フアヒンと海と言葉の流れ
先週末には毎度おなじみの我が家の御用達リゾート地、
フアヒンの街に行ってきたので、雑記的に記しておきたい。
宿泊先のホテルまで3時間程度、車に揺られる。
最初のうちは平地が続くだけなのだが、塩田地帯を越えたあたりから山々が見え始める。
山育ちの私としては非常に懐かしい光景だ。
ま、それでも、高さが霧島とは全然違うわけで、里山程度のものにしか過ぎないのだが。
ともかく、フアヒンまでの道のりは楽しい。
途中は前もって買っておいた菓子類などを家族で食べる。
この時ばかりは何でも好きなだけ食べるのが私の主義であり、
息子もそのご相伴にあずかり、色々のものをむしゃむしゃと食べる。
有り体に言えば、これは遠足なのだ。
でも、旅先では観光することもなく、ひたすら休むのだけれど。
フアヒンの海に面したホテルに着くと、ベッドの上に横たわる。
宿泊先はDACOというタイでは誰でも知っているフリーペーパーでよく紹介されている
フアヒンのホテルだったわけだけれど、
雰囲気はなんというか、ミニマルで小さい感じ。
これならAKAの方が好きだったかもと思ったが、
今回は砂浴を海岸で行うために来たわけで、その意味ではすごく良い場所だった。
砂浴は東城百合子先生の名著「自然療法」を読んだ人なら誰でも一回はしたくなる健康法で、
様々な奇効があると言うことで有名だ。
お天道さま、ありがとう。/東城 百合子

¥1,785
Amazon.co.jp
(↑の本は東城先生の自伝。かなり面白いのでお勧め)
私は物凄い日光の中、冨美江氏を2日にわたって砂に埋めてやった。
彼女は紫外線からの完全防御で砂の中に沈み、頭だけを残して、かなり長い時間埋まっていた。
その姿は滑稽でもあるが、なかなか面白いので、明日は写真をUPしておきたい。
フアヒンの街に行ってきたので、雑記的に記しておきたい。
宿泊先のホテルまで3時間程度、車に揺られる。
最初のうちは平地が続くだけなのだが、塩田地帯を越えたあたりから山々が見え始める。
山育ちの私としては非常に懐かしい光景だ。
ま、それでも、高さが霧島とは全然違うわけで、里山程度のものにしか過ぎないのだが。
ともかく、フアヒンまでの道のりは楽しい。
途中は前もって買っておいた菓子類などを家族で食べる。
この時ばかりは何でも好きなだけ食べるのが私の主義であり、
息子もそのご相伴にあずかり、色々のものをむしゃむしゃと食べる。
有り体に言えば、これは遠足なのだ。
でも、旅先では観光することもなく、ひたすら休むのだけれど。
フアヒンの海に面したホテルに着くと、ベッドの上に横たわる。
宿泊先はDACOというタイでは誰でも知っているフリーペーパーでよく紹介されている
フアヒンのホテルだったわけだけれど、
雰囲気はなんというか、ミニマルで小さい感じ。
これならAKAの方が好きだったかもと思ったが、
今回は砂浴を海岸で行うために来たわけで、その意味ではすごく良い場所だった。
砂浴は東城百合子先生の名著「自然療法」を読んだ人なら誰でも一回はしたくなる健康法で、
様々な奇効があると言うことで有名だ。
お天道さま、ありがとう。/東城 百合子

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(↑の本は東城先生の自伝。かなり面白いのでお勧め)
私は物凄い日光の中、冨美江氏を2日にわたって砂に埋めてやった。
彼女は紫外線からの完全防御で砂の中に沈み、頭だけを残して、かなり長い時間埋まっていた。
その姿は滑稽でもあるが、なかなか面白いので、明日は写真をUPしておきたい。
子供はどうして体に出るのか
子育てをしていると、
子供の不思議によく出会う。
昨晩、夕食の際に子供が非常にぐずってしまってどうしようもなかった。
その後も寝るまで延々とウダウダ言っていたので、
なんだかいつもと違うなぁとは思っていた。
確かに眠い時に子供はぐずるけれど、
それほど長い時間は続かないし、鳴き声も普段より大きい。
夫婦二人で注意深く観察すると、
昨日、スタッフさんが実家に急遽帰ることになったということに思い当たった。
なるほど、確かに彼女は息子に帰らなければならない旨を伝えていた。
息子はそれを感じ取って、体で悲しみや不安を表明していたのだろうか。
いや、むしろ、体で発散していたのだろう。
こういう風に子供を見ていると、
そこに素晴らしい先生がいることに気付く。
悲しいことがあれば泣きわめき、嬉しいことがあれば笑う。
単純であるけれど、存外、難しいことになってしまいがちだ。
日々の暮らしの中でその輝きを忘れずに大事にしていきたい。
子供の不思議によく出会う。
昨晩、夕食の際に子供が非常にぐずってしまってどうしようもなかった。
その後も寝るまで延々とウダウダ言っていたので、
なんだかいつもと違うなぁとは思っていた。
確かに眠い時に子供はぐずるけれど、
それほど長い時間は続かないし、鳴き声も普段より大きい。
夫婦二人で注意深く観察すると、
昨日、スタッフさんが実家に急遽帰ることになったということに思い当たった。
なるほど、確かに彼女は息子に帰らなければならない旨を伝えていた。
息子はそれを感じ取って、体で悲しみや不安を表明していたのだろうか。
いや、むしろ、体で発散していたのだろう。
こういう風に子供を見ていると、
そこに素晴らしい先生がいることに気付く。
悲しいことがあれば泣きわめき、嬉しいことがあれば笑う。
単純であるけれど、存外、難しいことになってしまいがちだ。
日々の暮らしの中でその輝きを忘れずに大事にしていきたい。
備忘録:川喜多二郎という人
東京工業大学の社会工学科という私の出身学部では、
KJ法という思考法を全学生に実習させる。
なんぞそのKJとは?と思ったものだが、
川喜多二郎という開発者のイニシャルを取ってKJということだ。
