クレーン謙公式ブログ

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ウイリアム・アルメイダ・クレーン(中編)

 

 

 

ーー銀行に勤めたり、写真スタジオを共同経営した後のウイリアムの足取りを追います。
彼の資料を色々と見ていますと、ウイリアムの音楽に対する情熱やこだわりが浮かび上がってきます。
明治の初めには、彼の職業は『ピアノ調律師』であると書かれています。
銀行を辞め、写真事業に失敗したウイリアムはピアノ調律師へと転身したようです。
明治3~4年の居留地人口は、400名ほど。イギリスとフランスの軍人をカウントすれば、もっと多かったとは思います。

ーーしかしこの頃、日本にどれだけの数のピアノがあったのか、見当がつきませんが、どう考えても数える程でしょう。
……現代では、一台のピアノを調律して謝礼が1万5000円ほどらしいです。
果たして、あの時代に『ピアノ調律師』という仕事が職業として成り立つのか疑問ですが、もしやウイリアムには蓄えがあったのか、あるいはシンガポールの実家から仕送りがあったのかもしれません。
横浜では、すでに幕末に英仏軍の楽団によるコンサートが催されていて、西欧音楽は比較的早くこの地に根ざしてはいました。
つまり、幕末にはすでに横浜ではクラシックのコンサートが催されており、居住者たちの楽しみとなっていたのです。

ーー資料の中のウイリアムの人脈を見ていると、実に音楽関係の知人が多い。音楽が彼の生きがいであった事が窺えます。
写真機も扱っていたぐらいですから、もしやウイアムは元々メカの構造には詳しかったのかもしれません。

 

1871年(明治4)、居留地/クライスト・チャーチのパイプオルガン設置をウイリアムを依頼され、その組み立てをしています(これは日本では最初のパイプオルガンです)。
発注した部品をを輸入して、組み立てたとのだと思われますが、しかし、それでも大変な労力だったでしょうーーパイプオルガンの構造も理解してなければいけませんし……。

アップしたパイプオルガンの写真がそうですが、一緒に写った講壇と比較するとその大きさが分かります。

同年開催された、このパイプオルガンによる演奏会の曲目が残されています。

 

C.サン=サーンス:交響曲第3番 ハ短調 作品78「オルガン付き」より第2楽章 第2部
J.S.バッハ:フーガ ト短調 BWV 578
F.メンデルスゾーン:オルガンソナタ第2番 ハ短調 作品65-2
W.ボルコム:ゴスペルプレリュード「主、われを愛す」
O.メシアン:「主の降誕」より「羊飼いたち」
L.ヴィエルヌ:オルガン交響曲第6番 ロ短調 作品59より 第5楽章「終曲」

 

パイプオルガンの規模を考えますと、さぞかし荘厳な演奏会だった事でしょう。

残念なら、当時作られたパイプオルガンは現存していません。
関東大震災で教会もオルガンも破壊されて、教会は数年後に新しいデザインで建て直されました。

さて、音楽と楽器に関する活動と並行して、ウイリアムにはもうひとつ熱を上げていた活動があったので、それも記しておきたいと思います。
ーーウイリアムは、とても活動的なフリーメーソンの会員でした。
フリメーソン』といえば、虚実入り混じった情報が世に溢れかえっており、また歴史も長く、調べ出すと大変なのですが、ここを書いておかないと先に進まないので、観念して書きます。
ーーフリーメーソンの起源は定かではないのですが、約400年の歴史がある友愛結社で、内部で門外不出の儀式も行われるので『秘密結社』とも呼ばれます。
そして、『秘密結社』と呼ばれる事から様々な憶測や噂が、フリーメーソンに付きまとってきました。

一番最初に書いた投稿のように(ポルトガルの自由主義革命はフリーメーソンのメンバーが主導しました)政治運動など、かつてフリーメーソンが歴史の変革期に、ある一定の役割を果たしたのは確かです。
フリーメーソンは「自由」「博愛」「平等」を基本理念としているのですが、実はこれは元々フリーメーソンの標語ではなく、17世紀から18世紀にかけてヨーロッパで広まった『啓蒙思想』からその考えを取り入れてます。

啓蒙思想とは、簡単に書くと『理性で世を変革しよう』という運動の事です。
当時ヨーロッパでは王族や教会の力がとても強く、人々は古い教義やしきたりに縛られていました。
啓蒙主義は、王制や宗派の影響力から脱するべく、近代的な思想や科学主義を取り入れた社会運動へと発展します。
これが後の『自由主義(リベラリズム)』の起源で、フランス革命やアメリカ独立に大いに影響を与えました。

