(抜粋)
米国よりもかなり厳しい状況を生き延びた例として、近代日本の場合を見てみよう。
近代日本は前述のように、それまでの鎖国状態から一挙にこうした貿易戦争のまっただ中へ放り込まれることになった。そして言うまでもなくその貿易とは呑気な中継貿易であり得るはずもなく、何か国内に売り物となる産業を早急に見つけてそれを保護育成しなければならない。
幸い当時は国内に輸出品候補として生糸という有望株が存在しており、その点では問題なかったが、それよりも厄介なのは開国を迫られた当時、狼狽した幕府がよく事情を知らないまま結んでしまった不平等条約であった。貿易という面では、この条約は次のような不平等を抱えていた。すなわち列強は自国産業を保護するために自由に高い関税をかけることができるが、日本側は低い関税しかかけてはならないというものであり、これはいわば貿易戦争において一方は高い城壁を築いても良いがもう一方は低い城壁以外築いてはならないという、実にとんでもない条約だったのである。
そのため明治政府にとっては、この不平等条約改正は大きな国家的課題であり、ようやく30年ほどかかってそれを達成することに成功する。しかしこうしたことは当時の状況では所詮軍事力をバックとする発言力増大によってしかなし得ることではなかったのであり、言葉を換えて言えば日本の軍事力がようやくその程度のレベルに達したということになるだろうか。
また国内産業の育成というもう一方の問題については、先ほど述べたように政府は生糸の増産に国家の命運をかける。有名な富岡製糸工場をはじめとする官営の殖産興業などがそれだが、安い労働力に助けられた日本の生糸は、ヨーロッパや米国に輸出されてそれなりの価格競争力を維持し、日本の最重要輸出品目となって国家経済を支えた。
そして第一次大戦前ごろにはその生産も拡大してついに日本は世界最大の生糸輸出国となり、もし日本のとっての生糸輸出を大げさに言うなら、さしずめそれは20世紀の「絹の道」であって、日本の国家経済の生命線を形成していたわけである。そしてこの頃になると、当面の経済的生存という目標をひとまず達成した日本は次のステップを目指す。つまり一口に繊維産業と言っても、日本が輸出している生糸というものはあくまでも素材に過ぎず、それを欧米で最終的に製品としての衣料品に仕上げるという
のが当時の構図だった。
そのため日本としても、やはりその最終的な製品そのものを輸出する段階まで駒を進めることが望ましいのは当然で、たとえ最先端の重工業製品の輸出などはまだ夢のまた夢としても、せめて軽工業ではそのレベルには達していたかったわけである。
しかし欧米先進国相手では、いくら労働力が安いからといってもさすがにそれは無理であり、自分よりも工業化の遅れたところにしか売り込み先はなかった。それゆえ市場は中国をはじめとするアジア方面へと求めざるを得ず、生糸にかわって輸出品の主力となった綿織物製品を盛んにそこへ売り込んだ。これは国家の生存にとってやむを得ない選択ではあったが、それはやはりかつての列強が行ったのと同じ強引な帝国主義的手法の形をとらざるを得ず、それは後の破局の種となってしまったわけである。
(コメント)
明治開国当初は自由貿易でしかも不平等条約も結ばされとんでもない状態だったようだ。
軍事力が不平等条約を解決する大きな要素だったようである。
生糸がヨーロッパ列強との競争で唯一価格競争力を維持できたもののようだが、生糸を使った製品だと問題もあったようだ。
軽工業・重工業がその先にあるわけだが、まだそこはヨーロッパと競争にならず、帝国主義(軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略)の手法で工業化に遅れた国に無理やり売ったという歴史があるようである。
米国よりもかなり厳しい状況を生き延びた例として、近代日本の場合を見てみよう。
近代日本は前述のように、それまでの鎖国状態から一挙にこうした貿易戦争のまっただ中へ放り込まれることになった。そして言うまでもなくその貿易とは呑気な中継貿易であり得るはずもなく、何か国内に売り物となる産業を早急に見つけてそれを保護育成しなければならない。
幸い当時は国内に輸出品候補として生糸という有望株が存在しており、その点では問題なかったが、それよりも厄介なのは開国を迫られた当時、狼狽した幕府がよく事情を知らないまま結んでしまった不平等条約であった。貿易という面では、この条約は次のような不平等を抱えていた。すなわち列強は自国産業を保護するために自由に高い関税をかけることができるが、日本側は低い関税しかかけてはならないというものであり、これはいわば貿易戦争において一方は高い城壁を築いても良いがもう一方は低い城壁以外築いてはならないという、実にとんでもない条約だったのである。
そのため明治政府にとっては、この不平等条約改正は大きな国家的課題であり、ようやく30年ほどかかってそれを達成することに成功する。しかしこうしたことは当時の状況では所詮軍事力をバックとする発言力増大によってしかなし得ることではなかったのであり、言葉を換えて言えば日本の軍事力がようやくその程度のレベルに達したということになるだろうか。
また国内産業の育成というもう一方の問題については、先ほど述べたように政府は生糸の増産に国家の命運をかける。有名な富岡製糸工場をはじめとする官営の殖産興業などがそれだが、安い労働力に助けられた日本の生糸は、ヨーロッパや米国に輸出されてそれなりの価格競争力を維持し、日本の最重要輸出品目となって国家経済を支えた。
そして第一次大戦前ごろにはその生産も拡大してついに日本は世界最大の生糸輸出国となり、もし日本のとっての生糸輸出を大げさに言うなら、さしずめそれは20世紀の「絹の道」であって、日本の国家経済の生命線を形成していたわけである。そしてこの頃になると、当面の経済的生存という目標をひとまず達成した日本は次のステップを目指す。つまり一口に繊維産業と言っても、日本が輸出している生糸というものはあくまでも素材に過ぎず、それを欧米で最終的に製品としての衣料品に仕上げるという
のが当時の構図だった。
そのため日本としても、やはりその最終的な製品そのものを輸出する段階まで駒を進めることが望ましいのは当然で、たとえ最先端の重工業製品の輸出などはまだ夢のまた夢としても、せめて軽工業ではそのレベルには達していたかったわけである。
しかし欧米先進国相手では、いくら労働力が安いからといってもさすがにそれは無理であり、自分よりも工業化の遅れたところにしか売り込み先はなかった。それゆえ市場は中国をはじめとするアジア方面へと求めざるを得ず、生糸にかわって輸出品の主力となった綿織物製品を盛んにそこへ売り込んだ。これは国家の生存にとってやむを得ない選択ではあったが、それはやはりかつての列強が行ったのと同じ強引な帝国主義的手法の形をとらざるを得ず、それは後の破局の種となってしまったわけである。
(コメント)
明治開国当初は自由貿易でしかも不平等条約も結ばされとんでもない状態だったようだ。
軍事力が不平等条約を解決する大きな要素だったようである。
生糸がヨーロッパ列強との競争で唯一価格競争力を維持できたもののようだが、生糸を使った製品だと問題もあったようだ。
軽工業・重工業がその先にあるわけだが、まだそこはヨーロッパと競争にならず、帝国主義(軍事力を背景に他の民族や国家を積極的に侵略)の手法で工業化に遅れた国に無理やり売ったという歴史があるようである。