ことあるごとにアドバイスしてしまうし、してしまったいた。
大変だろうし、苦しいだろうと想像して、そのたびに教え助けてきた。
それは彼に変わってほしいから言っていたんだが、ほとんどかわらなかった。
何年も。
いや、私が変わってほしいようには変わらなかったと言った方がよかったのかもしれない。
良かれと思って行ったことは結局私の欲望で、もっというと支配欲で、その人に害をなしたと思ってる。ただ本当に悪気はないけど。本質的にはそのようだ。
今思えば私が悪かったのだと悟った。
いま書いていることはある瞬間にプロットは頭に浮かんだ。
私は自分が苦しいから、その人を助けたのだ。
見てて苦しいから。
親が子を思うように、子供にはできるだけ苦しんでほしくないでしょ?
だから親は子供が苦しまないように、傷つかないようにあれこれする。
でもね、それはおせっかいだし、その子のためにはならないんだよ。
長い目で見ると、何の役にも立たないどころか、最悪です。
自分のためなのに、子供のためだと思い込んでやった結果です。
何もしない、あるいは見守ることが最上です。
私の場合も同じで、ことあるごとに助けたり、数多くのアドバイスをした。
その助けはその人を一時的には助けたかもしれないが、
それはその場しのぎで今後使える力を身に着けさせることはなかった。
むしろその力の機会を奪ったのは私である。
今日もまたとあることでおせっかいを言った。
それは至極まっとうで何の問題もないことだと思うんだが、
今述べてきた観点からすれば最悪である。いや悪そのものと言っていいほどである。
私はまたその人が力を得るかもしれない機会を奪った。
ただその瞬間に「これか」と悟って、私はその瞬間から助言するのをやめた。
彼が尋ねてくるまでは何も言うまい。
彼には苦しんでもらうしかない。彼が自ら学べるように。
子供が転ばないと学べないように。
痛み、苦しみ、苦悩は学びのための種のようだ。
それらが私には見えるので、それを避けさせてきた。学びの種を。
私が悪かった。
そんなことをしてはいけない。
その中からしか学べないし、また自分でどうにかしようとか、
あれこれ思いめぐらすこともない。
その機会を奪ってはいけない。
「手助けしても学びが長引く」
「たとえ滅びの道であるとわかっていても、教えてはいけない」
「求められもしないのに与えることは、相手のエネルギーを奪うことになる。また自己満足でしかない。求められてもいないのに与えることは必要もないのだから、自由意思の侵害。また他者を変えたい、つまり、コントロールしたいという欲望がある。」
「それは助けを促すのだろうか?」
「他者が必要としているものを自分が決定している以上、自己奉仕でしかない」
「強い人間が弱い人間を助けることができるのは、弱い人間が意欲的に助けを求めた時だけ。なぜならその時にしか弱い者は変わろうとしないから」
「もしあなたが本当にある人を助けたいなら、近づかずにいることだ。助けることに専心すれば失敗する」
「相手の力を弱めるものは与えない。弱めるものは依存を生む」
「人のことは当人に任せる」
「自分はいいことをしているといような救いようのない自己肯定」=(求められていないのに教えること、助けること)
「私達が、自らの力でもって選択を行いながら、迷路を進んで行くとき、私達は存在の自由を味わっている。1つの道が目的地に導かないことが分かると、私達は自由に方向転換して別の道を試すのだ。」
(*ある人が困っているであろう誰かを助けること、つまり介入することで、その自由を奪ってはいけない。)
「すべての人生、あらゆる出来事、事故、興奮、誘引などは人を常に何らかの知識へと導くものである。あらゆる人生体験は知識である。」
等々の言葉は知っていたが、それらの真意がわからなかった。
何度も何度も同じことを繰り返し、やっとわかった。
子供が転んで、転ばない方法を学ぶように、
人もまた失敗して、苦しんで、学び成長していくのだ。
「自発的に」教えること、助けることでその機会を奪ってはいけない。
したがって、
教えてはいけない。
助けてはいけない。
その人がそれを求めない限りは。。。
ーー
「求められもしないのに与えることは、相手のエネルギーを奪うことになる。また自己満足でしかない。求められてもいないのに与えることは必要もないのだから、自由意思の侵害。
また他者を変えたい、つまり、コントロールしたいという欲望がある。」
ーー
「与えることは相手のエネルギーを奪うことになる」という部分がよくわからない。
相手は何かをもらうと嬉しい。
感謝する。お返ししようとする。
それについてあれこれ考える。
与えた当人はそれによって、元気になる?