ーー「自由」「博愛」「平等」はフランス共和国の標語でもありますが、その考えのルーツは啓蒙思想にあります。
このような歴史背景を追っていきますと、同標語を掲げていたフリーメーソンは、進歩主義的な考えを抱く人々にとって居心地のよいサロンであったのが窺えます。
実際、フリーメーソンへの入会は宗教や宗派は問わないので、当時の保守勢力である教会などからは敵視され、実際に敵対もしていました。
ーー『フリーメーソンは陰謀組織である』という考えはこの頃の保守派の教会が言い始めた事で、それを後にナチスドイツが取り入れ、ユダヤ人と同じように迫害しました(ナチスは『フリーメーソンはユダヤ人の陰謀組織だ!』という根も葉もない説で、フリーメーソンを収容所へ送り多くが殺害されました。恐るべき事に、今でもインターネットをサーチすると、このトンデモ説で溢れかえっています)。

悲劇的な事に、その時のナチスの主張を日本の軍部も取り入れ、日本国内のフリーメーソンも戦時中に迫害をされています。

第二次世界大戦を境にして、当時あったロッジは全て解体されてしまいます。

ーーと上記に書いたような過去は、実はあまり一般に知られていません。
『ユダヤ人陰謀説』や『フリーメーソン陰謀説』は大方はナチスドイツが作りあげた壮大なフィクションと言ってもよく、都市伝説の説は実はナチスドイツが唱えていた説を、それとは知らずに取り入れています。

しかし確かに、フリーメーソンのロッジには改革派、反王制派、革命家、反教会派、などが多くいたものですから、それらの人々が実際に革命に加わったりした過去はあったでしょう。

ですけど、フリーメーソンは都市伝説などで語られるように、指示系統があるピラミッド型の組織ではありません。ーー『陰謀組織』はまず前提として、その組織がピラミッド型の組織である必要があります(イメージとしてアニメ『エヴァンゲリオン』に出てくる、なんとか機関みたいなヤツですね)。

フリメーソンは、実際にはライオンズクラブのような社交クラブに近く(実際、ライオンズクラブのルーツはフリーメーソンなのです)、上が決定した事案を下の者たちが実行に移すというようなタイプの組織ではありません。
より正確に書くとフリーメーソンは『啓蒙思想』と『自由主義』をその内部に温存していた会員制のクラブのようなものでしょう。
……一応ここを書いておかないと先に進まないので、簡単に記しておきました(誤解も解いておきたいですし)。

ーー明治維新の3年前に遡る1865年9月27日、横浜でフリーメーソンのメンバーによる会合が開かれています(p187参照)。
会合には7人が出席しており、その中にウイリアム・アルメイダ・クレーンもいます。
そして翌年の1866年、日本初のフリーメーソンのロッジ『横浜ロッジ No.1092』が設立されました。
これ以降、ウイリアムは精力的にフリーメーソンの活動を行っており、最盛期には合計4っつのロッジで役員を務めている事から、当時のフリーメーソンの中心的人物だと見ていいでしょう。

その時のメンバーにジョン・レディ・ブラックというスコットランド人がいるのですが、彼とウイリアムは音楽仲間でもありました。
僕が知るかぎりでは、この人物がウイリアムの周囲では最重要かと思われますので、少し彼の事を書いておきます(インターネットでも調べられますので、ご興味のある方は是非)。
その人生があまりに面白いです。

ジョン・レディ・ブラックは1826年にスコットランド生まれました。
様々なビジネスを手がけ、事業が失敗した後に、オーストラリアでどういう訳か歌手となります。
歌手となったブラックは、流浪の旅へと出てインドや中国でコンサートを開催しながらしばらく過ごしています。
(この時代でワールドツアーを行なっていたというのが、驚きです)
ーーどうやら、ブラックはスコットランド民謡などを歌っていて、それで人気が出たようです。

香港と上海でコンサートを開催した後、ブラックは1864年、横浜でもコンサートを開きます。
当人は日本に長居をするつもりはなかったようなのですが、以降11年間を日本で過ごします。ーーそしてブラックはある大きな影響を日本に残す事になります。
ーーただしそれは『音楽』ではなく、『ジャーナリズム』と『出版事業』です。
ブラックは日本に来てからジャーナリストへと転身して、共同経営を開始した新聞の紙面で徳川幕府を批判するような、ーーまたそれとは逆に、援護をするような社説を執筆します。

