(抜粋)
実際経済破綻をものともせず国力を狂気のように兵器生産のための重工業部門に注ぎ込むことで、結果的に日本には「まともな」経済論理のもとでは生じ得なかったほどの技術的蓄積がなされ、その大部分が生き残って、戦後に重工業が欧米との競争に落ちこぼれず伍していく橋頭堡となったのである。

そしてそれは、70年代前後になってようやく一つのゴールを迎える。特にこの時期、大気汚染だの石油ショックだのが社会問題になる中で、燃費の良さが売り物の日本車が米国市場を席巻したことは、振り返ってみると何とも画期的な出来事だった。

つまりそれは、アジアの産業がついに最先端の重工業製品を欧米に恒常的に輸出することができるまでになったという点で日本、というより世界史的観点からするアジアの経済史全体から見ても、一種の大きな一里塚だったのである。

幕末・明治期に、生糸の輸出をか細い生命線とせざるを得なかった当時の指導者たちがもしこれを見ていたならば、その感慨はいかばかりであったろうか。

日本側は、工業生産において最強の競争力を身に着け、海外からは恐るべき巨人と見られていたにもかかわらず、長い間しみついた自らを小人とみなす習慣が抜けず、事あるごとに保護主義にこだわり続けた。

一方米国側は、この時期競争力はナンバーワンから滑り落ちて、自由貿易の受益者ではなくなっていたにもかかわらず、自由貿易は彼らにとってすでに信仰となってしまったため、「数値目標」の名のもとに日本の貿易黒字をコントロールしようという、客観的に見れば明らかに保護主義的な主張をこれこそ自由貿易なのだと強弁し、それはヨーロッパ諸国からさえ疑問の声が出る有様だった。

欧米とアジアの関係という点から見れば、これは10世紀から見れば全く立場が逆転したことになり、およそ当時からは想像できないような状況となったわけである。

(コメント)
日本は開国が迫られてから100年かけてヨーロッパ・アメリカより高い競争力を持つにいたってしまった。
すごいことだとおもう。
ただ、日本って世界全体をいまいち客観視できていないような感じがする。
必要以上に謙虚というか、、日本の株式相場もそうなのだけど海外の出来事にもの凄く反応し過ぎて、本質を見誤っているのではないかと疑いたくなるようなことがあるんだよなぁ。
日本の強いイメージとなる情報を映画で発信していそうなのが北野武なのだろうと個人的には思っている。
(抜粋)
米国よりもかなり厳しい状況を生き延びた例として、近代日本の場合を見てみよう。
近代日本は前述のように、それまでの鎖国状態から一挙にこうした貿易戦争のまっただ中へ放り込まれることになった。そして言うまでもなくその貿易とは呑気な中継貿易であり得るはずもなく、何か国内に売り物となる産業を早急に見つけてそれを保護育成しなければならない。

幸い当時は国内に輸出品候補として生糸という有望株が存在しており、その点では問題なかったが、それよりも厄介なのは開国を迫られた当時、狼狽した幕府がよく事情を知らないまま結んでしまった不平等条約であった。貿易という面では、この条約は次のような不平等を抱えていた。すなわち列強は自国産業を保護するために自由に高い関税をかけることができるが、日本側は低い関税しかかけてはならないというものであり、これはいわば貿易戦争において一方は高い城壁を築いても良いがもう一方は低い城壁以外築いてはならないという、実にとんでもない条約だったのである。

そのため明治政府にとっては、この不平等条約改正は大きな国家的課題であり、ようやく30年ほどかかってそれを達成することに成功する。しかしこうしたことは当時の状況では所詮軍事力をバックとする発言力増大によってしかなし得ることではなかったのであり、言葉を換えて言えば日本の軍事力がようやくその程度のレベルに達したということになるだろうか。

また国内産業の育成というもう一方の問題については、先ほど述べたように政府は生糸の増産に国家の命運をかける。有名な富岡製糸工場をはじめとする官営の殖産興業などがそれだが、安い労働力に助けられた日本の生糸は、ヨーロッパや米国に輸出されてそれなりの価格競争力を維持し、日本の最重要輸出品目となって国家経済を支えた。

そして第一次大戦前ごろにはその生産も拡大してついに日本は世界最大の生糸輸出国となり、もし日本のとっての生糸輸出を大げさに言うなら、さしずめそれは20世紀の「絹の道」であって、日本の国家経済の生命線を形成していたわけである。そしてこの頃になると、当面の経済的生存という目標をひとまず達成した日本は次のステップを目指す。つまり一口に繊維産業と言っても、日本が輸出している生糸というものはあくまでも素材に過ぎず、それを欧米で最終的に製品としての衣料品に仕上げるという
のが当時の構図だった。

