哲学者のP.D.ウスペンスキーは書いている:


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(197ページ)
生命は目に見える部分だけで汲み尽くされるものではなく、その背後に「目に見えない」世界、新鮮で理解を超えた関係性や力をもつ世界全体があることを知った上で生命に近づくならば、新たな予期せぬ無限性を露わにしないような側面は何もない。最初の鍵は、目に見えない世界の存在を「知ること」である。
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※『ターシャム・オルガヌム』高橋訳


人生のある側面においては他の側面におけるよりも、神の目に見えない性質とより直接に触れるものである。愛と死とは、このようなものの2つである。

ヒンズー教の神話では、愛と死は1なる神が持つ2つの顔である。自然の再生力の神であるシヴァは同時に、暴力的な死、殺人、破壊の神でもある。彼の妻パヴァーティーは美と愛と幸福の女神であるが、彼女はまた邪悪、不幸、病、死の女神であるカーリでもある。そしてシヴァとパヴァーティ/カーリは共に知恵の神であり、善と悪の知識の神なのである。


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愛と死は我々の世界をあたかも別々のものの如く進んでいく。それらは真にこの世界の底流にあり、至る所に存在するが、存在の別の様式に属しているように見える。

エドワード・カーペンター『愛と死のドラマ』
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※ウスペンスキー、『ターシャム・オルガヌム』高橋訳197ページ。


死の哲学を知っている、あるいは教えると主張する人々は常に存在してきた ― 曰く、私達は1度だけ死に、救われるか、地獄に落ちるかすると。曰く、私達は死んで転生すると。あるいはまた曰く、私達は死ぬと無に帰すのだと。実際、全ての宗教は死についての説明の仕方に過ぎないということもできる。

問題は愛である。愛の問題は私達にとって、通常既知のものとして、すでに理解され、知られたものとして受け入れられている。様々な宗教や哲学体系も愛についての教えには比較的違いがない。だが、愛は死と同じくらい大きな神秘であるという事実に変わりはない。

ダイアン・アッカーマンが述べる通りである:


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(16ページ)
戦争や憎悪、犯罪、偏見などについては数え切れないほどの研究がある。社会学者たちは、マイナスの面を持った行動や感情の研究のほうがお好みなのだ。ひょっとすると、愛それ自体を研究することになると落ち着かない思いをするのかもしれない。ここで、「それ自体」と書いたのは、社会学者たちもじつは愛の研究をしているからだ。彼らの研究は、愛が不足し、裏切られ、ねじ曲げられ、奪われたときに何が起きるのかの研究であることが多いのだ。
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だが、本当にそうだろうか?P.D.ウスペンスキーは書いている:


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(199ページ)
実際には愛は「宇宙現象」である。その中では人間、そして人類は単に付随的なものでしかない。この宇宙現象は人々の生活や魂にはほとんど関心を持たない。太陽が人間の取るに足りない出来事や目的に利用されるために光を放射するのではないように。もし人間が、その意識の片隅ででもこのことを理解するならば、彼の前には新しい世界が開け、人生を通常の観点から眺めることが非常に奇妙なことのように思われるだろう。そして人は理解するだろう。「愛」とは普通考えられているのとはまったく異なったものであり、この世の人生の小さな出来事とはまったく異なった序列に属していることを。

時々人々に乗り移って彼らを支配し、人間を道具として自らの不可思議な目的を果たそうとするのは、おそらく、特別な世界に住む精霊たちなのかもしれない。。。もしかしたら愛とは偉大な賢者による錬金術の業であって、その中で人々の魂と体は、何か神秘的な目的を果たすために誰かにとって必要な「賢者の石」、「生命の錬金薬液」、あるいは何か特別な「電気」をその中から取り出すための要素としての役割を演じているのではないだろうか。

。。。人は、霊的にも物質的にも、愛を何とかして服従させようとし、自らの目的に従わせようとするしかし愛は何物にも従属することはあり得ず、神さえも自らの目的に従わせようとする取るに足りない死すべき者たちに容赦なき復讐を浴びせる。