その反骨精神のスタンスは明治政府になっても変わる事はなく、時には政府と衝突もしました。
ーーあまり指摘がされてはいないのですが、ブラックのこの『自由主義的思想(リベラリズム)』はフリーメーソンの中で影響を受け、育んだとも見れます。
封建的な政治に物申すーーこのような社説は後の新聞社説のルーツであると言われ、ゆえにジョン・レディ・ブラックは日本ジャーナリズムの先駆者と評されています。

啓蒙思想と自由主義(リベラル)はフリーメーソンの基本理念でしょうから、そう考えますと実はフリメーソンはこのような形で日本のジャーナリズムに影響を与えたのかもしれませんーーただし、これは完全に僕の仮説ですので、もしこれが僕の思い込みであれば、どうぞご指摘をお願いしますーー。

(ところで、僕の高高祖父のウイリアムはコンサートの告知などを、数々の告知広告をブラックが発行していた新聞に掲載しており、そのお陰でウイリアムの足取りや活動を大分知る事ができました。
ーーウイリアムはブラックと幾度か一緒にコンサートをやっているので、二人はきっと音楽で意気投合したのでしょう。ウイリアムは楽器だけではなく、歌も歌っていたようで、曲目を見るとオペラ曲が好みであるのが分かります)

さて、ブラックは1870年(明治3年)当時としては画期的な発行物を世に出します。
それは『ザ・ファー・イースト』と名付けられた写真週間新聞です。
現在で言えば、写真週刊誌のようなもので、フォト・ジャーナリズムの先駆けと言っていいでしょう。
廃刊されるまで合計570点もの写真が掲載され、当時の文化や歴史を知る上での貴重な資料となっています。

続けて1872年(明治5年)、ブラックは『日新真実誌』という日本語の新聞を発行します(今までブラックが関わった新聞は英語でした。おそらくブラックは日本語で発行する事により、直接日本社会に物申す機会を窺っていたのでしょう)。
ブラックはここでも、公然と政府/権力批判を繰り広げ、結果的に『日新真実誌』は、近代新聞のルーツと言えるような新聞になりました。
一説によれば1874年(明治7年)に起こった言論の自由や集会の自由を求める『自由民権運動』は、日新真実誌で展開していた社説をベースにしている、とも言われます。
ブラックは明らかに、メディアの力を使って日本を変革しようとしていましたーー。

しかし、やはりと言うかブラックは明治政府から目をつけられてしまいます。
この新聞がきっかけとなり、外国人による日本語新聞の発行が禁止されてしまいました。
ーーそしてブラックは日本の新聞事業から撤退をしたのでした。
ブラックに関する記述が長くなってしまいましたが、当時の横浜居留地と日本社会との関わりを知る上では最も適したケースであり、またフリーメーソンの活動の一端を知る上でも重要かと思われましたので、書きました。

フリーメーソンに関しては『陰謀説』が今でもとても根強いのですが、フリーメーソンが当時の進歩主義者や自由主義者たちのサロンであった、と考えると色々と辻褄は合います。
煙は確かに上がってはいたのですが、その『火元』の正体が正確に伝わっていないのです。
……なんだか誰の話が主題なのか分からなくなってしまいましたが、ウイリアムに話を戻します。

ウイリアムはブラックのように、政治的な発言や活動などの記録は見つかっていません。
フリーメーソンの中ではウイリアムは『オルガニスト』という役職に就いたり、フリーメーソン主催のコンサートに参加をしている、という記録が残されているだけなので、やはり音楽が本当に好きだったのでしょう。

明治8年 10月23日、ウイリアムは日本人女性、村瀬トモと結婚をします。
当時ウイリアムは42歳、村瀬トモ28歳。
明治前期国際結婚の研究』という論文によれば、この結婚は国内11例目の国際結婚です。
この女性に関する資料は名前と一枚の写真が残されているのみで、あとは何一つとして分かりません。
どこで知り合ったのかも、どのような身分であったのかも、まるで分かりませんーー結婚後にElzaというミドルネームがついているので、教会で洗礼名を受けたのかもしれません。

 

論文を読んでみますと、ウイリアムは国際結婚の条約を改善するため、英国公使に働きかけていたようで、確認できるかぎりは、これが唯一の氏による政治的な運動です(p129〜p130)。

ーーこの時に一緒に公使に動きかけていた、ヘンリー・A・クレーンはウイリアムの弟です。

何年に来日したか定かではありませんが、ヘンリーも翌年の明治9年、柴崎カネという日本人女性と結婚しています(p163)。

 

