米国などは現在でこそ自由貿易の使徒であるが、実は皮肉なことに近代的な保護主義の理論が最初に確立されたのは米国においてであった。建国間もない米国では、若い財務長官のハミルトン( 彼は独立戦争時代ワシントンの副官だった人物で、「かつて米国に存在した最大の政治的頭脳」と評されることもある) は経済政策として「幼稚産業保護」のプランを打ち出し、政敵のジェファーソンなどの、合衆国は国土も広いのだから農業国として生きていけばよいではないかという意見を排して、断固として工業力の育成に乗り出したのである。

実際この時期の国家にとっては、英国経済という巨大な樹の陰でどうやって生きていくかということが、不可欠な課題として要求されていた。そのため貧乏国に転落せずに生き残った国( むろん英国だけは除外されるが) は、いずれもこうした保護主義をとった経験を一度はもっている。

米国にとって貿易論議が最も切実になった時をさがすとすれば、それは恐らく南北戦争の時であろう。一般にはこれは正義感に燃える北部が南部の奴隷解放のために戦った戦争だということにされているが、無論これは正義を自分の方に引き寄せるために後からくっつけた理由に過ぎない。

まず北部の立場からすれば、工業を経済基盤とする彼らにとっては、とにかくその幼稚な工業を英国の圧倒的な競争力のもとでどうやって自立させていくかが切実な問題だった。そのため保護主義の導入は不可欠な課題だというのに、何とも苛立たしいことに南部の連中にはこれが理解できないのである。

南部人の立場からすれば、要するに南部の経済は広大な土地で綿花という原料を栽培して出荷するだけの純然たる農業経済であり、それを世界中どこからでも自由に買ってくれればそれでよい。そしてその綿花は大量の奴隷を使って安く量産しているため、世界的に見てその競争力は圧倒的に高いし、他に保護すべき産業も自分のところにはない。つまり南部は北部人が切実に願う保護主義の必要性などさっぱり理解できず、むしろもともと自由貿易を指向するのが当然だったのである。

実際彼ら南部人にとっては、当時英国が世界中に張り巡らせていた便利な自由貿易体制の中で生き、英国と米北部の繊維産業のいずれにも綿花原料を自由に供給できるという姿が一番自然である。逆に米国が下手に保護主義を主張して英国の自由貿易体制を拒否したりすると、下手をすれば綿花の英国への自由な輸出が阻害されるかもしれない。そういった意味では、当時の南部はむしろ米国よりも英国の経済圏の一部だったとすら言えるのである。

ところが米国が一つの国である限り、貿易体制をいずれか一方に決めねばならず、これはどうにも妥協のできないものとなってしまった。それならばいっそ二つに分かれてしまえばよいではないかというわけで、南部が分離独立の方向に向かい始めたのだが、北部がそれを一顧だにせず、結局北部の工業文明と南部の農業文明の激突に発展し、北部が圧倒的な国力差をもってその試みを粉砕したというのが、南北戦争の本質である。

そしてこの戦争の後、政治的発言力を完全に喪失した南部を原料供給基地として北部体制の中に組み入れることで、北部の経済発展はほとんど天井知らずの活況を呈し、戦後わずか30年ほどで英国を脅かすほどの巨人に成長したのである。

(コメント)
アメリカは最初はやっぱ保護主義の思想だったのだなぁ。
保護主義か自由主義かでけんかになったのが南北戦争。
扱う商品でそのどちらの主義を採るかの差が出てくる。
2つの国に分かれるという手段を採らなかったのはどちらもその国に必要だったからなのだろうか。