愛の「起源」について誤解しているために、人は愛の「結果」についても誤解している。。。「種の存続」である。しかしこの客観的結果は、生まれるかどうかは別として、いずれにせよ愛の外的、客観的側面の結果であり、受胎という物質的事実の結果にすぎない。

。。。しかし、この観点から愛を見るならば、そこには必要以上の力が働いていることを認めざるを得ないだろう。この中に愛の真の本質への鍵がある。そこには必要以上の力がある。それも無限に多くの。実際には、種の存続という目的のためには、人類に内在するこの愛の力はほんのわずかな部分が使われているに過ぎない。

では、残りの大部分の力はどこに行ったのだろうか?

ロウソクを考えてみよう。それは光を発する。しかし光以上に多くの熱を放射する。光を発することがロウソクの直接の役割であり、熱の役割は間接的なものであるにもかかわらず、光よりも熱のほうが多い。ロウソクは光のための炉である。光を与えるためにはロウソクは燃えなければならない。燃焼はロウソクから光を得るために必要な条件である。燃焼なしで済ますことはできない。しかしその燃焼によって熱が生じるのである。一見すると、ロウソクによって生じた熱は非生産的に浪費され、時には余計な、不快で邪魔なものに思われる。もし部屋全体がロウソクで照らされたら暑くなりすぎるだろう。しかし、ロウソクの光は燃焼 ― 熱の発達と発達したガスの白熱光 ― がなければ存在しない。

同じことは愛についてもあてはまる。子孫を生じさせるために使われる愛のエネルギーはほんの一部に過ぎない。エネルギーの大部分は父親と母親の個人的感情に費やされるように見える。

春、愛の感情の最初の目覚めと共に、鳥は歌い始め、巣作りを開始する。もちろん実証主義者はこのすべてを単純に説明しようとするだろう。鳥が歌うのは雄と雌を引きつけるためだとか何とか。しかし実証主義者ですら、この歌には単なる「種の存続」に必要な以上のものがあることを否定することはできないだろう。もちろん、実証主義者にとって鳥の歌は「付随的」な「副産物」にすぎない。しかし現実にはこの歌声は、この種にとっての主な役割、存在意義かもしれず、自然がこの種を創造したことの目的なのかもしれない。そしてこの歌声は雌を引きつけるために必要なのではなく、我々が時々漠然と感じるだけの何らかの自然の調和に寄与しているのかもしれない。

だから、個人の観点からは愛の付随的な役割と見えるものが、種の主な役割に役立っているのかもしれないということが分かる。

。。。愛は活動への渇望を呼び起こす。「本能」がこの活動への渇望を支配する。。。愛の最初の目覚めと共に - 活動が始まる。

人間の中にも同じものが見られる。愛は創造的な力である。そして愛の創造的な力は1つの方向だけでなく、様々な方向に表現される。おそらく、まさにこの愛の力(エロス)によって、人類はその主な役割を果たすよう促されるのではないか。我々はそれが何かわからず、時々漠然と感じるのみであるにしても。

創造、すなわち「思想の誕生」が愛から来た光だとすれば、この光は「偉大なる焔」から来る。全人類と全世界がその中で燃焼しているこの永続する焔の中で、あらゆる人類の精神と天才が発展させられ、精錬される。そしておそらく、まさにこの焔から、またはその助けを借りて、物質の束縛を逃れる者たちを導く新しい力が出現するのであろう。

私は愛を理解するという問題に長く留まり過ぎたかもしれない。しかしそれは決定的に重要なことなのである神秘の門口に近づいている大部分の人々にとっては、多くのものが明らかにされ、また閉ざされるのはこの側面からであり、多くの人々にとってまさにこの問題が大きな障害となっているのである。