つまり、同時期に兄弟は日本人と結婚している訳なのですが、どうしてこのような経緯に至ったのかは全く謎ですーー単に二人ともその女性を好きになったからなのかもしれませんが・・・・

その後、ヘンリーは妻カネを連れシンガポールへ帰り、父の貿易事業を引き継ぎました。

 

ーー二人はその後シンガポールにて子孫を残しましたが、現在ではシンガポールでは『クレーン』姓は消滅しています。

ヘンリーと柴崎カネの、ひ孫の一人は政治家になりました。

彼の名はエドマンド・バーカー(1920〜2001)。

エドマンドはシンガポールの人民行動党の議員で、シンガポールが1965年マレーシアから分離独立する際にはエドマンドが調印

 

 

を行っています。

シンガポール独立の調印を日本人の末裔が行っていたのを、日本人は恐らく誰も知らないでしょう……

ところで氏の『バーカー』という苗字は改名した名前です。

元々はドイツ系の苗字だったのですが、シンガポールは昔イギリス領だったので差別を恐れ、戦中にイギリス名に改名しましたーーもしかすると日本人の血を引く、という事も当時は隠していたかもしれません。

 

 

 

 

ウイリアムに話を戻します。

1877年、明治10年ウイリアムと村瀬トモとの最初の息子、セオフィラスが生まれます。
ーーセオフィラスは僕の高祖父にあたります。
当時の資料を見て、状況を考えるかぎり横浜には他に日本人/白人との間の子供はいなかったでしょう。いたとしても、おそらく数えるほどです。
そして、けっきょくはこの地に定住を始めたクレーン家は、その後150年にもわたり日本に住み続けます。

ーーフリーメーソンなどの話題で長くなってしましました。
次回、ウイリアムの残りの半生を書きます。


 

ウイリアム・アルメイダ・クレーン(前半)


どこも出かけずに、祖先の足取りを追って想像で旅をする、3(前半)。

今回は、前回と前々回に書いた、ホセ・デ・アルメイダの孫、そしてトーマス・オーエン・クレーンの長男である、ウィリアム・アルメイダ・クレーン(1833年~1903年)の足取りを追って、開港したばかりの横浜を訪れてみようと思います。
長いので前半と後半に分けて、書きます。
以下「ウイリアム」と書くこの人物は、僕の高高祖父にあたります。

ーーウイリアムに関しては、横浜居留地会の斎藤さんのお力添えもあり、とても詳しく、その人物像を知る事となりました。クレーン家を代表して、斎藤さんに厚く御礼を申し上げます。

先祖を色々と調べていて、実はというと、このウイリアムに一番シンパシーを感じました。
というのは、資料から伺えるウイリアムの活動から、明らかにこの人物は芸術家肌だと感じたからです。
それに、とても多才で色々手広く手がけているにも関わらず、何一つとして歴史に名を残していません。
経歴を追うだけでも、『たのむ、リベンジしてくれ!』と言われてる気がしてならないので、今このようにして僕が書いている訳です。

それでは、分かっている事だけでも、なるべく簡潔に書いてみようと思います。
ーーウイリアムはシンガポールで1833年8月4日、イギリス人のトーマスを父に、ポルトガル人のマリアンナを母にして生を受けます。
蛇足ではありますが、ミドルネームに母方の旧姓『アルメイダ』とついている事が、僕にはとても重要に思えます。

これは想像の範疇ではありますが、ウイリアムはアルメイダ家に幼い頃にとても世話になったのだと思います。
当時アルメイダ家は、とても裕福だったでしょうし、祖父のホセからすれば、初孫ですから。
もしかしたら本当はウイリアムをアルメイダ姓にして、跡取りにしたかったのかもしれません。

ーー当時、アルメイダ家はシンガポールの社交界の中心地でした。
アルメイダ家の邸宅では、毎週のようにパーティーが開かれていたそうです。
ホセ・デ・アルメイダはこの頃にはポルトガルとスペインから爵位を受けており、マレー地区のポルトガル総領事を任されていました。
パーティーでは毎回、コンサートが催されていました。
そのコンサートで誰が演奏していたかというと、なんとアルメイダ一家なのです。
どうやら、アルメイダ家はみんな楽器が弾けて、おまけに歌まで歌っていました。
ーーその当時の水彩画も残されています。

