質問のレベル?~羽生ゆづ君会見から見たメディアの現状
ざわざわ、、、東京五輪でゆづる様の発言が波紋をよんでいる。
個人的に五輪について色々書いたが、今回は羽生結弦さま。
◆発言1:「くまのプーさんは森に返します」
演技後に投げ込まれるくまのぬいぐるみについて問われた羽生様。
ゆづる様のナイスジョークであり、アメリカの記者会見だったら大いに評価されたことだろう。
念のために「というのは冗談です。いつも、子どものチームなどに寄付しています。」というフォローを入れるのがさすが。
好感度抜群の好青年である。
◆発言2:「そういったことをはじめてきかれましたね」
外国人記者クラブにて5回転ジャンプの難しさを説明してくれと問われ、苦しむ羽生様。
この後、技術的な説明をしようと苦闘。言葉を選んだ結果、、、、「(5回転は)目をつぶって、回転しながら、3重跳びやってるような感じ」と答えて苦悩。
こうした技術についての質問ってあまり聞かないし、スポーツ報道はたいてい感動物語ばかりだからね。
技術的な質問をすれば、スポーツの奥深さが見えてくるのにねと思う。
◆発言3「特に食についてあんまり興味がなさすぎて、たぶん僕がしゃべっても面白くないので省きます」
おいしかった料理を聞いた某テレビメディアの有名アナウンサーの質問への回答。
さすがの切り返しであった。
このアナウンサー、綺麗だし、声もはきはきしていて、感じがよく素晴らしい女性。
しかし、そんなん、どうでもいいんじゃないのというレベルの質問をしてしまう。
視聴者は歓ぶと思ったのだろうか?身近に感じられる質問とでも思ったのだろうか?
正直、視聴者の期待を考えたわけだが、結果的にどうでもいいレベルの質問=視聴者を甘く見ている証左だと思ってしまった。
ただ、あまりにかわいそうな批判を受けていることも事実。
「アスリートは食事制限しているだろ」「韓国好きといわせたいのか」「へんな空気になった」等々。
あまりにかわいそうである。
次は、より技術的な奥深い質問ができるよう、取材頑張ってほしい。
そもそもこの記者会見、大手テレビ局のアナウンサーらに発言機会が(実質)限定されていたと聞く(手を挙げていてあたるのは大手メディア)。そうした何かのチカラが働く記者会見。そりゃへんちくりんな質問をかましてしまうわ・・・とアナウンサーに同情する。
考えない時代、思考しない時代。本物のアスリートはそりゃすごい。
日本の言論に染まってないからね~と思いました。
アスリートはスポーツバカではない(その1)
スポーツバカ
筋肉バカ
脳が筋肉
という言葉がある。
たいてい、スポーツばっかりやって勉強しないという意味の批判がこもった、
まさに嘲笑であり、偏見。
たいてい、若い時、文科系、芸術系、オタク系男子からスポーツ系男子は言われるものだ。
そこには、スポーツで目立っていることへの嫉妬や憧れが入り組んだ複雑な感情といっても過言ではない。
そして、スポーツ男子も「そうかもしれない」と半信半疑で信じてしまい、自嘲的に「脳が筋肉」という場面も見かけられたものだ。
しかし、個人的には、「スポーツマンは馬鹿ではないと思う。
記憶したり、勉強する時間をスポーツに割いていただけだと思う。
大学でスポーツ推薦の人に出会っても、スポーツが得意な人は凄いと思うことが多い。
そこそこスポーツをやってきたから、感情的に「スポーツマンは馬鹿ではない、それは違う」と思っているわけではない。
理論的に、経験的に、長年、この言葉に疑問を感じてきて、それが確信に変わっていったのだ。
理由の第一は経験である。スポーツマンとしてそれなりの業績を残した方はそれなりに頭がいい。
仕事でも活躍すrる。
そもそも、スポーツで成功するうには身体能力だけだと限界がある。頭がよくないと、人より抜きんでることはなかなか難しい。
どのように動くか、体の使い方、ペース配分、作戦、戦術等々、理解力や頭脳は必要だ。
しかも、どのように努力すればいいのか、考え抜いて模索してきた。
集中力などが尋常ではないように思える。
言葉や知識がないため言語化できなかったりするから、我々はスポーツ選手は頭が悪いと勘違いするが、
ただそれだけで。知的なトレーニングを受ければ、知識をつければ、その言葉から知性が感じられるようになるもの。
一度勉強する習慣を身に着けた人は、あっという間に仕事においても周りを抜き去っていく。
仕事において私は抜き去られた方だったが(笑)、その時、スポーツは凄いと思ったものだ。
確かに名門大学ラグビー部の出身者が商社などで活躍する例はとても多い。
川淵三郎元Jリーグチェアマンも古河電工では社長になれるくらいバリバリ働いていた。
というように世間でも非常に多い。
またスポーツ選手の言葉は多くの人の心を打つ。
個人的には、野村克也監督、モウリーニョなどその知性から多くのことを学んできたこともある。
第二の理由は脳科学の面で。
それはThe Urban Folksに寄稿したいと思う。
職業は何?何になりたい?