愛の中で最も重要な要素は、存在しないところのものであり、普段の日常的な物質的観点からはまったく存在しないものである。この存在しないものを感じること、そして、奇跡の世界(真の実在世界)との間に成し遂げられた接触の中に、人間生活における愛の意味の核心がある。

(260ページ)
。。。すべての人生、あらゆる出来事、事故、興奮、誘引などは人を常に何らかの知識へと導くものである。あらゆる人生体験は知識である。人間の中にある最も強力な感情は、未知のものへの欲求である。愛でさえ(そのためにすべての他の感情が犠牲にされるのであるが)、未知のものへの誘因、新しいものへの好奇心なのである。

人は「自己」の存在と、自己がその一部である「世界」の存在を認識する。自己と自己との関係、自己と世界との関係が「知識」と呼ばれる。自己と世界に対する関係の広がりと深まりが知識の拡大である。

人のあらゆる知的能力、内的生活のあらゆる要素 - 感覚、表象、概念、理念、判断、結論、感覚、感情、そして創造でさえも - これらすべては我々が所有すべき知識を得るための道具である。

進化論者。。。は、生存競争と自然淘汰が現代人の知性と感情を創造したと主張する。すなわち、知性と感情は生活に役立ち、個々人の生命や種の生命を保護するためにあり、その目的を離れて、それ自身では何の意味も持たないと言う。

これに対しては、(以下の)反駁。。。が可能である。というのは、もし知性が存在するのであれば、知性なしに存在するものは何もないからである。生存競争と適者生存が、真に生命の創造においてそのような役割を果たしているのであれば、それは偶然ではなく、我々の知らない知性の生み出したものなのである。そして、他のすべての物と同じように、それもまた知識に役立っているのである。

しかし我々は自然現象や自然法則の中に心が存在することを認めていない。なぜなら我々は常に全体ではなく「部分」を見ており、我々が研究しようとする「全体」を見ないからである。人間の小指を研究しても人間の知性は分からない、同じことが自然にも当てはまる。我々は常に自然の小指を研究しているのである。このことを認識して、すべての生命は全体の中の部分の顕現であるということを理解すれば、その時に初めて全体を理解する可能性が生まれる。

(262ページ)
個々人の人生は、「我々の内に生きている偉大なる存在」の生涯の1刹那なのである。。。これら高次の存在の心は低次の生命と離れて存在するのではない。それらは同一物の2つの側面である。3次元世界では「単一」に見える人間の心が、低次元世界では多くの生命という幻想を生み出しているのかもしれない。

我々は物の見方、考え方を知らないので、生命と心はお互いに異なる分離したもののように思っている。このような考え方が生まれるのは、我々が自分自身でつくりあげた区分の枠組みから抜け出すのが極めて困難なためである。我々は木の生命を「この木」の生命として見る。そして、木の生命は何かの心の表現であると告げられると、我々はそれを、「この木」の生命が「この木」の心の表現であるという風に解釈する。

これはもちろん3次元的思考、「ユークリッド的知性」から来る愚かさである。「この木」の生命はその種または類の心の表現であり、おそらくは全植物王国の知能の表現なのである。

同じように我々の個人的な生命も何か偉大な知性の表現である。その証拠は、我々の人生は知識を獲得するという過程を抜きにしては何の意味も持たないということである。思慮深い人間は、このことに気づいて、以前は無意識に従っていた方向を意識的に辿り始める。そしてそのときに初めて、人生の意味の欠如に苦痛を感じなくなるのである。

知識の獲得が世界における我々の機能なのであるが、それは知能によってのみ達成されるのではなく、我々の全存在、全生命、人間社会の全生命、また組織、制度、全ての文化、全ての文明、そして人類の中で知られていること、知られていないことすべてがそれに関わっている。我々は知る価値があると思うことを知るのである。