Kawakita Jiroというわけだね。
ちょっとWikiで調べると面白いことが書かれていた↓
有名シャンソン歌手イベット・ジローの名をもじって、「チベット二郎」の異名を持つほどの、チベット文化の理解者である。
1963年(昭和38年)と1964年(昭和39年)の民族学調査をきっかけに、アンナプルナ山のふもとの山村の活性化と環境保全のため、NGO「ヒマラヤ保全協会」を結成した。
中華人民共和国のチベット侵略に際し、抗議の論陣を張り、頑として訪中しない方針を貫いた。
・・・なかなかの人物である。
気骨の氏とも言えるだろう。
それにしても
『チベット二郎』
はなんだか語呂が良いので、自分もこういう異名が欲しいものだと思う。
在学中はKJ法って面白いなぁという感覚しかなかったのだが、
気付いたら本棚に川喜多二郎先生と岩田慶治先生の対談本が(いつの間にか)あったので紐解いてみたのだ。
するとまぁ、これが面白いこと。
怜悧な頭脳と豊富なフィールドワークの経験が合わさって、
大昔の本なのに今でも十分に面白く読める。
岩田慶治という人はこれまた日本の人類学を代表する学者で、
色んなところで名前も出てくるので調べてみると良いと思うのだね。
人類学的宇宙観 (1975年) (講談社現代新書)/川喜田 二郎

¥389
Amazon.co.jp
この中で気になった部分があるのだけれど、
「我々の認識している文化とは過去の抜け殻みたいなものであって、
実際にはその中には創造する姿勢が存在する。
それを掴まないかん」
といったような部分があった。
(非常に申し訳ないが、うろ覚えな部分もあるが、たぶん、会ったと思う)
この部分に「なるほど!」と強い感銘を受けた。
この衝撃はきっと、
訳も分からず感銘を受ける単細胞人間の悪癖なんであろうが、
きっとその背景には何かあるはず。
まぁ、その部分を深い理解するために一晩寝ようと思うけれど。
最近は神話や伝承のたぐいや、アウトサイドのアートに大きなヒントを得ているなぁと感じる。
これらは既存の社会ではもはや話題にすらされないようなものかも知れないが、
案外、新しい波は光の当たっていない場所から出てくるものである。
その意味で人類学的な思考をもっと学びたいと思っている。
KJ法という思考法を全学生に実習させる。
なんぞそのKJとは?と思ったものだが、
川喜多二郎という開発者のイニシャルを取ってKJということだ。
Kawakita Jiroというわけだね。
ちょっとWikiで調べると面白いことが書かれていた↓
有名シャンソン歌手イベット・ジローの名をもじって、「チベット二郎」の異名を持つほどの、チベット文化の理解者である。
1963年(昭和38年)と1964年(昭和39年)の民族学調査をきっかけに、アンナプルナ山のふもとの山村の活性化と環境保全のため、NGO「ヒマラヤ保全協会」を結成した。
中華人民共和国のチベット侵略に際し、抗議の論陣を張り、頑として訪中しない方針を貫いた。
・・・なかなかの人物である。
気骨の氏とも言えるだろう。
それにしても
『チベット二郎』
はなんだか語呂が良いので、自分もこういう異名が欲しいものだと思う。
在学中はKJ法って面白いなぁという感覚しかなかったのだが、
気付いたら本棚に川喜多二郎先生と岩田慶治先生の対談本が(いつの間にか)あったので紐解いてみたのだ。
するとまぁ、これが面白いこと。
怜悧な頭脳と豊富なフィールドワークの経験が合わさって、
大昔の本なのに今でも十分に面白く読める。
岩田慶治という人はこれまた日本の人類学を代表する学者で、
色んなところで名前も出てくるので調べてみると良いと思うのだね。
人類学的宇宙観 (1975年) (講談社現代新書)/川喜田 二郎

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この中で気になった部分があるのだけれど、
「我々の認識している文化とは過去の抜け殻みたいなものであって、
実際にはその中には創造する姿勢が存在する。
それを掴まないかん」
といったような部分があった。
(非常に申し訳ないが、うろ覚えな部分もあるが、たぶん、会ったと思う)
この部分に「なるほど!」と強い感銘を受けた。
この衝撃はきっと、
訳も分からず感銘を受ける単細胞人間の悪癖なんであろうが、
きっとその背景には何かあるはず。
まぁ、その部分を深い理解するために一晩寝ようと思うけれど。
最近は神話や伝承のたぐいや、アウトサイドのアートに大きなヒントを得ているなぁと感じる。
これらは既存の社会ではもはや話題にすらされないようなものかも知れないが、
案外、新しい波は光の当たっていない場所から出てくるものである。
その意味で人類学的な思考をもっと学びたいと思っている。
童話「まほうのなべ」に触発されてオートミールを作るの巻 その1
男には死ぬまでに一度はしておきたいことがある。
ランボルギーニでブイブイ(死語)言わせたい、
とりあえず巨大化したい、
或いは、いきなり戦争に巻き込まれて英雄になりたい、
などなど、諸兄らも一度は思ったことだろう。
しかし、私はというと、そんな甘っちょろい空想の話では満足しない。
常に現実志向なのだ。
そして、その現実志向の最たる果ての、夢として以下のようなものがあった。
童話「まほうのなべ」に出てきたような、
オートミールを食べてみたい。
これである。
この今すぐにも叶うようなことが、私のこれまでの人生の夢(の大部分)であったのだ。
話せば長くなるが、
私とオートミールとの縁は深く、
あれは小学一年生の夏休みだったかと記憶しているが、
近所にある勝栗神社という私とはたいして馴染みもない神社の…
と、前置きが長くなるのは好きではないので簡潔に書くと、
ひょんなところから見つけた、
「まほうのなべ」という本に載っている『オートミール』なるものを
絶対に食べたい!