「職業は何?」「仕事は何をしているのですか?」と聞かれると本当に困る。
コンサルタントだが、
研究者でもあり、
アナリストでもあり、
リサーチャーでもあり、
研修講師でもあり、
プロジェクトマネージャーでもあり、
企業の東京営業所長でもあり、
NPOの理事長、副理事でもあり、
政府や自治体の委員でもあり、
ライターでもあり、
アドバイザーでもあり、
キャリアカウンセラーでもある。
もちろん他人に理解されない笑。最近説明するのが本当に面倒になってきた。
個人的には未来学者、社会起業家だと思っていることはもっと理解されない。
で思うのだが、子どもに「何になりたいの?」と聞くのはどうかと思う。
まさに日本的なコミュニケーション。
政治家になりたい→
社長になりたい→
作家になりたい→
これでは肩書や出世などに目標を設定してしまい、日本的「立場」「肩書」主義を強化するだけだ。
その職業になって何をするのか?が問われない。
本来「何をやりたいの?」と聞くべきところなのだ。
This is Me.
サッカー、プレミアリーグ、マンチェスター・ユナイテッド監督、俺の師匠であるジョゼ・モウリーニョさんは言う。
「人間がもっている大きな欠点の1つは、よくも知らないうちに別の人間のことを決めつけてしまうことだ」と。
その通り、人間はこの人はだいたいこんな感じとして理解、いや、理解したつもりになる。
「できる人」「使えない人」「いい人」「悪い人」と我々はあまりに軽く使ってしまう。あまりにも早く判断を下す。
しかし、自分のそのときの立場からそう思えた、もしくは無意識的に思いたいだけかもしれない。
最近、ある人から理解されてないんだな~と思ったことがあった。
金銭?地位?評判?見栄?
