(抜粋)
恒常化してしまうとどうだろうか。急性病の時にはやむを得ないとしても、問題は経済がどんな状態にあろうと、乗数理論がまるで覚醒剤でも服用するようにして、必ずある程度の効果を保証してしまうことにある。

そして6 0 年代の米国の場合、公民権運動をはじめとする「弱者救済ブーム」にこれが重なってしまったことが大問題だった。つまり政治家たちは極端な話、町に失業者が1 人いても、その救済のために税金を使って公共事業を興し、「完全雇用」を公約するようになってしまったのである。

こんなことは恐らくケインズは予想もしていなかったろうが、ともかくある点を過ぎてしまえば大して効果が上がらない割には税金ばかりが高くなる非効率な状態に陥ることは常識的に見て当たり前のことであろう。

そしてケインズ政策が本来もつ、インフレの温床という欠陥によってそれが発火点寸前に達していたところに、7 3年に中東で火を吹いたオイルショックの原油価格高騰が引き金となって一挙にこれに引火し、7 0 年代の米国経済は慢性病のようなインフレに見舞われることになったのである。

そこで「弱者救済ブーム」を苦々しく眺めていた米経済界の本流の人々は、何らかの形で反撃の必要を感じていた。その一番手は米国の自由放任主義学派の中でも最右派と見られている、ミルトン・フリードマン率いる「マネタリスト」たちであり、彼らは過度の失業救済を諌める「自然失業率仮説」という話を出してきた。

(コメント)
だいたい物事を自分のいいように解釈するだけで、しっかりとした理解の下話せる人なんていないものである。
YesかNoかで答えが出て簡単に行動が移せるような物事でないので、ケインズ経済のハンドリングは大衆がやるべきものではななかったのかもしれない。
富の攻防が実施されてその思想対決としてケインズとアダムスミスが出てきているようだ。それぞれ生まれてきた背景や用途も違うのだろうが学会か何かで出てくるそういったキーワードを用いて本質とかけ離れた攻防に使われているようである。困ったものだ。
(抜粋)
経済が何らかの理由で縮小均衡に陥ってしまって自力でそこから脱出できない時には、政府が公共投資という名のバケツで経済社会に金を注ぎ込んでやれば、乗数効果によって拡大が可能だということだった。

ケインズ政策の場合の泣き所がどこに出てくるかと言えば、それはこの政策がとかく財政赤字とインフレの温床になりやすいことである。

公共事業の財源をどうするかというのが問題である。労働者・消費者の消費意欲を高めようとして、消費にふんだんに使えるよう政府の予算を割いて賃金をどっと大きく持ち帰らせても、その財源確保のために年末に税金がどっと高くなるというのでは、とてもではないが消費を楽しむどころではない。

つまりまず消費者たる一般大衆への大幅増税は論外ということになる。それならもっぱら貯蓄の多い富裕層に対して増税を行えばよいではないかというかもしれないが、実はそれも得策ではない。実際こういう経済全体が縮小状態に陥っている時には、意外に彼らが珍しい高価な新製品に飛びついて、新たな産業や市場が育つきっかけを作り、企業側の設備投資の導火線となることが稀ではないからである。

結局この場合、政府は増税なしでその種の財源を確保しなければ、ほとんど効果はないことになる。
税金に頼らずに支出だけは増やすとなれば、それは国債( 赤字国債) 発行という手段に頼るほかなく、早い話が国の借金である。

そしてこのような状態はいわゆる「赤字財政」であり、均衡財政よりも不健全な状態にあることは言うまでもない。

結局のところ、ケインズ・プログラムによる経済拡大効果を現実のものにしようとすれば、少なくとも一時的にせよ財政赤字というものに目をつぶるほかどうしようもないことになる。そして国債発行というものは、紙幣増刷ほど悪質ではないにせよ、広い意味からすれば一種の通貨膨張であり、ちょっと油断すればたちまちインフレを招いてしまうのである。

(コメント)
大きな政府でなく小さな政府への移行はケインズ経済を適用しないということでありその流れはもう変わらないだろう。消費税のアップで財政を補填するとははなにを物語っているかというと方向性は明白である。
(抜粋)
カトリックの教会権力はもともと社会全体が商業的に繁栄することを退廃の温床として危険視し、清貧な農業経済をよしとしていたため、豊かな消費経済活動などというものは痩せ細ってくれるならむしろ幸いであるという事情があったからである。