人間の知的側面に関して、その目的が知識の獲得にあるということについては、疑いは起こり得ない。人間の知性は、そのあらゆる従属的な機能を含めて、知識の獲得のために存在しているということについてはすべての人が同意する。もっとも非常にしばしば「知る能力」は従属的なものとみなされているのだが。しかし感情についてはどうだろう。喜び、悲しみ、怒り、恐れ、愛、憎しみ、誇り、共感、嫉妬などについてはどうだろうか。美的感覚、審美眼、芸術的創造に関してはどうか。倫理的感覚や宗教的感情、信仰、希望、崇敬などの人間活動に関しては、事情は明らかではない。一般に、あらゆる感情やあらゆる人間的活動が知識に役立つとは思われていない。

通常「感情的なもの」は「知的なもの」に対立させられる。「ハート」は「理性」に対立する。「冷たい理性」あるいは知性が一方に置かれ、他方の側に感覚、感情、芸術的感覚が置かれる。そして、それとはまったく別に、倫理的感覚、芸術的感情、「霊性」が置かれる。

ここでの誤りは、知性と感情という言葉の解釈の中にある。

(265ページ)
霊性は知性や感性に対立するものではない。それは知性や感性のより高度な表現であり、飛翔なのである。理性には限界がない。

人間にとっては理性の成長は知性の成長であり、審美的、宗教的、倫理的感情のような高次の感情の成長を伴っているそれらは成長するにつれてますます知性化されていく。同時に知性は感情に満たされるようになり、知性は「冷たく」あることを止める。こうして知性と高次の感情との融合から「霊性」が生まれる。知性は感情から霊化され、感情は知性から霊化される。

(267ページ)
理論的には、あらゆる感情は知識に役立つ。すべての感情は何らかの認識の結果として生じる。。。疑いなく、恐怖によってしか知り得ない関係性というものが存在する。恐怖を経験したことのない者は自然や人生における多くの物事が決して理解できない。。。

(268ページ)
感情の成長の徴は、個人的な要素からの解放と、その高次の界への移行である感情が個人的要素から自由になることは感情の認識する力を高める。なぜなら感情の中に個人的要素があればあるほど、錯覚へと導かれやすくなるからである。個人的感情は必ず歪められたものであり、常に不公平である。なぜならそれは自分を他のすべてのものと対立させるからである。

(270ページ)
だから、正しい感情的知識のための課題は、個人的な立場以外の立場から人々や世界を感じることである。ある人が感じる範囲が大きくなればなるほど、その感情が与える知識は深いものとなる。

寺院から両替商を追い出し、ファリサイ派の人びとを非難したキリストはまったく柔和でも穏健でもなかった。柔和さや穏健さがまったく美徳ではない場合というものがある。愛、共感、憐れみという感情は非常に容易く感傷主義、弱さに変化する。そうした場合それらは当然「知識の欠如」、すなわち「物質」に役立つに過ぎない。

感情を純粋な感情と不純な感情に分ける方法もある。その区分は誰もが知っており、実際その言葉を使っているが、その意味はほとんど分かっていない。。。

通常の道徳は。。。感情を外的な特性に応じてア・プリオリに純粋なものと不純なものに区分する。さらに、すべての「肉欲」は「不純」のカテゴリーに入れられる。しかし実際には、当然のことながら、「肉欲」は他のすべての自然な感情と同じくらい純粋である。。。

不純な感情は、汚れたガラス、汚水、濁った音とまったく同じであり、無色透明ではなく、異質物や他の感情の名残が含まれた「不純な混合物」である。。。純粋な感情は、知識が伝えようと意図する明確で純粋なイメージを与える。

。。。少しでも通常の道徳的な枠組みを捨てるよう試みるなら、物事はもっと単純であること、それ自体の性質として不純な感情というものは存在しないこと。。。が分かるであろう。

「ソロモンの雅歌」の官能性のように、純粋な官能性というものも存在する。それは宇宙生命の感覚にまで達し、それによって人は大自然の鼓動を聞くことができる。そして他の感情と混ざった不純な官能性もあり、それは道徳的観点からは善いものだったり悪いものだったりするが、等しく官能性を濁らせる。