相手からエネルギーをもらえるから=奪うから?
そんな感じかな。
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多くの人に足りないのは、オープンマインドと興味や関心、問題意識です。それゆえに知識もない。
愛とは・・・
ーー
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
コリントの信徒への手紙一 / 13章1-13節 「愛」について | 真実は? (ameblo.jp)
愛とは?知識=真理とは?以下によれば2つは同じものであるそうだ。
ただ一般的な知識や愛の概念ではない。
ーー
知識である光の本質が愛なのであり、愛が悟りへと導くというのは工作によって歪められた考え方だ。愛とは光であり、その正体は知識である。あなた方の環境で共通に用いられている定義によるとき、愛は意味を成さない。愛するためには知らなくてはならない。そして、知るとは光を抱くことである。そして、光を抱くとは愛することである。そして、知識を持つとは愛することである。
事実を把握したり、物事を記憶できたり、物事を相互に関連付けたり、記憶していることや関わっていたことを使って創作したりというのは、カシオペアン的な意味で知識という言葉が持つ意味とは全く関係がない。
知識を得、それを集めようとたえず努力するならば、かつて起こりえた、どんなネガティブな出来事に対する守りも、身に着けることができるだろう。なぜだか分かるかな?知識を得れば得るほど、どうやったら身を守れるかについて、益々気付くからだ。やがて、この気付きはとても強力になって、すっかりあなたを取り巻くので、身を守るのにお勤めや儀式さえ行う必要が無い。守りは気付きのみによって自ずともたらされる。
。。。知識にはあらゆる内容が含まれる。それはあらゆる存在の核心へと至る。。。人の存在に対して、望ましい全てのものを加えるというのも、知識の働きに含まれる。そしてまた、あなたが光を念じ続けるうち、光とは知識であることが真に理解できるだろう。全ての存在の核心にあるものこそ知識である。あらゆる存在の核心にあるからこそ、知識は存在の内にある、あらゆる形態のネガティブさからの守りをもたらす。光は全てであり、全ては知識であり、知識は全てである。あなた方は、随分と知識の習得に努めている。あと必要なのは、知識の獲得こそが必要だと信じ、理解することだ。単にそう信じさえすれば、誤った知識を得ることはないだろう。そんなものは無いのだから。
つまり、カシオペアンズの定義による知識とは、誤りでないものを言うのである。後で誤りであることが判明した事実は、たとえ誤って「知識」とみなそうとも、最初から知識ではなかったのだ。
単にオープンに知識を得るよう求めるならば、誤った情報を吸収するのでないかと恐れる必要はないのである。
探求している人がみな、自分がオープンだと思っているのは知っている。しかし、自分の考えを注意深く検討してみれば、あなたは自分が探求していることを確かめたいと大いに信じ、仮定しているのが分かるだろう。
もし、求める知識が真理なら、それは人を自由にするのである。
自由になるというのは、友情や愛情のこもった親切心に満たされ、見ること経験することの全てを愛しく思うことなのである。自由になるというのは、どんな権力も私達からこのような感覚を取り上げることができず、オープンで、私達の知っていること全てを受け入れる知識のレベルに達していることを意味するのだ。そして知ることによって、私達は無条件に愛することが出来るのである。
友人の概念が自由や知識と関係あることは、古代の多くの教えの中に見つかる。
神の愛とは、知識のための愛だということである。知り、また知られることである。真の愛とは知識を伴う愛なのだ。知識が無くては、愛は方向を見失ってしまう。
人はどうやって真理を獲得するのか?人はどうやって幻想を振り払うのか?人はどうやって光の知識と闇に通じる知識とを区別するのか?