今すぐ食べたい!
そう思ったのがきっかけである。
まほうのなべ/ポール ガルドン

¥1,365
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↑これが問題の本である。
重厚かつポップなデザイン、
そして肝心のオートミール(黄色)があふれ出ている
ダイナミックな描写が諸兄らのオートミール心をくすぐるだろう。
しかし、鹿児島のド田舎に生を受けた私にとって、
オートミールまでの道はあまりにも長く、そして険しいものだった。
その姿を脳の片隅で月に一度は夢想すれども一度たりとも食べたことはなかったのだ。
そして、運命に阻まれた時すらもあった。
それも幾度ともなくである。
成人してホテルに泊まれるようになると、朝食をブッフェ形式で食べることがままある。
その際に、オートミールも陳列されているらしかったが、
今までそれを華麗にスルーしていたのか、気付くことすらなかった。
いや、何者かの力によって気付くことができなかったのだろうとすら思えてくる。
特にタイ国内のホテルにはもう10回以上泊まっているが、
どうしても巡り会えないでいるのだ。
ここまで来ると、
オートミールを食べてしまうと、
運命の歯車が変わり、
私が私ではなくなってしまうのでは?
などと、思うこともしばしばであった。
それほどに
禍々しい因縁
があるのかと身構えたくもなるが、
それでも私は食べたかった。
それでも私は食べたかったのである!
大事なことなので二度言いました。
…おっと、本当はオートミール粥を作ってみただけの話だったのだが、
ブログ作成の制限時間(10分)を越えたので、
この話題はまた明日にしたいと思う。
全国200万人のオートミールファンの皆様のために将来的には
オートミールレシピを考えている。
まだレシピは一つしか実践していないけど…。
ランボルギーニでブイブイ(死語)言わせたい、
とりあえず巨大化したい、
或いは、いきなり戦争に巻き込まれて英雄になりたい、
などなど、諸兄らも一度は思ったことだろう。
しかし、私はというと、そんな甘っちょろい空想の話では満足しない。
常に現実志向なのだ。
そして、その現実志向の最たる果ての、夢として以下のようなものがあった。
童話「まほうのなべ」に出てきたような、
オートミールを食べてみたい。
これである。
この今すぐにも叶うようなことが、私のこれまでの人生の夢(の大部分)であったのだ。
話せば長くなるが、
私とオートミールとの縁は深く、
あれは小学一年生の夏休みだったかと記憶しているが、
近所にある勝栗神社という私とはたいして馴染みもない神社の…
と、前置きが長くなるのは好きではないので簡潔に書くと、
ひょんなところから見つけた、
「まほうのなべ」という本に載っている『オートミール』なるものを
絶対に食べたい!
今すぐ食べたい!
そう思ったのがきっかけである。
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↑これが問題の本である。
重厚かつポップなデザイン、
そして肝心のオートミール(黄色)があふれ出ている
ダイナミックな描写が諸兄らのオートミール心をくすぐるだろう。
しかし、鹿児島のド田舎に生を受けた私にとって、
オートミールまでの道はあまりにも長く、そして険しいものだった。
その姿を脳の片隅で月に一度は夢想すれども一度たりとも食べたことはなかったのだ。
そして、運命に阻まれた時すらもあった。
それも幾度ともなくである。
成人してホテルに泊まれるようになると、朝食をブッフェ形式で食べることがままある。
その際に、オートミールも陳列されているらしかったが、
今までそれを華麗にスルーしていたのか、気付くことすらなかった。
いや、何者かの力によって気付くことができなかったのだろうとすら思えてくる。
特にタイ国内のホテルにはもう10回以上泊まっているが、
どうしても巡り会えないでいるのだ。
ここまで来ると、
オートミールを食べてしまうと、
運命の歯車が変わり、
私が私ではなくなってしまうのでは?
などと、思うこともしばしばであった。
それほどに
禍々しい因縁
があるのかと身構えたくもなるが、
それでも私は食べたかった。
それでも私は食べたかったのである!
大事なことなので二度言いました。
…おっと、本当はオートミール粥を作ってみただけの話だったのだが、
ブログ作成の制限時間(10分)を越えたので、
この話題はまた明日にしたいと思う。
全国200万人のオートミールファンの皆様のために将来的には
オートミールレシピを考えている。
まだレシピは一つしか実践していないけど…。
ブログの書きすぎ、そして孔子
自己啓発し、自己成長していくためにはアウトプットはとても大事。
しかし、それだけではやはり燃料切れになる。
たまにブログを更新することだけが目的になってしまっていて、
質的に何も変わっていないブログを見たりするとそう思う。
そんな時は書かずに、放っておけばよいのだと思う。
そして、日常生活をマインドフルに生きるのだ。
日常生活に敏感にならないで、
自分の純粋な内面世界だけで何か書こうなんてのははっきり言って難しすぎる。
この食材は旨いとか、
ここのマッサージ屋の対応が気にくわないとか、
そんな風にして言葉とアイデアが自分の内側に熟成されてきたら、
ががっと書けばいいのである。
そういう私もここ数日連続で書いていたら、
今日はあまり書きたい気分がなくなってきたことも告白せねばなるまい。
いや、実際にはハーブヨガの原稿を仕上げるために書きまくっているわけだけど。
・・・そんなわけで、熟成期間に入りたいと思う。
ちなみ、ただ今読んでいる本:
孔子 (岩波文庫)/和辻 哲郎

¥567
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↑はっきり言って素晴らしく面白いのでお勧め!