それはそれで大切なものかもしれないけど、それが欲しかったら別の生き方を選んでいる。
そんなものに自分の人生を捧げてはない。
自分の才能や与えられた恩恵を犠牲にしてまで。
自分はあるテーマのもとに生きている。
目標は9歳の時に決めた。紆余曲折だらけだがそれに向かって毎日を歩んでいる。
生きる意味はまだ探しているけど、成長の過程でそれが見えてくるはずと思っている。
求めているものなんて他人がわかりやしない。
口にしてプレッシャーをかけるのも、俺のように隠して生きるのでもいい。
いつか「これが私だから」といつかいえるまで頑張ろう。
登美ヶ丘高校ダンス部が映画『THE GREATEST SHOWMAN』主題歌で歌っている。
若い人から元気をもらう。
ハリルの事情(サッカー日本代表監督)
今女子アナがセンテンススプリング(文春)に批判されているけど、どっちも関係深いとはいえ、人それぞれ事情があるからさ、批判してもどうかと思いますよね。バッシングしたり、「こいつは終わった」とかいうのはさ、心の奥底に嫉妬とか価値観の違いとか不満とかがあるからだと思うのだ。
ということで、今年は批判・バッシング・炎上・苦情から人を守るをテーマにブログを書いていく。
今年第一弾はハリルホジッチさん。
【批判されている人】ハリルホジッチさん(サッカー日本代表監督)
◆【批判】日本のサッカースタイルを確立できない◆
縦にも速くなく、パスも繋がらない、まさしく中途半端なサッカーになってしまっている。結果も出ていない。
これまでポゼッション志向のサッカーを志向していた日本。数年前のU17日本代表(吉武さん監督)では10人が今、清水エスパルスで芽が出つつある北川選手でもDFをしていた程。バルセロナのポゼッション信仰も強く、現場ではテクニック系のMFが増える。体が小さい日本人にとっては「ボールがとられなければ負けない」という意味で、問題解決策とも思われている面がある。
しかし、ハリルは大きな展開、ハードワークを求めるスタイルを進めている。ディフェンスラインからつないでいくスタイルではなく、トップのFW大迫(ケルン)にあてて、彼が収めてから展開していく。
なかでも、「デユエル」、つまり球際の強さでボールを奪取しての速攻、ディフェンスラインからの縦に速いサッカーが特徴。
「日本より強いことは試合前からわかっていた」発言(2017年12月16日、サッカー東アジアE-1選手権・韓国代表戦の敗戦後)などの言動も批判をされている。
□釈明余地あり!□
ブラジル現地でワールドカップを見たが、ハリルホジッチが当時監督を務めていたアルジェリア代表のサッカーは魅力的であった。それをまた体現しようとしていると思う。強豪相手には理想のサッカーでは勝てないわけだし。
他方、ブラジルでの日本のサッカーはもうひどかったのだ。
特にギリシャ戦。ボールを保持しては、長友か内田がセンタリング、長身DFに跳ね返される、の繰り返し。そして、どんずまり。
崩せないで時間が過ぎていき、0-0で終了。
攻め崩せないところを見て、「アイデアの少ない、創造性を尊重されてきたとはいいにくい日本人には厳しいのでは?」と思ったのは俺だけではなく、当時のザッケローニ監督の心情もそうだったのではないか。
若手起用をしすぎ、ビッグ3をなぜ外すというが、アルジェリア代表のサッカーでも有力選手を外した。その1人がレスターのマフレズで、今や世界的な有数の選手になったわけで、選手は監督が選ぶものだから仕方がない(個人的に3人は必要だと思うけどね)。
キャプテンの長谷部は言う「相手によってフォーメーションも変えるし、やり方も変える。プレッシャーの掛け方を一つ取っても、毎試合違うやり方をする。どんな相手にも臨機応変に、柔軟に対応していくサッカーだということが、はっきりと見えてきましたね」と。
ポゼッションサッカーではないので、ポゼッションが好きな人には面白くないかもしれないが、そこは仕方ないでしょう。やっていて・見ていて面白いサッカーを求められているわけではないのだから。
「オレオレ詐欺」「かあちゃんなんとか詐欺」「あれ俺詐欺」の次には何がくるー?
知り合いの2人であったが、とてもためになる勉強会だった(満足)。
そこで音喜多議員がおっしゃった言葉が耳に残った。というかへばり付いている。
「あれ俺詐欺をする人がいる」と。
誰かって?