これは諸要因の組み合わせによってもたらされる。最初はあらゆる形と種類の知識を獲得し集めることである。
多くの人々にとって、様々につまずきの石となる言葉がここで登場する:信仰である。しかし、信仰とは、結局そんなに難しいことなのだろうか?それは純粋な意味では、経験と試練のお蔭で知識を心強く感じるということである。
しかし、もし信仰を経験し試すための知識を持っていないのならば、どうやって信仰を経験し試せばいいのだろうか?もし信仰が小さいのであれば、知識を通じて確固たるものにしなくてはならない。
信仰とは内なる光という自明の知識なのである。信仰とは知識の獲得によって真理および神を知ろうとする努力を通じて、自己の内に育まれる光なのだ。
全ては、信じることなく問いかけ(asking)つつも、答を全くオープンに受け入れることから始まる。というのも結局、仮定や回答の予想なしに求めるというオープンさが信仰の本質だからである。
かくして、もし人が全くオープンな心で問うならば、彼らがオープンである各瞬間に、彼らは意識的で居られるのだ。問わない人々は無意識である;彼らは恐れの状態にある。
私達が、自らの力でもって選択を行いながら、迷路を進んで行くとき、私達は存在の自由を味わっている。1つの道が目的地に導かないことが分かると、私達は自由に方向転換して別の道を試すのだ。
愛とは、経済的ないし霊的に貧しい人々に施しを行うというのとは明らかに違った何かである。キリスト教の歴史において、貧しい人々に与えた事や、「わが身を死に引き渡(した)」事は確かに多くあろうが、その殆どは操作と支配のために行われたものだ。
パウロの上の言葉は貧しい人々に施したり、わが身を死に引き渡したり、謙虚であったり、無私無欲だったり等々といった、私達が普通無条件の愛に結び付ける特質の全ては、彼の言っている愛無くしては何の価値も無いことを示している。だから、パウロの定義に従えば、私達が愛の行いと定義するようなこれらの行いは、明らかに愛ではないのである。
つまり、愛と真理は同じものなのである。
しかし、知識は真理ではないのか?それはあなたの言葉の定義次第である。
パウロが懸命に伝えようとしたのは、愛と真理とが同じものであり、絡み合っていて、切り離せないということなのである。そしてこれは、カシオペアンズが知識について説明した時の定義なのだ。「愛するためには知らなくてはならない。そして、知るとは光[すなわち真理]を抱くことである。そして、光を抱くとは愛することである。そして、知識を持つとは愛することである」
①ザ・ウェイブ 第72章・完:愛と複雑系の非線形力学:宇宙をデバッグする | 真実は? (ameblo.jp)
実際には愛は「宇宙現象」である。その中では人間、そして人類は単に付随的なものでしかない。
そして人は理解するだろう。「愛」とは普通考えられているのとはまったく異なったものであり、この世の人生の小さな出来事とはまったく異なった序列に属していることを。
私は愛を理解するという問題に長く留まり過ぎたかもしれない。しかしそれは決定的に重要なことなのである。神秘の門口に近づいている大部分の人々にとっては、多くのものが明らかにされ、また閉ざされるのはこの側面からであり、多くの人々にとってまさにこの問題が大きな障害となっているのである。
愛の中で最も重要な要素は、存在しないところのものであり、普段の日常的な物質的観点からはまったく存在しないものである。この存在しないものを感じること、そして、奇跡の世界(真の実在世界)との間に成し遂げられた接触の中に、人間生活における愛の意味の核心がある。
。。。すべての人生、あらゆる出来事、事故、興奮、誘引などは人を常に何らかの知識へと導くものである。あらゆる人生体験は知識である。人間の中にある最も強力な感情は、未知のものへの欲求である。愛でさえ(そのためにすべての他の感情が犠牲にされるのであるが)、未知のものへの誘因、新しいものへの好奇心なのである。
人は「自己」の存在と、自己がその一部である「世界」の存在を認識する。自己と自己との関係、自己と世界との関係が「知識」と呼ばれる。自己と世界に対する関係の広がりと深まりが知識の拡大である。
人のあらゆる知的能力、内的生活のあらゆる要素 - 感覚、表象、概念、理念、判断、結論、感覚、感情、そして創造でさえも - これらすべては我々が所有すべき知識を得るための道具である。
同じように我々の個人的な生命も何か偉大な知性の表現である。その証拠は、我々の人生は知識を獲得するという過程を抜きにしては何の意味も持たないということである。思慮深い人間は、このことに気づいて、以前は無意識に従っていた方向を意識的に辿り始める。そしてそのときに初めて、人生の意味の欠如に苦痛を感じなくなるのである。