特に人類の教師の下りは秀逸。
しかし、それだけではやはり燃料切れになる。
たまにブログを更新することだけが目的になってしまっていて、
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そんな時は書かずに、放っておけばよいのだと思う。
そして、日常生活をマインドフルに生きるのだ。
日常生活に敏感にならないで、
自分の純粋な内面世界だけで何か書こうなんてのははっきり言って難しすぎる。
この食材は旨いとか、
ここのマッサージ屋の対応が気にくわないとか、
そんな風にして言葉とアイデアが自分の内側に熟成されてきたら、
ががっと書けばいいのである。
そういう私もここ数日連続で書いていたら、
今日はあまり書きたい気分がなくなってきたことも告白せねばなるまい。
いや、実際にはハーブヨガの原稿を仕上げるために書きまくっているわけだけど。
・・・そんなわけで、熟成期間に入りたいと思う。
ちなみ、ただ今読んでいる本:
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特に人類の教師の下りは秀逸。
ブログについて:アウトプットとインプットの関係
養成講座ではブログをつけて情報発信することを資格認定の一部としている。
それぐらい、
能力があることと、
伝える能力があることは密接に関わっているからだ。
しかし、これを伝えると『難しい!』との声を頂くことがある。
何故かというと、ブログに書くネタがないからだという。
私なんかはくだらない日常的な着想がブログの殆どを湿るため、
ネタは生活しているだけで簡単に拾えると思うのだが、
話をじっくり聞いてみると、
何かためになることを言いたいという思いがその背景にあるようなのだ。
なるほど。
これは習慣の問題だな。
我々は物心ついた時から読書という習慣を通じて、
筆者から何かを教えてもらっている
ことに端を発している。
『全く何の役にも立たない下らない文章』なんていうのが国語教科書に載るはずがない。
そのため、
自分が文章を書くという場面においても
教える
ということが念頭に来てしまったりもする。
よって、ブログを書くにしても
ためになることを書こうとか、
役に立つことを書こうとか、
そんな風になってしまう人が多いのだ。
これは自分自身の読書への思い込み(読書ってためになるべきだ)が邪魔しているからだと思う。
そんな拘りは取っ払うのが上善の策である。
筒井康隆のスプラスティックな小説などは特にそうだけど、
書物というものは別にためになるかなんてどうでもいいことだ。
面白いかどうかも、心地いいかどうかも、この際、読み手に任せればいいのだ。
もはや、書くことは万人に与えられた新たな権利でもある。
反論もあると思うが、
書きたいから、書けばいいのではないだろうか。
はっきり言えば、
書くこととは自分の内側にある歪みを解消するために行っている
と言っても過言ではない。
書くこととは、つまり、自分自身の歪みの表明であり、癒やしと活性化の表明でもある。
ハーブヨガ的に言えば、書くことこそがハーブなのだ。
ゆえに異常行動を犯しがちな作家達が『書く』ことを通じて魂の救済を得ていくのだと思う。
あなたが有名人でもない限り、突飛なことを言っても世間様から叩かれることもないし、
大体、殆どの人は顔を出して発言していないのだから、身元もそこまでばれまい。
それ以前に、誰も自分以外に関心がない!
ブログはストレス解消の一環でいいのではないだろうかとすら思えてくる。
無論、単なる鬱憤晴らしでは品位にかけると思うなら、
その鬱憤の背景にあるものを観察・分析して、まずは出してみれば良い。
(だからといって、ブログで誹謗中傷するのは阿呆のすることだが)
『書けない』という人は、言霊を大事にする気持ちは分かるけれど、
人は適度なインプットとアウトプットのバランスによってしか成長できないことに注意すべき。
内側にいくら思いをため込んだとしても、出す機会がなければ
その思いは別の表現手法を伴って外で出て行くしかないのだ。
(次回予告)
『ブログを書こう!』というと、今度は逆のパターンにはまる人もいる。
垂れ流し状態のようにダラダラとブログを更新する人だ。
これはこれで実を言うと、アウトプットに偏った人の問題点だ。
ともすれば行動的に見えるが、その言説の内側には醸成したものがなく、
『どこかで聞いたことがあるような文章』であるため、
読者に非常に薄っぺらな印象を与えてしまう。
アウトプットすることで安心してしまって、内側に向かうことを苦手とするタイプとも言える。
明日のブログではこの垂れ流し状態について考えたい。
・・・何故考えたいかって言うと、それが、自分の歪みでもあるからだ。
それぐらい、
能力があることと、
伝える能力があることは密接に関わっているからだ。
しかし、これを伝えると『難しい!』との声を頂くことがある。
何故かというと、ブログに書くネタがないからだという。
私なんかはくだらない日常的な着想がブログの殆どを湿るため、
ネタは生活しているだけで簡単に拾えると思うのだが、
話をじっくり聞いてみると、
何かためになることを言いたいという思いがその背景にあるようなのだ。
なるほど。
これは習慣の問題だな。
我々は物心ついた時から読書という習慣を通じて、
筆者から何かを教えてもらっている
ことに端を発している。
『全く何の役にも立たない下らない文章』なんていうのが国語教科書に載るはずがない。
そのため、
自分が文章を書くという場面においても
教える
ということが念頭に来てしまったりもする。
よって、ブログを書くにしても
ためになることを書こうとか、
役に立つことを書こうとか、
そんな風になってしまう人が多いのだ。
これは自分自身の読書への思い込み(読書ってためになるべきだ)が邪魔しているからだと思う。
そんな拘りは取っ払うのが上善の策である。
筒井康隆のスプラスティックな小説などは特にそうだけど、
書物というものは別にためになるかなんてどうでもいいことだ。
面白いかどうかも、心地いいかどうかも、この際、読み手に任せればいいのだ。
もはや、書くことは万人に与えられた新たな権利でもある。
反論もあると思うが、
書きたいから、書けばいいのではないだろうか。
はっきり言えば、
書くこととは自分の内側にある歪みを解消するために行っている
と言っても過言ではない。
書くこととは、つまり、自分自身の歪みの表明であり、癒やしと活性化の表明でもある。
ハーブヨガ的に言えば、書くことこそがハーブなのだ。
ゆえに異常行動を犯しがちな作家達が『書く』ことを通じて魂の救済を得ていくのだと思う。
あなたが有名人でもない限り、突飛なことを言っても世間様から叩かれることもないし、
大体、殆どの人は顔を出して発言していないのだから、身元もそこまでばれまい。
それ以前に、誰も自分以外に関心がない!