最初にアップした画像は、エドワード・ホッジス・クリー(1814〜1901)という医師により1844年9月26日に描かれています。

氏による当時の水彩画は数多く残されており、医師にも関わらず見事な腕前です。

絵の中でピアノを弾いている若い女性は、ウイリアムの母、マリアンナかもしれません。そばにいる子供は、もしかしたら幼い頃のウイリアムなのかも……(1844年、ウイリアムは11歳でした)。

皆の肌は黒く描かれているのですが、恐らくはこれがイギリス人から見たポルトガル人の印象だったのでしょう。

ウイリアムは幼少の頃、このような環境で過ごしていました。
ーー僕が思うに、その頃の原体験が後々のウイリアムの活動を支えていたような気がします。

先へと進みましょうーー
いつ、ウイリアムがシンガポールを出たのかはっきりしませんが、1864年、日本でいう安政6年、開港間もない横浜へとやってきました。
それ以前には上海に住んでいた、という記録もありますから、恐らくはこの年に開設された上海~横浜間のP&O汽船会社の船に乗ったのでしょう。

P&O汽船会社は1822年イギリスで設立された船会社で、今でもあります。
今年の春先、ずっとトップニュースになっていた『ダイヤモンド・プリンセス号』はP&O社の船です。つまり、P&O社は156年も前から、横浜とは、とても縁が深かった訳です。
さて、ウイリアムが乗船していた船の名前までは特定できませんでしたが、同時代/同会社の汽船の写真を見てみますと、マストはありますが、船体は完全に鋼鉄製。背の高い煙突が伸びているのが特長です。

……この時代は日本だけではなく、世界的にも大変動の時代でした。
アメリカでは南北戦争が三年目に突入しており、前年にリンカーン大統領は奴隷開放宣言をしました。同年、ロンドンでは世界初の地下鉄が開通しています。
日本では1864年の4月、新撰組による『池田屋事件』が起こっています。
と、このように見るだけでも、人類の文化や価値観が変化していこうとする節目であったのが窺えます。

ーーウィリアムはこの年、横浜に入港した時に何を見たのでしょうか?
その時の様子を想像で再現しますーー

ーー強い海風が吹く中、ウイリアムは狭い船室から出て、左舷方向に青々とした山々が望める甲板の上を歩きました。
ウイリアムは生まれてから、ずっと南国育ちなので、頰に当たる海風をとても冷たく感じていたでしょう。
想像していたよりも、豊かな自然が広がるその景色に見とれていると、その山々の中にはるかに大きな山がそびえ立っているのに気付きました。
その山の頂上には、真っ白な雪がかぶさっており、とても神々しい感じがします。

ーー「……あの山はね、この国の霊山なのだよ」
とふいに、ウイリアムの隣に居たイングランドの商人が言いました。
ウイリアムは当時31歳。その商人もウイリアムと同い年ぐらいでした。
商人の方へ振り向くと、その腰には最新式の拳銃がぶら下がっています。

「どうして、拳銃なんかを持っているのかね ? 」

商人は、ウイリアムの方へと振り向き答えます。

「知らないのかね?この国の騎士は我らを敵視していて、一昨年も我らが同胞人が騎士に斬り殺されている。……昨年は英国公使館も焼き討ちにあっている。今やこの国では身を守る為、拳銃の所持は当然なのさ」

1862年9月14日、現在でいう横浜市鶴見区で、後に『生麦事件』と呼ばれる事件が起きました。
横浜居留地に在住していた4人のイギリス人が、観光の為、馬に乗り川崎大師に向かう途中、
江戸から薩摩へと帰っていく大名行列に遭遇します。
当時の習わしとして、大名行列の前では人々はひれ伏さねばなりません。

武士の間では攘夷論(じょういろん)、つまり外国人排除の運動が盛んになっている時期で、外国人を敵視する人々もいたのでしょう。
言いつけを守らなかったのか、その時何が起こったのかよく分かりませんが、4人のイギリス人は大名行列の藩士に襲撃され、一人は死に、二人が負傷しました。

これがきっかけとなり、1863年、英国と薩摩藩との間で戦闘が起こりました。
7隻の英国軍が、鹿児島を攻撃して、町の10分の1を焼いてしまいます。
一方、英国軍側も63人が戦死しています。

ーーこのような状況を見るかぎり、当時の横浜は英国籍の者にとって決して安全ではなかった筈です。
どうして、このような時期を選んでウイリアムは日本へやってきたのか実に不思議です。
単に血が騒いだのかもしれませんが……。