そのため日本としても、やはりその最終的な製品そのものを輸出する段階まで駒を進めることが望ましいのは当然で、たとえ最先端の重工業製品の輸出などはまだ夢のまた夢としても、せめて軽工業ではそのレベルには達していたかったわけである。

しかし欧米先進国相手では、いくら労働力が安いからといってもさすがにそれは無理であり、自分よりも工業化の遅れたところにしか売り込み先はなかった。それゆえ市場は中国をはじめとするアジア方面へと求めざるを得ず、生糸にかわって輸出品の主力となった綿織物製品を盛んにそこへ売り込んだ。これは国家の生存にとってやむを得ない選択ではあったが、それはやはりかつての列強が行ったのと同じ強引な帝国主義的手法の形をとらざるを得ず、それは後の破局の種となってしまったわけである。

(コメント)
明治開国当初は自由貿易でしかも不平等条約も結ばされとんでもない状態だったようだ。
軍事力が不平等条約を解決する大きな要素だったようである。
生糸がヨーロッパ列強との競争で唯一価格競争力を維持できたもののようだが、生糸を使った製品だと問題もあったようだ。
軽工業・重工業がその先にあるわけだが、まだそこはヨーロッパと競争にならず、帝国主義(軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略)の手法で工業化に遅れた国に無理やり売ったという歴史があるようである。
米国などは現在でこそ自由貿易の使徒であるが、実は皮肉なことに近代的な保護主義の理論が最初に確立されたのは米国においてであった。建国間もない米国では、若い財務長官のハミルトン( 彼は独立戦争時代ワシントンの副官だった人物で、「かつて米国に存在した最大の政治的頭脳」と評されることもある) は経済政策として「幼稚産業保護」のプランを打ち出し、政敵のジェファーソンなどの、合衆国は国土も広いのだから農業国として生きていけばよいではないかという意見を排して、断固として工業力の育成に乗り出したのである。

実際この時期の国家にとっては、英国経済という巨大な樹の陰でどうやって生きていくかということが、不可欠な課題として要求されていた。そのため貧乏国に転落せずに生き残った国( むろん英国だけは除外されるが) は、いずれもこうした保護主義をとった経験を一度はもっている。

米国にとって貿易論議が最も切実になった時をさがすとすれば、それは恐らく南北戦争の時であろう。一般にはこれは正義感に燃える北部が南部の奴隷解放のために戦った戦争だということにされているが、無論これは正義を自分の方に引き寄せるために後からくっつけた理由に過ぎない。

まず北部の立場からすれば、工業を経済基盤とする彼らにとっては、とにかくその幼稚な工業を英国の圧倒的な競争力のもとでどうやって自立させていくかが切実な問題だった。そのため保護主義の導入は不可欠な課題だというのに、何とも苛立たしいことに南部の連中にはこれが理解できないのである。

南部人の立場からすれば、要するに南部の経済は広大な土地で綿花という原料を栽培して出荷するだけの純然たる農業経済であり、それを世界中どこからでも自由に買ってくれればそれでよい。そしてその綿花は大量の奴隷を使って安く量産しているため、世界的に見てその競争力は圧倒的に高いし、他に保護すべき産業も自分のところにはない。つまり南部は北部人が切実に願う保護主義の必要性などさっぱり理解できず、むしろもともと自由貿易を指向するのが当然だったのである。

実際彼ら南部人にとっては、当時英国が世界中に張り巡らせていた便利な自由貿易体制の中で生き、英国と米北部の繊維産業のいずれにも綿花原料を自由に供給できるという姿が一番自然である。逆に米国が下手に保護主義を主張して英国の自由貿易体制を拒否したりすると、下手をすれば綿花の英国への自由な輸出が阻害されるかもしれない。そういった意味では、当時の南部はむしろ米国よりも英国の経済圏の一部だったとすら言えるのである。

ところが米国が一つの国である限り、貿易体制をいずれか一方に決めねばならず、これはどうにも妥協のできないものとなってしまった。それならばいっそ二つに分かれてしまえばよいではないかというわけで、南部が分離独立の方向に向かい始めたのだが、北部がそれを一顧だにせず、結局北部の工業文明と南部の農業文明の激突に発展し、北部が圧倒的な国力差をもってその試みを粉砕したというのが、南北戦争の本質である。

そしてこの戦争の後、政治的発言力を完全に喪失した南部を原料供給基地として北部体制の中に組み入れることで、北部の経済発展はほとんど天井知らずの活況を呈し、戦後わずか30年ほどで英国を脅かすほどの巨人に成長したのである。

(コメント)
アメリカは最初はやっぱ保護主義の思想だったのだなぁ。
保護主義か自由主義かでけんかになったのが南北戦争。
扱う商品でそのどちらの主義を採るかの差が出てくる。
2つの国に分かれるという手段を採らなかったのはどちらもその国に必要だったからなのだろうか。