ブログはストレス解消の一環でいいのではないだろうかとすら思えてくる。
無論、単なる鬱憤晴らしでは品位にかけると思うなら、
その鬱憤の背景にあるものを観察・分析して、まずは出してみれば良い。
(だからといって、ブログで誹謗中傷するのは阿呆のすることだが)
『書けない』という人は、言霊を大事にする気持ちは分かるけれど、
人は適度なインプットとアウトプットのバランスによってしか成長できないことに注意すべき。
内側にいくら思いをため込んだとしても、出す機会がなければ
その思いは別の表現手法を伴って外で出て行くしかないのだ。
(次回予告)
『ブログを書こう!』というと、今度は逆のパターンにはまる人もいる。
垂れ流し状態のようにダラダラとブログを更新する人だ。
これはこれで実を言うと、アウトプットに偏った人の問題点だ。
ともすれば行動的に見えるが、その言説の内側には醸成したものがなく、
『どこかで聞いたことがあるような文章』であるため、
読者に非常に薄っぺらな印象を与えてしまう。
アウトプットすることで安心してしまって、内側に向かうことを苦手とするタイプとも言える。
明日のブログではこの垂れ流し状態について考えたい。
・・・何故考えたいかって言うと、それが、自分の歪みでもあるからだ。
健康のために人は生きられない
人々の体質改善のお手伝いを職業として行うようになって幾ばくかの年が経った。
その結果としてぼんやりと分かってきたことがあるので、備忘録的に書きたい。
それは、人は健康のために生きられないのではと言うことだ。
健康は人生の手段であって、目的ではないと言うこと。
よく、『肉類は体に悪いと聞くので一切食べません』という人がいる。
確かに、肉類を摂りすぎると血管系にも消化器系にも負担は残る。
でも、果たしてそれいいのだろうかと思う私もいるのだ。
肉を食べるのは一つの文化であり、人間が長い歴史をかけて産み出した『楽しむべきもの』だ。
その楽しむべきものを楽しめないのは人生において勿体ないとすら思えてしまう。
確かに肉食によって我々は汚れる。
少なくとも、健康な体には一時的にダメージがある。
しかし、汚れと全て離れた所に我々人間の生き方があるわけではない。
人間はずっと汚れて暮らしてきた。
タイで生活していると、店先に鶏やアヒルがぶら下がっているので、
『自分はあれを食べるんだな』と否が応でも自覚することになる。
漫画版の風の谷のナウシカのラストで、こんなシーンがあった。
主人公のナウシカが腐海の秘密を突き止め、
自分たちを死に至らしめる腐海の生き物たちと一緒に生きるのか、
それとも、科学技術によって保安された美しい世界を生きるのか、
未来人に選択を迫られるというシーンだ。
この時に『我々は穢れと共に生きる』とナウシカが力強く宣言し、
未来人との決別を行うシーンがあったと思う。
完全に清潔な無菌室のような状況で生きていこうとするのは、
やはり我々を弱くするもの以外の何物でもない。
その意味で食べないものを自分で設定してしまうのは自分を広げるチャンスを逃しているとも言える。
健康ちう近代の美名のために自分を狭める必要はないのではないだろうか。
我々は自分の体の健康を保持するためだけには生きられない。
その背景には「どうやって人生を生きるのか』という文化の問題が必ず関わってくる。
人はその文化のために死ぬのではないだろうか。
勿論、肉を食べないことも文化である。
精進料理のように菜食を文化として受け入れるなら、それも良いと思う。
でも、それは精神の向上のために選ぶべき文化の一つにしか過ぎない。
ネイティブアメリカン等の生活を見ていると、
魂の向上は色々な場面でできると感じている。
精魂込めて作られた食材を感謝の心で食べられるなら、
それが肉であるとか、魚であるとかは、些末な問題でしかない。
植物達も無限の意志を持って、生きていることに変わりはないからだ。
我々は原罪として「食事=他者の生命を奪うこと」を受け止め、
今日も汚泥に咲く蓮の花のように生きていかなければと思うのだ。
ワイド版 風の谷のナウシカ7巻セット「トルメキア戦役バージョン」/宮崎 駿

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その結果としてぼんやりと分かってきたことがあるので、備忘録的に書きたい。
それは、人は健康のために生きられないのではと言うことだ。
健康は人生の手段であって、目的ではないと言うこと。
よく、『肉類は体に悪いと聞くので一切食べません』という人がいる。
確かに、肉類を摂りすぎると血管系にも消化器系にも負担は残る。
でも、果たしてそれいいのだろうかと思う私もいるのだ。
肉を食べるのは一つの文化であり、人間が長い歴史をかけて産み出した『楽しむべきもの』だ。
その楽しむべきものを楽しめないのは人生において勿体ないとすら思えてしまう。
確かに肉食によって我々は汚れる。
少なくとも、健康な体には一時的にダメージがある。
しかし、汚れと全て離れた所に我々人間の生き方があるわけではない。
人間はずっと汚れて暮らしてきた。
タイで生活していると、店先に鶏やアヒルがぶら下がっているので、
『自分はあれを食べるんだな』と否が応でも自覚することになる。
漫画版の風の谷のナウシカのラストで、こんなシーンがあった。
主人公のナウシカが腐海の秘密を突き止め、
自分たちを死に至らしめる腐海の生き物たちと一緒に生きるのか、
それとも、科学技術によって保安された美しい世界を生きるのか、
未来人に選択を迫られるというシーンだ。
