(抜粋)
カトリックの教会権力はもともと社会全体が商業的に繁栄することを退廃の温床として危険視し、清貧な農業経済をよしとしていたため、豊かな消費経済活動などというものは痩せ細ってくれるならむしろ幸いであるという事情があったからである。

清貧だが豊かな信仰生活を提供できるというのが、彼らのプログラムだったと言えるだろう。

ではカトリックのこのような方針に対して、中世社会のもう一方であるイスラム経済はどうだったかというと、ここはここでまた独特のアプローチをとっていた。以前にも述べたが、原則として金利を禁じていたこの文明は、民衆の間に発生していた余剰資金が無闇に貯蓄に回らないよう、「喜捨」という形でそれに撤退路を与えていた。ところがそれは、ケインズ的観点から見ても極めて興味深い機能を、結果的に果たしていたのである。

先ほども述べたように、一般にぎりぎりの生活をしている低所得者層は収入を貯蓄に回す余裕がなく、それらを右から左に生活必需品の消費に使わねばならない。つまり所得の大半が消費に回っており、経済学の用語で言えば「消費性向が高い」ことになる。一方逆に、使いきれないほどの金を稼いでいる高所得者層は、必要なものを買ってしまった残りの金はとりあえず貯金するため、一般に所得が消費に回りずらく「消費性向が低い」。つまり全般的にはこういうことが言える。つまり社会全体の富の「重心」が高所得者層の中にあった場合、多くの富が貯蓄に回りやすく、経済全体で消費性向が低くなりがちだということである。そして「貯蓄が有効需要を細らせる」という原則に従えば、これは次回のサイクルで有効需要の不足となって現われることを意味する。

逆に、富の重心が低所得者層にあって、それが民衆全体に比較的高い平均額で分配されていた場合、彼らにとっては買いたい必需品はまだまだたくさんあるため、社会は全体として消費性向が高くなり、こちらの方が有効需要が大きいことは一目でわかる。そしてイスラム経済の場合、この「喜捨」という行為が、実は社会の富の重心を消費性向の低い層から高い層へシフトさせ、有効需要を安定したレベルに維持するという、意外な役割を果たしていたのである。

本質的に商業社会であるイスラム文明は、中世において世界で最も経済的に豊かな経済圏地域であり、また文明そのものが多分にその豊かさを前提に成り立っていた。それゆえ本来なら富が貯蓄という形に凝固して有効需要の減少を招くという病気に悩まされ、バクダッドやカイロにいる経済官僚がその解決に必死にならねばならないはずだった。

ところがこの意外なメカニズムのため、少なくとも彼らは有効需要の不足という問題にさほど悩まされることなく、中世の基準からすれば「成熟した」経済社会をかなり長期間にわたって安定的に維持することができた。極端に誇張して言えば、イスラム経済のメカニズムはケインズのプログラムを最初から必要としていなかったのである。

大体において近代以前の社会は、カトリックやイスラムに限らず全般的に貯蓄行為を危険視していた場合が多い。例えば古代や中世の多くの君主国では、とかく首都や宮廷に国中の金が集まってきやすいのだが、そのため首都や宮廷などではいかに贅沢をして金を吐き出すかに懸命になっていたかに見える例すら見受けられる。

例えばその種の宮廷の多くは、簡単な仕事に対して必要もないのに大量の召使を雇っているのが普通であり、これは一般には行政改革の失敗の結果と見られているが、しかしこの観点からする限り、むしろこれは富の低所得層への再分配という意味があったのではないかとさえ考えられなくもない。宮廷にとっては贅沢は一種の義務なのである。ともかくこの、富の重心を高所得層から低所得層に移転するという問題は、有効需要確保という問題に取り組む者にとっては避けることができず、それはケインズ経済学もまた例外ではない。

ケインズ自身には、貧民救済に燃えるキリスト教的博愛精神といったものはあまり見当らないが、それでも純粋に経済システムの問題を突き詰めていくと、必然的に外見上は一種の福祉国家に似た、富裕層から貧困層への富の強制移転の仕掛け( 直接的にか間接的にかは別として)を作っていかざるを得なかったのである。それは必然的に政府そのものの性格を、国民から大量の税金を徴収してそれを公共投
資・福祉に大量に再分配する、いわゆる「大きな政府」であることを要求する。そしてこれこそ現在問題の種となっていることである。


(コメント)
ほとんど載せてしまった。
要はみんなが安定して暮らすためには心のありようが重要で、中世ではカトリックは清貧、イスラムは喜捨という仕組みがねずいていたわけだ。
ケインズも「大きな政府」を作って喜捨に似た一種の福祉国家に似た、富裕層から貧困層への富の強制移転の仕掛けを税金を徴収するなかで実現している。
それにしてもイスラムの文明は馴染みはないのだがすごい一面を感じる。