ーーさて、ウイリアム等を乗せたP&O社の汽船は、真っ黒な煙を吐き出しながら、駿河湾を進んでいきます。
やがて、行く手の波間に、日本風とも西欧風ともとれる建物が立ち並ぶ港町が見えてきました。
当時、横浜居留地には、攘夷派(じょういは)の襲撃から居住者を守るという名目で、イギリス軍とフランス軍が駐屯していました。
波止場の周囲には、両軍の軍船が多く停泊しており、この当時の切迫感を表していた事でしょうーー。
アメリカは当時、南北戦争の真っ最中だったので、港を見回してみますと、アメリカよりもヨーロッパ系の船舶が目立ちます。
この年アメリカは、海外での出来事に関わる程の余裕は全くありませんでした。
……波止場が目視できる距離にまで近づくと、海鳥の声が響き渡り、海風の中に魚を干したような匂いが混じってきます。
ウイリアムにとって、この音と匂いには馴染みがありました。幼い頃より、ウイリアムはシンガポールの港で日々、聞いていた音、嗅いでいた匂いだからです。

かつては漁師しか居なかった地に横浜港は作られ、そして1859年から外国貿易が始まりました。
ウイリアムが来日した1864年には、居留地の人口は300名ほど。
正確な数字は分かりませんが、人口を遥かに上回る数の軍人も居たと見られます。
ーーこの年、イギリス/フランス/オランダ/アメリカの連合軍艦隊が、横浜を出て下関の長州藩を攻撃しています。
当時、攘夷派だった長州藩が、海峡を封鎖してアメリカ商船を砲撃したので、開国後退を危惧したイギリス駐日公使オールコックが、攻撃を命じたようです。

この戦いで、長州藩は連合軍の最新兵器の前で敗退、これ以降、長州藩は反幕へと転じ倒幕運動へと突き進みます。
この年、坂本龍馬(当時30歳)は薩摩藩の西郷隆盛と面会をしており、翌々年、薩摩藩と長州藩は倒幕の為、軍事同盟を結びます。
世界だけではなく、日本も急激に変化をしている渦中にウイリアムは横浜港を降り立ちました。

ーー年表だけを見ていますと、とてもきな臭く感じますけど、恐らくは一攫千金を狙う外国人商人と、新しい文化や技術を見たい日本人の熱気で、港は溢れていた事でしょう。
スペインではこの年、世界初の全長14メートル潜水艦が処女航海をしており、ヨーロッパ、アメリカなどでは、モールス信号を送受信する電信網が整備され始めていました。
ロシアでは、この年にドストエフスキーの『地下室の手記』が出版されています。

この年、ウイリアムが横浜に到着して何をやっていたか分かりませんが、翌年の1985年にはパーカー&クレーンという会社を立ち上げて、写真家として活動をしています。
ーー残念ながら、ウイリアムの撮影した写真は見つかっていませんが、パーカーの撮った写真は現存しています(甲冑を着た武士の写真で「Samurai」というタイトル、1864年に撮影されています。武士が立っている所が洋風カーペットなのが、とてもアンバランスな印象を与える写真です)。
彼のフルネームはチャールズ・パーカー

 

 

と言い、1863年までは香港と上海で写真家として活動をしているので、もしかしたらウイリアムは上海でパーカーと知り合ったのかもしれません。
パーカーは1863年に横浜でこのような新聞広告を出しています。

『香港にて写真館をやっていたパーカー、風景写真&紳士淑女のポートレート/撮影承ります。
事務所は、横浜ホテルのちょうど反対側。
撮影した写真は、当日の10時から4時までの間でお渡しします。
横浜の波止場、メインストリート、クリケット場などの風景写真も販売しています。
鹿児島での戦闘、軍船のパノラマなどの写真も販売しています』

ーー当時、写真機はとても高価で珍しかったでしょうから、『写真でいっぱつ当ててやろう!』とウイリアムは思ったのかもしれません。
当時はテレビもラジオもありませんから、戦闘の最前線まで軍人に同行し、撮影して好奇心を溢れる人々に、それらの写真を披露するのも流行だったのでしょう。
当時の他の写真家による写真を見ますと、軍隊の写真だけではなく、打ち首になったサムライの生首の写真まであります。

ウイリアムとパーカーは共同経営を開始して、兵庫や大阪まで撮影旅行に行ったようなのですが、
残念ながら、それらの写真は見つかっていません。震災、戦争などで消失したのかもしれません。

パーカーは、駐屯軍とコネがあったにも関わらず、当時人気が出始めた写真家のベアトにその地位を奪われていきます。
その年にうちに、二人のコンビは解消され、翌年1866年にはウィリアムは Bank of Western India という銀行に勤め始めています。