それは「政治家」。
「私があの政策を実現しました」
「あの橋は私が作りました」
まー言いたくなる気持ちもわかる。盛りたい部分もあるだろう。
心情は痛いほどわかる。
でも、実際、地方自治体の予算編成や査定の現場にいた人間から言わせてもらえば、
政治家の影響は残念ながらそんなに多くもない。
この話を聞いて、わがジピーズ団長の西村がふと思ってしまった。
「政治は結果責任です」
「任命責任はどこにあるのか?」
そう政治家さんには「責任持っている詐欺」という商法(?)もあるかも、と。
*注意
頑張っている政治家さんには失礼な言い方であることは重々承知です。
政策がうまくいかなかった責任を取った方からのみ反論を受け付けます。
自己満足ではない言論を
我々の行動原則
・全体理解が浅い段階では主張をしない・
・相手や話の全体像・特徴・背景をつかんだうえで主張する。
・論争についてはたちはいらず、双方の背後にある利害や利益・ロジック・価値観を明らかにし、誤った認識については疑義を提示する。
・相手の立場を踏まえ、相手が受け入れ、行動を変えなければと思うような前向きな提言をしていく。
・どういう知識が足りないからこういった意見になるのか、どういった考えに洗脳されているからこういった考えになってしまう、思考や理解の構造を明らかにして、思考を促す。
・強い主張「・・・べき」から、「・・・では?」「この視点に立てば・・・考えられるよね?」「・・・考えては?」というコーチング的な意見提示を重視する。
名言の意味
TOKYOに求められる政策議論~「自分の考えを示し有権者に考えてもらえる」公約を
猪瀬東京都知事の辞任があり、現在、東京都知事選挙の候補者選定が各政党で行われている。五輪をどうするか、グローバル都市としてのインフラ整備、利害関係者と知事との関係の在り方、スポーツ振興といったテーマが選挙の争点の中心になるだろうと想定されている。この世界的な巨大都市の現状を踏まえ、教育、防災、子育てなど様々な面から議論がされるだろう。歴史と伝統を持つ各政党に推薦された候補者がどのような「声」を発するのか大変期待が持てる。しかし、「声」だけで十分なのか、とよく考えると思う。今求められているのは「声」に加え「考え方」であろう。都知事候補者による政策議論は、東京都の現状をどのように考えるのか、現状と課題は何で、そのためにどのような事業を進めるのか、自分はこのように行動する、その理由はこういう根拠がある。という論理で、現状認識と個人の行動・経験の裏付けを明記した公約の提示が必要だ。
有権者は、この人でいいのか?判断する際に、個人の知る範囲で集めた情報(直接会ったり、知り合いからの伝聞、メディアで流れた映像や文章などから)や印象・イメージを参考にして投票している。ただし、候補者が「何をやりたいか」というもっとも大事な判断材料の1つである公約は、残念ながら抽象的な文面が並び、もしくは、具体性な事業レベルのどちらかに偏ってしまう。前回の各候補者の公約を見ても、「電力エネルギー改革」、「地下鉄改革で暮らしを便利に」、「教育再生と子育て支援」等々。さらに個別に見ていくと、理念・方向性といった抽象レベルと事業内容といった具体レベルが混在しており、ふわっとしたけど、一部は詳細な内容となっているという特徴があった。前回の早稲田大学のマニフェスト研究所の各候補者の公約評価でも、理念や政策の一貫性という面が全候補者の平均得点が低かった。
そもそもなぜ現状認識に基づく公約が必要かというと、公約に一貫する政策理念、各施策(子育て、福祉、環境、公共交通、産業などの大きなくくり)の方向性、それを支える現状認識が提示されないと個々の有権者にとって選択するには不十分だからだ(個人的には、そのための具体的な計画、計画を支えるマネジメント方法まで提示してもらいたいが)。実際、真剣に考えれば考えるほど判断できなくなってしまう。そして、公約をもとにした議論やメディアのウォッチも十分なものには期待できなくなる。前回「争点がない」と、とあるテレビやメディアでは言われていたが、メディア自身が作れなかった面はおいていても、争点についての改善余地があることは確かだ。新聞は比較的、争点が明確になっていたと思うが、その内容も個々の施策・事業レベルの視点での書かれ方にとどまった。政策の全体構造が明らかになっていなかった。