純粋な同情、そして見返りを計算した不純な同情というものがある。知りたいという純粋な欲求、知識そのもののために知識を求める渇望があり、知識から得られる利益や得を考慮した知識の追求がある。

外的な表現としては純粋な感情も不純な感情もほとんど違わない。チェスを指す2人の人間は、外的な態度は同じに見えても、一方は野心に駆り立てられ、勝利を熱望しており、対戦相手に対する不快な態度(懸念、良い手への妬み、苛立ち、嫉妬、憎しみ、勝利への期待)で一杯である。しかし相手の方は自分の前にある複雑な数学的問題を解くのに没頭して、対戦相手のことなどまったく念頭にないかもしれない。

外面的には同じに見える感情についてのこのような区分の例は、人間の芸術的、文学的、科学的、社会的活動の中に、そして霊的、宗教的活動の中にさえ見ることができる。すべての領域において、自己中心的要素を完全に克服することによってのみ、世界と自己の正しい知識に達することができる。自己中心的要素に色づけられたあらゆる感情は、光線を屈折させ、世界像を歪める凹凸ガラスのようなものである。

よって、感情的知識の問題は、知識の道具として役立つような感情を適切に準備することにかかっている。

「幼子のようであれ。。。」「ハートの純粋な者は幸いである。。。」という福音書の言葉は、まず感情の浄化について語っている。不純な感情によって正しく知ることはできない。従って、世界と自己の正しい知識を得るためには、人間の中で感情の浄化と昇華の仕事が進行しなければならない。

。。。人に知識をもたらす感情や、人を迷わせる感情というものがある。。。
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※『ターシャム・オルガヌム』高橋訳


ウスペンスキーが論じているこうしたことの全ては、まさに私達が感情の生物理学的基礎の研究で明らかにしようとしていることである。プログラムされた感情は不純であると彼は言う。自己中心的要素は、このような感情の中に大いに注ぎ込まれ、それらの大部分は私達の行動を無意識のうちにコントロールするのである。ここで私達が試みているのは、捕食者による心のコントロールを克復するための基礎を打ち建てることであり、霊性という高次の感情を経験的に確固たるものにすることである。上でウスペンスキーが言っているように、「霊性は知性や感性に対立するものではない。それは知性や感性のより高度な表現であり、飛翔なのである。知性と高次の感情との融合から『霊性』が生まれる。知性は感情から霊化され、感情は知性から霊化される」

思い出されたい:ジャガーに出くわすと世界観が変わるのである。そして一度ジャガーに出くわし、一度私達には「私達なりにしかできない」ことが分かったら、アークの日記にあった言葉を思い出そう


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だから、仮説を述べるとしよう。私が述べることの出来る唯一の理に適った仮説は、グルジェフの教えにある知られざる体系からもたらされるものだ。この体系によれば、世界にはある目的があるという。これによれば、必ずしも万事が上手く機能していないという。これによれば、宇宙の構造には何がしかのバグがあるという。

メタ言語を用いれば、このようなスケールのどんなプログラムにも必ずバグがあると証明することが十分できそうだ。だから、宇宙はバグのあるプログラムである。だが、その中には自己改善能力がビルトインされているのだ。

かくして、このような特定の目的を持って生まれてきたユニットが存在する:デバッグの方法を発見できる程度まで十分に自己進化するという目的である。
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それでは、今から私達は何をしようか?もちろん、宇宙のデバッグである。まずは私達の心から取り掛かるとしよう。


(ザ・ウェイブ終わり)

(*デバッグ -とは、コンピュータプログラムや電気機器中のバグ・欠陥を特定して取り除き、動作を仕様通りのものとするための作業である。)

 

 

ザ・ウェイブ 第72章・完:愛と複雑系の非線形力学:宇宙をデバッグする: カシオペアンとSOTTのご紹介 (seesaa.net)