この銀行は日本に進出した初めての銀行です。

ウイリアムはその後、1868年まで同銀行で勤めているのが確認ができます。

ーーその前年1867年に坂本龍馬は京都で暗殺されますが、倒幕派は天皇から直に倒幕の許可を得る事が出来、本格的な活動を開始。
1868年『鳥羽伏見の戦い』では幕府軍は倒幕軍に敗退、同年の『無血開城』へと至ります。
そして新政府により、元号が『明治』と改元され、江戸が新たな皇居として制定。世は明治となりました。
次回はウイリアムの別の側面を掘り下げてみます。
ーーウイリアムが愛していた『音楽』にまつわるエピーソードです。

長い文章、ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

















































 

トーマス・オーエン・クレーン


どこも行かないので、祖先の足取りを追って想像で旅をする、パート2。

前回はポルトガルのルーツを辿ったので、今回はイギリスの血筋を辿ってみます。
クレーン家の5代前まで遡って、その人物像と歴史背景を書いてみます。
人物の名は、トーマス・オーエン・クレーン

 

 

(1799年~1869年)。彼は、東インド会社の社員でした。

トーマスが出てくる最初の記録は、まるでチャップリン映画のようなエピソードです。
トーマスは1824年、25歳の頃、インドのいる兄弟を訪ねるべくイギリスから船に乗りますが、途中で船がスペイン沖で沈没をしてしまいます。
ーートーマスを始め、助かった数名は岩場まで泳ぎ着き、そこで飢えをしのぐ為、靴などを食べてひと月を生き延びます。
近くを船が通ったので、ようやく救助されるのですが、その船はシンガポールへと向かう船でした。
トーマスは開港したばかりのシンガポールへと流れつき、残りの一生のほとんどをシンガポールで過ごします。
と、このように書くだけでも、実に人生とは不思議なものです。
この時、トーマスが沈没した船と共に海に消えていれば、その後に続く5代後の僕もこの世には居なかった訳ですから。

トーマスに関する記録は、前回に書いたホセ・デ・アルメイダ程は多くはありませんが、なるべく資料と照らし合わしながら、その人生を追ってみたいと思います。
記録によればトーマスは1799年11月6日にロンドンで生まれています。
ミドルネームにオーエン、と付いている所から、元々はウエールズ出身なのかもしれません。
(ウエールズにはオーエンという名前がとても多いらしいです)

いつ、彼が入社したのかは分かりませんが、シンガポールでは東インド会社の社員として、ポルトガル人との折衝を任されていました。
シンガポールは同じく、東インド会社の社員スタンフォード・ラッフルズにより開港されています。
おそらく、トーマスはラッフルズから直に色々と仕事を任されていたかと思われます。

 

(一番最初にアップした画像は1846年に描かれた絵で、当時のシンガポールを描いており当時から様々な国籍の人々がいたのが分かります。

この多様さは現在のシンガポールの人種構成とも繋がっており、シンガポールに当時から代々住み続けている僕の遠い親戚は日本、インド、など10ぐらいの国が混じっています)

 

ーーさて、この東インド会社ですが、現代人の感覚からすれば、ただの『会社』とは捉えきれない程大きな影響を世界史に刻んでいます。
実は『東インド会社』はイギリスだけではなく、オランダ、スエーデン、デンマーク、フランス、にそれぞれ独立してありました。
東インド会社の実態に迫るだけでも、本を数十冊も読まないと全体像の把握が難しいでしょう。
ややこしいので、ここでは『イギリス東インド会社』のみに触れて、先に進めます。

ーーイギリス東インド会社は実質、インドを植民地支配していて、軍隊も所有していました。
現代人の感覚からすれば、軍隊を所有していて、その力で国を支配する企業なんて、実に不思議な感じがします。
アヘンの売買などの『黒歴史』も列挙すれば、東インド会社は超ブラック企業ですが、けっして一枚岩の会社ではないでしょう。
当時東インド会社は、中国などと商売をする為の交易ルートを確保するべく、その拠点をマレー地区で探していました。立地的な条件から、ラッフルズはシンガポールに白羽の矢を立てた訳ですが、どうやらラッフルズは会社の意向だけではなく、自らが描く『理想郷』の設立も考えていたようです。

恐らくは、ヨーロッパでは実現ができなかった桃源郷をアジアのどこかに築きたかったのかもしれません。ラッフルズはアジアの語学のみならず、現地の文化や自然に多大な関心を寄せていました。
世界最大の花として知られる『ラフレシア』はラッフルズ率いる探検隊が発見をして、その名前は『ラッフルズ』から取られています。
インドネシアでは、仏教寺院の遺跡を発見したりして、後にラッフルズは学者としても名を残しています。