この時に『我々は穢れと共に生きる』とナウシカが力強く宣言し、
未来人との決別を行うシーンがあったと思う。
完全に清潔な無菌室のような状況で生きていこうとするのは、
やはり我々を弱くするもの以外の何物でもない。
その意味で食べないものを自分で設定してしまうのは自分を広げるチャンスを逃しているとも言える。
健康ちう近代の美名のために自分を狭める必要はないのではないだろうか。
我々は自分の体の健康を保持するためだけには生きられない。
その背景には「どうやって人生を生きるのか』という文化の問題が必ず関わってくる。
人はその文化のために死ぬのではないだろうか。
勿論、肉を食べないことも文化である。
精進料理のように菜食を文化として受け入れるなら、それも良いと思う。
でも、それは精神の向上のために選ぶべき文化の一つにしか過ぎない。
ネイティブアメリカン等の生活を見ていると、
魂の向上は色々な場面でできると感じている。
精魂込めて作られた食材を感謝の心で食べられるなら、
それが肉であるとか、魚であるとかは、些末な問題でしかない。
植物達も無限の意志を持って、生きていることに変わりはないからだ。
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今日も汚泥に咲く蓮の花のように生きていかなければと思うのだ。
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息子の風邪と生姜湿布、そして病と遊ぶこと
昨夜からのことだけれど、息子が熱を出した。
昨夜も生姜シップの手当をしたけれど、生姜の分量が足りないのかちょっとまだ熱が残っている。
そういうわけで、今朝は夫婦二人して生姜を買いに行った。
雨が降っているが、もろともせずに二人で散歩を楽しむ。
20分ぐらい歩くとトンロー通りという大きめの通りに出る。
ここにはトンローの名物八百屋があって、おしゃべりなおじさん達が朝からお客さんを大量に裁いている。
きっと、兄弟なんだろう。
だって、異様にそっくりなんだもの。
我々はそこで1kgの生姜をたったの35Bで購入。
う~む、ありがたいというか、申し訳なくなるほど安い。
さて、これで朝一番の手当をしよう。
子供の風邪の時に生姜シップをするのは、
我が家ではもう『当たり前』のことになっている。
方法は簡単。
150gぐらいの生姜をすり下ろし、
綿布でエキスを絞り出し、
70度ぐらいに温めたお湯にいれて、
タオルをその生姜液に浸して固く絞って肝臓と腎臓の位置に当てるだけだ。
・・・いや、書き出すと結構面倒くさいな、これ。
詳細は鳥蝶のページにもあります↓
>>生姜シップの詳細はこちら
しかし、この手当法はよく効いてくれる。
勿論、手当法に頼るのでは駄目で、だんだん効かなくなってくる。
大事なのは思いの力・・・、う~む、抽象的だな。
何だろう、子供を大事に思うことなんだろうか、
手当を通じて子供と一緒に過ごせて幸せだと伝えることなんだろうか。
実際には風邪というものは、子供の体を癒やしてくれる一過程にしか過ぎないので、
我々は風邪を追い出すと言うよりも、感謝してとどまって貰っている感じだ。
その証拠に生姜シップをした直後は熱が上がったりして、少しだけ症状が悪化することもある。
それでも、風邪を経過すると、子供は顔色がすっかりよくなって、
夕方ぐらいには元気よく遊び出すことになる。
無論、病院には行くこともない。
子供の健康、家族の健康は皆にとって宝物だ。
誰だって病に陥りたくないと願っている。
しかし、健康というのは病でない状態ではない。
病は健康の一部なんだ。
健康の文字は「すこやか」で「やすらか」であると書く。
つまり、柔軟性があって、拘りのない心と体と言うことだ。
そんな柔らかな心と体を持っている人間は、
決して、自分の心身に起きた病を盲目的に排除しようとはしないはず。
よって、
我々は風邪を引く時は引けば良いし、
他の病になる時はなればよいと考えている。
問題はそれを経過できる柔らかな心と体を確保することだと思う。
私たちは病を毛嫌いするのではなく、一緒に遊んでもらうぐらいの感覚が必要なんだなと感じている。
病と遊び、病に茶を出す、その心で生きていきたい所存である。
>>息子の小児喘息経過記録はこちら
昨夜も生姜シップの手当をしたけれど、生姜の分量が足りないのかちょっとまだ熱が残っている。
そういうわけで、今朝は夫婦二人して生姜を買いに行った。
雨が降っているが、もろともせずに二人で散歩を楽しむ。
20分ぐらい歩くとトンロー通りという大きめの通りに出る。
ここにはトンローの名物八百屋があって、おしゃべりなおじさん達が朝からお客さんを大量に裁いている。
きっと、兄弟なんだろう。
だって、異様にそっくりなんだもの。
我々はそこで1kgの生姜をたったの35Bで購入。
う~む、ありがたいというか、申し訳なくなるほど安い。
さて、これで朝一番の手当をしよう。
子供の風邪の時に生姜シップをするのは、
我が家ではもう『当たり前』のことになっている。
方法は簡単。
150gぐらいの生姜をすり下ろし、
綿布でエキスを絞り出し、
70度ぐらいに温めたお湯にいれて、
タオルをその生姜液に浸して固く絞って肝臓と腎臓の位置に当てるだけだ。
・・・いや、書き出すと結構面倒くさいな、これ。
詳細は鳥蝶のページにもあります↓
>>生姜シップの詳細はこちら
しかし、この手当法はよく効いてくれる。
勿論、手当法に頼るのでは駄目で、だんだん効かなくなってくる。
大事なのは思いの力・・・、う~む、抽象的だな。