清貧だが豊かな信仰生活を提供できるというのが、彼らのプログラムだったと言えるだろう。

ではカトリックのこのような方針に対して、中世社会のもう一方であるイスラム経済はどうだったかというと、ここはここでまた独特のアプローチをとっていた。以前にも述べたが、原則として金利を禁じていたこの文明は、民衆の間に発生していた余剰資金が無闇に貯蓄に回らないよう、「喜捨」という形でそれに撤退路を与えていた。ところがそれは、ケインズ的観点から見ても極めて興味深い機能を、結果的に果たしていたのである。

先ほども述べたように、一般にぎりぎりの生活をしている低所得者層は収入を貯蓄に回す余裕がなく、それらを右から左に生活必需品の消費に使わねばならない。つまり所得の大半が消費に回っており、経済学の用語で言えば「消費性向が高い」ことになる。一方逆に、使いきれないほどの金を稼いでいる高所得者層は、必要なものを買ってしまった残りの金はとりあえず貯金するため、一般に所得が消費に回りずらく「消費性向が低い」。つまり全般的にはこういうことが言える。つまり社会全体の富の「重心」が高所得者層の中にあった場合、多くの富が貯蓄に回りやすく、経済全体で消費性向が低くなりがちだということである。そして「貯蓄が有効需要を細らせる」という原則に従えば、これは次回のサイクルで有効需要の不足となって現われることを意味する。

逆に、富の重心が低所得者層にあって、それが民衆全体に比較的高い平均額で分配されていた場合、彼らにとっては買いたい必需品はまだまだたくさんあるため、社会は全体として消費性向が高くなり、こちらの方が有効需要が大きいことは一目でわかる。そしてイスラム経済の場合、この「喜捨」という行為が、実は社会の富の重心を消費性向の低い層から高い層へシフトさせ、有効需要を安定したレベルに維持するという、意外な役割を果たしていたのである。

本質的に商業社会であるイスラム文明は、中世において世界で最も経済的に豊かな経済圏地域であり、また文明そのものが多分にその豊かさを前提に成り立っていた。それゆえ本来なら富が貯蓄という形に凝固して有効需要の減少を招くという病気に悩まされ、バクダッドやカイロにいる経済官僚がその解決に必死にならねばならないはずだった。

ところがこの意外なメカニズムのため、少なくとも彼らは有効需要の不足という問題にさほど悩まされることなく、中世の基準からすれば「成熟した」経済社会をかなり長期間にわたって安定的に維持することができた。極端に誇張して言えば、イスラム経済のメカニズムはケインズのプログラムを最初から必要としていなかったのである。

大体において近代以前の社会は、カトリックやイスラムに限らず全般的に貯蓄行為を危険視していた場合が多い。例えば古代や中世の多くの君主国では、とかく首都や宮廷に国中の金が集まってきやすいのだが、そのため首都や宮廷などではいかに贅沢をして金を吐き出すかに懸命になっていたかに見える例すら見受けられる。

例えばその種の宮廷の多くは、簡単な仕事に対して必要もないのに大量の召使を雇っているのが普通であり、これは一般には行政改革の失敗の結果と見られているが、しかしこの観点からする限り、むしろこれは富の低所得層への再分配という意味があったのではないかとさえ考えられなくもない。宮廷にとっては贅沢は一種の義務なのである。ともかくこの、富の重心を高所得層から低所得層に移転するという問題は、有効需要確保という問題に取り組む者にとっては避けることができず、それはケインズ経済学もまた例外ではない。

ケインズ自身には、貧民救済に燃えるキリスト教的博愛精神といったものはあまり見当らないが、それでも純粋に経済システムの問題を突き詰めていくと、必然的に外見上は一種の福祉国家に似た、富裕層から貧困層への富の強制移転の仕掛け( 直接的にか間接的にかは別として)を作っていかざるを得なかったのである。それは必然的に政府そのものの性格を、国民から大量の税金を徴収してそれを公共投
資・福祉に大量に再分配する、いわゆる「大きな政府」であることを要求する。そしてこれこそ現在問題の種となっていることである。


(コメント)
ほとんど載せてしまった。
要はみんなが安定して暮らすためには心のありようが重要で、中世ではカトリックは清貧、イスラムは喜捨という仕組みがねずいていたわけだ。
ケインズも「大きな政府」を作って喜捨に似た一種の福祉国家に似た、富裕層から貧困層への富の強制移転の仕掛けを税金を徴収するなかで実現している。
それにしてもイスラムの文明は馴染みはないのだがすごい一面を感じる。