たとえば、石原前知事の取り組み、猪瀬知事の取り組み、特に平成22年12月に発表された「10年後の東京への実行プログラム 2011」の個々のテーマに賛同するのか?8つの目標の現状や方向性をどう感じているのか?本当に今必要か?進捗についてどう判断するか?といった議論を提起してもよいと思われる。リーダーに求められる社会の見方、全体構造とそれを支える知見や方針を議論しないで、担当者レベルの個々の政策や事業を議論していても意味がない。
「2020年の東京」への実行プログラム2012」は、私のような専門家が僭越ながら言わせてもらうと日本全国の各自治体と比較しても「レベルが高い」とはお世辞としても言えない。全体方針、事実に基づく現状と課題認識、住民と役所との役割分担、数値目標や達成度を掲げている自治体も多い。東京都は地方自治のマネジメント面で「遅れている」という実感は誰も持っていないだろうが、それは事実なのだ。これを疑う人がいたら、各自治体の「総合計画」「行政評価」のページをホームページで見てほしい。
有権者は関心領域も知識もバラバラだし、識見のある候補者もそれは同じである。しかし、政策の全体構造、「東京都」に対する現状認識をあいまいなままに提示されたまま政策討論がなされても、かみ合わないし、論点を整理しにくい。誰もが困る。
アベノミクスで景気が回復基調にあり、東京五輪の開催も見え、社会に明るい兆しが出てきた。ただ、被災地はまだ立ち直っていないし、首都圏以外の地方は元気ではない。だからこそ、新たな時代を切り開くような政策議論を期待したいし、そのためにはしっかりした「公約」がいる。候補者やそれを支える各陣営が有権者に示し、それを有権者が思考し、判断をくだす。そこに首都東京のプライドを見たい。
小出裕章さん講演会
高校の先輩である京都大学原子炉実験所助教の小出裕章さん講演会「私たちは子供たちに何を残してしまたのか」に参画。以下、その講演録になります。お会いできて感動しましたし、
この原発問題に対しての思いを強くしました。被災した同級生とともに、今年度中にイベントを開催したいと思っています。
【講演録】
大学三年の秋に生き方を180度変えた。原子力はとんでもないし、なんとかして辞め誘うとしているのはどうかと思った。そのとき、ここに踏み込まないと決意しました。おさらばをした。
しかし去年の秋に、ジャズの同級生ライブの企画にずるずるとひきづりこまれて、足を踏み込んでしまった。今回は、私が恩を受けた人に不義理をしていたと、お詫びみたいなもの。
原子力に嫌悪を感じた理由。それは東京大空襲。町中が火の海になる。10万人が一晩で焼き殺された。軍部は負けるのはわかっていたけど、引けなかった。
原爆は秘密都市に科学者を入れて、実験。それは1945年7月16日。ポツダム会談の日、アラゴモルドにて実験に成功。太陽より明るい光だった。
1945年8月、人々が生きている街の広島、長崎で原爆がさく裂した。アメリカはどうなるかわかっていて、この爆弾を使用した。
この悲惨さは報道統制で知らされなかったが、だんだん広島、長崎において何が起きたかを知らされるようになった。それが高校の時。原爆展に東京で展覧会がしきりにおこなわれるようになった。私は地質部にいた。こんなに猛烈なエネルギーを生むものなら、平和的にいくなら役に立つと思い、地質を捨てて、原子力の道に進んだ。
1954年7月2日、毎日新聞によると「原子力はとてつもないエネルギーだ。化石燃料がなくなる」という記事があるが、その考えを信じていた。しかし、ウランは貧弱な資源。石油の数分の1、石炭の数十分の1である。それをわからなかった。
日本は被爆国なのになぜ原子力発電を受け入れるのか?