知識の獲得が世界における我々の機能なのであるが、それは知能によってのみ達成されるのではなく、我々の全存在、全生命、人間社会の全生命、また組織、制度、全ての文化、全ての文明、そして人類の中で知られていること、知られていないことすべてがそれに関わっている。我々は知る価値があると思うことを知るのである。
人間の知的側面に関して、その目的が知識の獲得にあるということについては、疑いは起こり得ない。
霊性は知性や感性に対立するものではない。それは知性や感性のより高度な表現であり、飛翔なのである。理性には限界がない。
人間にとっては理性の成長は知性の成長であり、審美的、宗教的、倫理的感情のような高次の感情の成長を伴っている。それらは成長するにつれてますます知性化されていく。同時に知性は感情に満たされるようになり、知性は「冷たく」あることを止める。こうして知性と高次の感情との融合から「霊性」が生まれる。知性は感情から霊化され、感情は知性から霊化される。
(267ページ)
理論的には、あらゆる感情は知識に役立つ。すべての感情は何らかの認識の結果として生じる。。。疑いなく、恐怖によってしか知り得ない関係性というものが存在する。恐怖を経験したことのない者は自然や人生における多くの物事が決して理解できない。。。
(268ページ)
感情の成長の徴は、個人的な要素からの解放と、その高次の界への移行である。感情が個人的要素から自由になることは感情の認識する力を高める。なぜなら感情の中に個人的要素があればあるほど、錯覚へと導かれやすくなるからである。個人的感情は必ず歪められたものであり、常に不公平である。なぜならそれは自分を他のすべてのものと対立させるからである。
(270ページ)
だから、正しい感情的知識のための課題は、個人的な立場以外の立場から人々や世界を感じることである。ある人が感じる範囲が大きくなればなるほど、その感情が与える知識は深いものとなる。
寺院から両替商を追い出し、ファリサイ派の人びとを非難したキリストはまったく柔和でも穏健でもなかった。柔和さや穏健さがまったく美徳ではない場合というものがある。愛、共感、憐れみという感情は非常に容易く感傷主義、弱さに変化する。そうした場合それらは当然「知識の欠如」、すなわち「物質」に役立つに過ぎない。
不純な感情は、汚れたガラス、汚水、濁った音とまったく同じであり、無色透明ではなく、異質物や他の感情の名残が含まれた「不純な混合物」である。。。純粋な感情は、知識が伝えようと意図する明確で純粋なイメージを与える。
純粋な同情、そして見返りを計算した不純な同情というものがある。知りたいという純粋な欲求、知識そのもののために知識を求める渇望があり、知識から得られる利益や得を考慮した知識の追求がある。
対戦相手に対する不快な態度(懸念、良い手への妬み、苛立ち、嫉妬、憎しみ、勝利への期待)で一杯である。しかし相手の方は自分の前にある複雑な数学的問題を解くのに没頭して、対戦相手のことなどまったく念頭にないかもしれない。
すべての領域において、自己中心的要素を完全に克服することによってのみ、世界と自己の正しい知識に達することができる。自己中心的要素に色づけられたあらゆる感情は、光線を屈折させ、世界像を歪める凹凸ガラスのようなものである。
よって、感情的知識の問題は、知識の道具として役立つような感情を適切に準備することにかかっている。
「幼子のようであれ。。。」「ハートの純粋な者は幸いである。。。」という福音書の言葉は、まず感情の浄化について語っている。不純な感情によって正しく知ることはできない。従って、世界と自己の正しい知識を得るためには、人間の中で感情の浄化と昇華の仕事が進行しなければならない。
。。。人に知識をもたらす感情や、人を迷わせる感情というものがある。。。
プログラムされた感情は不純であると彼は言う。自己中心的要素は、このような感情の中に大いに注ぎ込まれ、それらの大部分は私達の行動を無意識のうちにコントロールするのである。ここで私達が試みているのは、捕食者による心のコントロールを克復するための基礎を打ち建てることであり、霊性という高次の感情を経験的に確固たるものにすることである。上でウスペンスキーが言っているように、「霊性は知性や感性に対立するものではない。それは知性や感性のより高度な表現であり、飛翔なのである。知性と高次の感情との融合から『霊性』が生まれる。知性は感情から霊化され、感情は知性から霊化される」
思い出されたい:ジャガーに出くわすと世界観が変わるのである。
②ザ・ウェイブ 第72章・完:愛と複雑系の非線形力学 | 真実は? (ameblo.jp)