何だろう、子供を大事に思うことなんだろうか、
手当を通じて子供と一緒に過ごせて幸せだと伝えることなんだろうか。
実際には風邪というものは、子供の体を癒やしてくれる一過程にしか過ぎないので、
我々は風邪を追い出すと言うよりも、感謝してとどまって貰っている感じだ。
その証拠に生姜シップをした直後は熱が上がったりして、少しだけ症状が悪化することもある。
それでも、風邪を経過すると、子供は顔色がすっかりよくなって、
夕方ぐらいには元気よく遊び出すことになる。
無論、病院には行くこともない。
子供の健康、家族の健康は皆にとって宝物だ。
誰だって病に陥りたくないと願っている。
しかし、健康というのは病でない状態ではない。
病は健康の一部なんだ。
健康の文字は「すこやか」で「やすらか」であると書く。
つまり、柔軟性があって、拘りのない心と体と言うことだ。
そんな柔らかな心と体を持っている人間は、
決して、自分の心身に起きた病を盲目的に排除しようとはしないはず。
よって、
我々は風邪を引く時は引けば良いし、
他の病になる時はなればよいと考えている。
問題はそれを経過できる柔らかな心と体を確保することだと思う。
私たちは病を毛嫌いするのではなく、一緒に遊んでもらうぐらいの感覚が必要なんだなと感じている。
病と遊び、病に茶を出す、その心で生きていきたい所存である。
>>息子の小児喘息経過記録はこちら
ハーブヨガの解説:ヨガと仏教とインド哲学
今日は久々にヨガ哲学の本をざっと読む。
以下の本である:
ヨーガの思想 (講談社選書メチエ)/山下 博司

¥1,680
Amazon.co.jp
↑
研究者の本なので書き味は硬いけれど、かなり面白い。研究論文を書いていた時代を思い出させる本だった。
この本をざっと読んで、面白いこととしては、
ヨガというのはアーリア系のヴェーダ哲学ではないとしている学者もいることだ。
この学者とはポール・マッソン・ウルセルといい、彼はインドには二つの思想的な流れがあるとする。
アーリア人という北方からの侵入者によって形成されたものと、
それ以外の非アーリア人が形成したものだ。
例えば、仏教は後者に属する。
この研究者はアーリア系のヴェーダ哲学は基本的にカースト制度などの階層社会を想定し、
その枠組みから外れる動きとして仏教やヨガを示唆している。
確かにインドは縁故社会であり、カーストの縛りがあまりにも激しいがために
仏教やヨガのようにかなり極端な方策に出なければならなかったのだろう。
だって、その輪廻からの解脱を目指すというのが彼らの最終目標なのだから。
これを突き詰めると、
既存の関係性を重視するのか、
個人の悟りを重視するのか、
の二者択一になるわけであり、
実際に原始仏教も、ヨガも関係性などは二の次で修行をするわけである。
しかし、私は思う。
そりゃ、現代においては極端すぎるだろと。
もはや先進国は世俗の鎖がどうという社会ではなくなっている。
確かに縁故だって色々あるだろうし、不本意なこともあるかも知れない。
しかし、それはインドの階級社会ほど強固ではない。
むしろ、日本人は通常の日常生活をしていても、
関係性から疎外されている人も多いわけで、
ヨガが生まれた社会とは大分異なってしまっている。
その意味で、ヨガの持つ極端な個人(アートマン)志向というのは、現代人の実践においてバランスに欠けていると言わざるを得ないのではないだろうか。
むしろ、関係性と個人の両方のバランスを取る生き方こそが望まれているのであり、
それが世界が自分のハーブになり、自分が世界のハーブになるというコンセプトを掲げたハーブヨガなのだ。
そう、「人間は一人では生きていけない」のだ。
生きている限り、我々は誰かの子供であり、
関係性という如何ともしがたい鎖は絶対につきまとう。
既存のヨガは出家することで、それを断ち切ろうとした。
今も多くの人が、ヨガを行うことで社会から一歩身を引こうとしている。
家族より、社会より、個人を重視する形になっている。
しかし、ハーブヨガのスタンスは違う。
その鎖を断ち切るのではなく、その鎖の中から学びを得て、鎖を花輪に変えることこそがハーブヨガなのだ。
ただ今、ちょっと執筆が遅延中であるが、やっぱり書きたいことはいっぱいあるなと思う次第である。
以下の本である:
ヨーガの思想 (講談社選書メチエ)/山下 博司

¥1,680
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↑
研究者の本なので書き味は硬いけれど、かなり面白い。研究論文を書いていた時代を思い出させる本だった。
この本をざっと読んで、面白いこととしては、
ヨガというのはアーリア系のヴェーダ哲学ではないとしている学者もいることだ。
この学者とはポール・マッソン・ウルセルといい、彼はインドには二つの思想的な流れがあるとする。
アーリア人という北方からの侵入者によって形成されたものと、
それ以外の非アーリア人が形成したものだ。
例えば、仏教は後者に属する。
この研究者はアーリア系のヴェーダ哲学は基本的にカースト制度などの階層社会を想定し、
その枠組みから外れる動きとして仏教やヨガを示唆している。
確かにインドは縁故社会であり、カーストの縛りがあまりにも激しいがために
仏教やヨガのようにかなり極端な方策に出なければならなかったのだろう。
だって、その輪廻からの解脱を目指すというのが彼らの最終目標なのだから。
これを突き詰めると、
既存の関係性を重視するのか、
個人の悟りを重視するのか、
の二者択一になるわけであり、
