以下記事から私が書いたことを紹介します。一部修正、書き足しています。

なおこの記事を読んでいるような人にはあてはまらないことかとは思いますが、なぜ多くの人々が何も気づかず、マスクをして、ワクチンを打って、薬を飲んで、自ら地獄への道を歩んでいるのか?ということを理解する助けにはなることをある程度書けたと思います。

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私からするとマスクをしている人はもはや救いようがないので、放っておくしかありません。私の親しい人、父親や友人もいまだにしていますが、どうすることもできません。悲しいですが。またマスクをしている人はほぼ確実にワクチンも同時に打っている人が大多数だとは思います。また日々の食生活もよくないと考えます結局、情報と知識が不足しているのです。興味や関心がなく、問題意識もなく、それゆえ情報に触れず、その結果知識も増えないから、良いことと悪いことが何なのかわからず、メディアや政府の言いなりにしかなりえません。専門家や医者などと同じように。彼らも勉強してきたことしか知らないので。それが間違っていたら?それが正しいなんて保証はどこにもないんですよ。間違っているものがどれほど多いか。これに関して頭のいい悪いはあまりなくて、どれだけ興味と感心、問題意識をもって、より多くの情報に触れて、知識を増やすかだとほぼ確信しています。だって私より頭の良い人なんて無数にいるけど、そんな人たちすら「知らない」からワクチンを打つしマスクしているし。つまりは無知か誤った知識でそうなっているんです。あるいは、意図的に悪に加担して大衆を誘導するような著名人もいることでしょう。

 

圧倒的な苦痛により芽生える強烈な問題意識によって情報をたくさん見て、聞いて、調べて、それによって得た知識ならば、信念を破壊できる可能性はあると思うけど、そんなのは1%もあるかどうか。著者のいう通りです。

(*ここまでのディストピア展望となった理由のひとつには、「多くの人が自分に対してウソをつき続けていたから」

ワクチンを心から信奉していた人たちが、仮に何か決定的な「ワクチンの負のエビデンス」を知ってしまったとしても、信念を反転させるのは難しい。「大丈夫なんだ。これは安全で効果的なんだ」という地点に立ち続けるしかない。*)

魔法じゃないから。日々の積み重ねです。知識を得るというのは。あとはオープンマインド。私にはこれがあったと思うし今もある。オープンマインドとは、他者の物事や多様な考えや新しい意見に耳を傾け、受け入れようとする意欲を表す言葉です。一言でいえば何でも受け入れること。とりあえず。受け入れてから考えればいい。受け入れないなら知識なんて増えるわけがない。受け入れる人がなんと少ないことか。私は頑固と思われているだろうし、言われることもあるんだけれども、私は多くの情報や意見を聞きます。その中で私の中で複数の根拠によってある程度確信のあることを続けているとそれは頑固だと言われます。私からすれば私以外のほとんどの人が頑固です。何の根拠もないことを妄信してやっているのですから、私の意見や情報などは聞かれません。私は彼らが言っていること知っていることも分かったうえで否定します。それを頑固と思っているのでしょうけど。違います。頑固はあなた方です。また私は自分が間違っていたとわかればその瞬間からでも変わります。あなたは変われますか?どちらが頑固ですか?頑固な人では情報を集め知識を得ることは難しいです。そして多くの人は頑固なのでそうなっています。そう、オープンマインドではないんです。頑固の対義語がオープンマインドであり、多くの人は頑固ですが、専門家や権威や医者の話になるとオールスルーで何でも受け入れるという人が多いです。そしてそれが正しいと信じて疑わず、自分で調べたりほかの情報を見たりすることもないし、考えることもありません。だから問題を抱え、その問題が解決することもないでしょう。少しは人の話を聞きましょう。権威や専門家や医者以外からの話を。あなたはただ権威を妄信してる人であり、簡単にコントロールできる存在です。ゆえにいまだにマスクをつけているだろうし、ワクチンを打っただろうし、薬を飲んでいるだろうし、タバコが悪いと言ってはそれとは比較にならないくらい体に悪いことをたくさんしていることでしょう。もっと広く情報に触れましょう。話はそれからです。

永遠に周囲と「自分」にウソをつきながら滅亡していく現世人 | 真実は? (ameblo.jp)

 

関連)

何事も自分で決める必要があるし、説得しても、その人の耳には届きません。 | 真実は? (ameblo.jp)

何を言っても無駄です。誰かが意欲的に助けを求めた時以外は。その時しか人は変わらない。 | 真実は? (ameblo.jp)

何を理解できるというのですか? 私のような人々と常識やルール、「当たり前」で話す人との違い | 真実は? (ameblo.jp)**

 

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そして以下は大変に参考になり、私は何度も何度も読んでいますし、私がよく読むブログの方も何度も引用されています。

素晴らしい文章だといつも思います。一部紹介します。全文はリンク先で。

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戦争責任者の問題

伊丹万作

本名:池内 義豊(いけうち よしとよ)




 すなわち、だましていた人間の数は、一般に考えられているよりもはるかに多かつたにちがいないのである
 だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。
 しかも、だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。
 だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、されていないのである。
 また、もう一つ別の見方から考えると、いくらだますものがいてもだれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は成り立たなかつたにちがいないのである。
 つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。
 このことは、過去の日本が、外国の力なしには封建制度も鎖国制度も独力で打破することができなかつた事実、個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかつた事実とまつたくその本質を等しくするものである。
 そして、このことはまた、同時にあのような専横と圧制を支配者にゆるした国民の奴隷根性とも密接につながるものである。
 それは少なくとも個人の尊厳の冒涜、すなわち自我の放棄であり人間性への裏切りである。また、悪を憤る精神の欠如であり、道徳的無感覚である。ひいては国民大衆、すなわち被支配階級全体に対する不忠である。

 我々は、はからずも、いま政治的には一応解放された。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。
「だまされていた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気でいる多くの人々の安易きわまる態度を見るとき、私は日本国民の将来に対して暗澹たる不安を感ぜざるを得ない。
「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。
 一度だまされたら、二度とだまされまいとする真剣な自己反省と努力がなければ人間が進歩するわけはない。の意味から戦犯者の追求ということもむろん重要ではあるが、それ以上に現在の日本に必要なことは、まず国民全体がだまされたということの意味を本当に理解し、だまされるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し、徹底的に自己を改造する努力を始めることである。

伊丹万作 戦争責任者の問題 (aozora.gr.jp)