私は「被爆国だからこそ、原子力に期待した」と思った。その被害を被害だけで終わらせるのではなく、希望に転化したいと思いこんだ。傷をもっと有益なことに活用して癒したいと思ったのだろう。私もそうだった。
原子力はたんなる湯沸かし装置。蒸気でタービンを沸かすだけ。いってみれば蒸気機関。それをいまだに使っているだけ。燃やしているものが化石燃料ではなく、ウランである。そこが決定的に危険な理由。
さらに、効率が悪い。熱効率は33%。発熱したうち、100万KWは電気。200万KWは海に捨てるしかない。毎日3キログラムのウランを核分裂させられる。広島は800グラム。
1日3、4発に相当する核分裂をさせていたのにひとしい。そのうち3分の1をエネルギーにしている。
原子力を利用すると核分裂生成物などの放射性物質を作り出す。無毒化する力はない。100万年にわたって生命環境から隔離続けないといけない。いわば「トイレのないマンション」。人が住めない。いつかトイレができる・・・と信じでやっていた。膨大にたまってしまった核分裂生成物。たくさんの電気を起こしたのは事実。広島の死の灰、120万発をつくってしまった。電気がほしいということで・・・・。
90万発は私たちの世代が作った。消すことのできないゴミとして。消せなければ隔離するしかない。その方法を考えた。
そのための案は宇宙処分。ロケットに載せて発射して・・・技術的にできない。
深い海に穴を掘る案。失敗したら海はどうしようもなるので・・・ロンドン条約で禁じられた。
南極で氷床処分・・・だめ。
最後に残ったのが地層処分。法律でこれが唯一の処分方法と決めてしまった。ここに100万年置いておく。そんな荒唐無稽な話はあり得ないが、原子力関係者や国家はこれでいくと1点張り。
福島の事故が起きる前は、ゴミはかたがつくといっていた。
電気ができてから126年。手レベル放射性廃物は六ヶ所村に120万本埋め捨てる。あと300年間。
赤穂浪士の討ち入りの時の人が今の我々を想像できたか。
国家だってアメリカでも236年。
高レベルの放射性廃棄物のお守り、捨てる場所すらないのがあと100万年。
これができると言っている政治家や国家・・私が気がくるっているとしか思えない。
やめることもできないまま、事故が起きてしまった。
事故が起こらない機械はない。原発は機械で、壊れない機会はない。
原発を動かしているのは人間で誤りを犯さない人間はない。原発が絶対安全だとは絶対に言えない。
推進派も本心でいえば事故が起きると思っていた。だから、都会には作らなかった。そのために周到な準備をした。原子炉立地審査方針には、非居住、低人口、人口密集地帯から距離をおくという条件がある。
IAEAという推進団体への報告書では今回、広島の168発分を大気中にセシウムをまきちらした。
責任というより、犯罪と言える。たぶんこの2、3倍だと私は思っている。同じくらいのものが海に流れている。それくらいの規模の事故が今進行している。
「広島には草も生えたし」という人が言う。しかし、原爆はキノコ雲になって成層圏にいった。そこが福島とは違う。日本政府は風で流れていたことを知っていた。南相馬の人、飯館村に避難しろと言われた人がいる。国からの正確な情報を与えられないまま・・・。
10数万人の人が家を追われている。群馬あたりまで・・・1平方メートル6万ベクレル。
私の研究室、仕事柄「放射線管理区域」で仕事をすることになっている。そこでは水も飲めない。18歳未満は入れないという区域。すぐにはでれない。出口で測定器を測定し、それ以下にならない限りでてはいけない。私が持ち込んだ実験道具が汚れていたら捨てなければならない。
1平方メートル4万ベクレル。大地全部が汚れている。その外側でも3万ベクレルを超えている。1平方メートル60万ベクレルはさすがに人は住んではいけないとしている。「放射線管理区域」にすると、1000万人故郷を追い出さなくてはいけなくなる。
日本は法治国家か?
放射線区域からものを持ち出すときは1平方メートルあたり4万ベクレルを超えて放射能でよごれたものを管理区域外に持ち出してはならないという法律もあった。その国家を法律を守らなくなった。誰一人として責任は取らない。
・失われる土地
・強いられる被爆
・崩壊する1次産業
・崩壊する生活
311で世界が変わってしまった。人々が普通に生活する場が放射線管理区域以上に汚れてしまった。
汚れた世界でいきるしかない。そういう選択しかない。この事態を許した大人として私はどう生きるのか?を考えないといけない。電力会社は電気が足りなくなるかということではない。
なぜ執着するか。結局、電力会社の経営の問題、不良資産にしたくないということが原発をやめられない理由。