ーーこれは僕個人の感想ですが、東インド会社が解体された後に、その哲学はシンガポールという国へと形が変わったのではないかと思います(あるいは、ラッフルズの思想の結果と言ってもいいかもしれませんが)。
現にシンガポールは当時から現在に至るまで、公用語は英語です。
このような視点で見てみますと、違った見方でシンガポールを見る事ができます。
SF映画『ブレードランナー』はアジア系移民が入り混じった後の未来世界を退廃的に描いていますが、実際にはシンガポールのように世界は変化をするのかもしれません。

ーー話を祖先のトーマスに戻します。
ポルトガルとの折衝を任されたトーマスは、しばらくしてボルトガル人の元医師、ホセ・デ・アルメイダ

 

 

とビジネスパートナーになります。
二人は農業経営を開始して、シンガポールの未開拓の土地を農地へと変えていきました。
二人はコットンを輸入して、コットンとココナッツの栽培を始めます。
当時はポルトガルの労働者が農地で働いていたそうですので、比較的初期にはシンガポールにはポルトガルの移民がすでに多く住み着いていたのでしょう。

ヨーロッパ人が様々な国々と混血になった末裔の事を、シンガポールでは『ユーロアジアン』と呼んでいます。中国、インド、アラブ系、日本、フィリピン、ベトナム、マレー、インドネシア、そしてヨーロッパ。
これらが少なくとも4つか5つ入り混じった混血はシンガポールにはたくさん居ます。
そしてユーロアジアンは、ポルトガル人を祖先に持つのが多いのが特長です。
現在では、かつてのコットン農場は『カットン地区』

 

 

と呼ばれようになり、おとぎの国のような家が立ち並ぶ観光スポットになっています。

ーー1828年、政略結婚なのか、あるいは本当に恋愛なのか分かりませんが、
トーマスはホセ・デ・アルメイダの長女、マリアンナと結婚をします。
記録が間違っていなければ、マリアンナは当時15歳。トーマスは当時30歳なので、歳が倍離れている事になります(当時としては何も珍しくはないのかもしれませんが)。

二人はその後、合計14人の子供を儲けます。
その後のトーマスの記録はそれほど残っていませんが、ラッフルズが設立した学校Raffles Institutionの理事を務めているという記述がありました(この学校は今でも現存しています)。
1842年、トーマスは兄弟をシンガポールに呼び寄せ、Crane Brothersという会社を設立して、貿易事業などを始めており、どうやらある程度の規模の会社へと成長したようです。
その時の名残が、シンガポール海峡に面した町に残っています。
小さな通りですが、この町にCrane Roadという名の道路があります。
写真で見るかぎりは、なんの変哲も無い住宅街の通りです。

トーマスの14人の子のうちの二人、ウイリアムとヘンリーは、何年かは正確には分かりませんが、成人し、シンガポールを出て日本へと向かいました。
ーー日本では、まだ幕末で、横浜が開港をした頃の事です。
開港をしたばかりなので、二人はそこでビジネスチャンスを掴もうとしていたのかもしれません。
この二人に関しては、また次回に書こうと思います。

トーマスは、どういう訳かシンガポールを出て1869年の12月29日に70歳にロンドンで死去しています。家族の誰かがロンドンに呼び寄せたのかもしれませんが、はっきりした理由は分かりません。
いずれにしましても、若い頃に乗った船が沈没してから、その後の人生をトーマスは殆どをアジアで過ごしています。
もしかしたら、彼は故郷で死を迎えたかったのかもしれません。

このようにトーマスの人生を追っていくと、プレスリーも歌っていたLast Farewell

 

 

という曲を思い出します。
この歌は、どこか南国の島国に思いを馳せて作られたと言われています。詩を読むと、その相手とは特定の女性とも、または国とも取れるような詩です。
ーーー最後に、その日本語訳を掲載して終わりにしようと思います。



船が港で就航の準備をしている
故郷のイングランドへ向け、明日船は出る
太陽が降り注ぐ、あなたの国を出て
雨と霧に包まれた私の国へと

私は明日その船に乗るでしょう
この別れで心は涙でいっぱいですが

あなたは美しいから、私はあなたを心から愛しています
話し言葉が伝えることができるよりも、もっと
あなたは美しいから、私はあなたを心から愛しています
話し言葉が伝えることができるよりも、ずっと

















 

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