実際に原始仏教も、ヨガも関係性などは二の次で修行をするわけである。
しかし、私は思う。
そりゃ、現代においては極端すぎるだろと。
もはや先進国は世俗の鎖がどうという社会ではなくなっている。
確かに縁故だって色々あるだろうし、不本意なこともあるかも知れない。
しかし、それはインドの階級社会ほど強固ではない。
むしろ、日本人は通常の日常生活をしていても、
関係性から疎外されている人も多いわけで、
ヨガが生まれた社会とは大分異なってしまっている。
その意味で、ヨガの持つ極端な個人(アートマン)志向というのは、現代人の実践においてバランスに欠けていると言わざるを得ないのではないだろうか。
むしろ、関係性と個人の両方のバランスを取る生き方こそが望まれているのであり、
それが世界が自分のハーブになり、自分が世界のハーブになるというコンセプトを掲げたハーブヨガなのだ。
そう、「人間は一人では生きていけない」のだ。
生きている限り、我々は誰かの子供であり、
関係性という如何ともしがたい鎖は絶対につきまとう。
既存のヨガは出家することで、それを断ち切ろうとした。
今も多くの人が、ヨガを行うことで社会から一歩身を引こうとしている。
家族より、社会より、個人を重視する形になっている。
しかし、ハーブヨガのスタンスは違う。
その鎖を断ち切るのではなく、その鎖の中から学びを得て、鎖を花輪に変えることこそがハーブヨガなのだ。
ただ今、ちょっと執筆が遅延中であるが、やっぱり書きたいことはいっぱいあるなと思う次第である。
備忘録:墨子を読んでいるのだ
鳥蝶のテーマは
「私の人生に恋をする」
である。
九州男児である私がこんなことを言うとは、まさか思ってもみなかったが、
まぁ、人生はそんなものだから面白い。
私もとうとう諦めて、このコンセプトを生きているわけだ。
そして、墨子である。
この本をただ今読んでいるわけだが滅法面白い。
墨子は中国の思想家であり、Wikiったらこう出ていた。
「墨子(ぼくし、生没年不詳、紀元前450~390頃?)は中国戦国時代の思想家。河南魯山の人[1]。あるいはその著書名。墨家の始祖。一切の差別が無い博愛主義(兼愛)を説いて全国を遊説した。いわゆる墨子十大主張を主に説いたことで世に知られている。諱は翟(羽の下に隹)という。」
古代中国の思想家なんて鳥蝶とは全然関係のないことだと思われるかもしれないが、大ありである。
墨子が志したのは、兼愛とそして、それを達成するための強い守り。
墨守と言われるけれど、城を以下に守り、民を守るかを主眼に置いた実践的な内容になっている。
決して、コンセプトだけの理想主義者でもないし、メソッドだけの技術者でもない。
全ては一つの兼愛というコンセプトのために編み出された方便であり、
それがあるからこそ、2千年以上たっても人を惹きつけるのだろう。
このコンセプトと方法論の一本化こそ、我々も目指しているモノであり、
現在ではそれを、お金・性愛といったタブーと言われる領域にすら広げつつある。
こういったことを講師養成講座では、実践的に扱っていきたい。
鳥蝶の養成講座の詳細はこちら:
http://chochogreen.com/business_group/yoga/herb_yoga/herb_yoga_tpp01.html
↓の本はバンコクの古本屋で20B=60円で購入・・・。
高田先生の解説が素晴らしい。
全くこんな素晴らしい本を売る人がいるとはと思いながらも、即買いでした。
売った人、ありがとう!
墨子 (中国古典新書)/高田 淳

¥2,447
Amazon.co.jp
「私の人生に恋をする」
である。
九州男児である私がこんなことを言うとは、まさか思ってもみなかったが、
まぁ、人生はそんなものだから面白い。
私もとうとう諦めて、このコンセプトを生きているわけだ。
そして、墨子である。
この本をただ今読んでいるわけだが滅法面白い。
墨子は中国の思想家であり、Wikiったらこう出ていた。
「墨子(ぼくし、生没年不詳、紀元前450~390頃?)は中国戦国時代の思想家。河南魯山の人[1]。あるいはその著書名。墨家の始祖。一切の差別が無い博愛主義(兼愛)を説いて全国を遊説した。いわゆる墨子十大主張を主に説いたことで世に知られている。諱は翟(羽の下に隹)という。」
古代中国の思想家なんて鳥蝶とは全然関係のないことだと思われるかもしれないが、大ありである。
墨子が志したのは、兼愛とそして、それを達成するための強い守り。
墨守と言われるけれど、城を以下に守り、民を守るかを主眼に置いた実践的な内容になっている。
決して、コンセプトだけの理想主義者でもないし、メソッドだけの技術者でもない。
全ては一つの兼愛というコンセプトのために編み出された方便であり、
それがあるからこそ、2千年以上たっても人を惹きつけるのだろう。
このコンセプトと方法論の一本化こそ、我々も目指しているモノであり、
現在ではそれを、お金・性愛といったタブーと言われる領域にすら広げつつある。
こういったことを講師養成講座では、実践的に扱っていきたい。
鳥蝶の養成講座の詳細はこちら:
http://chochogreen.com/business_group/yoga/herb_yoga/herb_yoga_tpp01.html
↓の本はバンコクの古本屋で20B=60円で購入・・・。
高田先生の解説が素晴らしい。
全くこんな素晴らしい本を売る人がいるとはと思いながらも、即買いでした。
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