(抜粋)
貯蓄行為そのものがまるで豊かな社会の成人病か何かのように有効需要の足を引っ張っていることになり、それゆえ豊かになった社会はこの貯蓄という贅肉を何とか燃焼させねばならない宿命を負うことになるわけである。
「設備投資」への資金に回り、企業が機械などを買い込んで有効需要の補完を行うことで、何とか貨幣の定常的な循環が維持されているということだった。ところが問題は、その重要な鍵を握っているはずの設備投資というものが、不況のもとでは消費活動に輪をかけて、急速かつ極度に縮こまりやすい体質をもっていることである。
ただでさえそれは経済社会の勢いというものに強く影響されて、ちょっとでも不況の気配が感じられるとたちまち企業は設備投資計画をキャンセルしてしまうし、また常識的に考えても、何しろこれは生産設備の更新ということである以上、飽和しやすいものであることは想像がつく。
そこで何らかの理由でこの設備投資が急激に縮小して固まってしまった時には、政府がそれにかわって公共投資という形で外から強制的に資金を注いで回復させねばならないというのが、ケインズ経済学の主張である。
実際現在でも、ちょっと不況の気配が漂ってくると「財政出動」という言葉が語られ、公共事業を行うかどうかが議論されるが、それはまさしくこのことを意味している。
注) もっとも現実に大恐慌そのものに対してこのケインズの処方箋がどの程度役に立っていたのかとうことになると、それはいささか心許ない。米国の大恐慌の場合、ルーズヴェルト大統領の行なったTV A などの公共事業は、ケインズ経済学などとは無関係に行なわれており、実質的にはあまり効果はなかった。むしろ大恐慌を最終的に解決した真の主役は、結局は第二次大戦だったのである。つまり政府が特大のバケツで軍需産業に予算を注ぎ込んだことは事実上巨額の公共投資に等しく、結局はこれが大恐慌を吹き飛ばしてしまったからである。なおこれに関しては、次の章でも再度述べることにする。
(コメント)
貨幣の循環をどう維持するかが問題。
社会に貯蓄という概念がない場合は各人が消費すればそもそも問題なし。
貯蓄があるときはそのための大きな仕組みというのが「設備投資」なのだが、消費に輪をかけてキャンセルされる傾向がある。
今度はそれに対してどうするかというのが政府の財政出動。
これが効力を発揮しなくなると戦争なのか?
貯蓄行為そのものがまるで豊かな社会の成人病か何かのように有効需要の足を引っ張っていることになり、それゆえ豊かになった社会はこの貯蓄という贅肉を何とか燃焼させねばならない宿命を負うことになるわけである。
「設備投資」への資金に回り、企業が機械などを買い込んで有効需要の補完を行うことで、何とか貨幣の定常的な循環が維持されているということだった。ところが問題は、その重要な鍵を握っているはずの設備投資というものが、不況のもとでは消費活動に輪をかけて、急速かつ極度に縮こまりやすい体質をもっていることである。
ただでさえそれは経済社会の勢いというものに強く影響されて、ちょっとでも不況の気配が感じられるとたちまち企業は設備投資計画をキャンセルしてしまうし、また常識的に考えても、何しろこれは生産設備の更新ということである以上、飽和しやすいものであることは想像がつく。
そこで何らかの理由でこの設備投資が急激に縮小して固まってしまった時には、政府がそれにかわって公共投資という形で外から強制的に資金を注いで回復させねばならないというのが、ケインズ経済学の主張である。
実際現在でも、ちょっと不況の気配が漂ってくると「財政出動」という言葉が語られ、公共事業を行うかどうかが議論されるが、それはまさしくこのことを意味している。
注) もっとも現実に大恐慌そのものに対してこのケインズの処方箋がどの程度役に立っていたのかとうことになると、それはいささか心許ない。米国の大恐慌の場合、ルーズヴェルト大統領の行なったTV A などの公共事業は、ケインズ経済学などとは無関係に行なわれており、実質的にはあまり効果はなかった。むしろ大恐慌を最終的に解決した真の主役は、結局は第二次大戦だったのである。つまり政府が特大のバケツで軍需産業に予算を注ぎ込んだことは事実上巨額の公共投資に等しく、結局はこれが大恐慌を吹き飛ばしてしまったからである。なおこれに関しては、次の章でも再度述べることにする。
(コメント)
貨幣の循環をどう維持するかが問題。
社会に貯蓄という概念がない場合は各人が消費すればそもそも問題なし。
貯蓄があるときはそのための大きな仕組みというのが「設備投資」なのだが、消費に輪をかけてキャンセルされる傾向がある。
今度はそれに対してどうするかというのが政府の財政出動。
これが効力を発揮しなくなると戦争なのか?