1/700駆逐艦“朝霜” 制作記 | 若宮桂のブログ・空と海がぶつかる場所
翌七日朝、六時五七分まで、なにごとも起らなかった。
そのときだった。朝霜(アサシモ)が機関故障で、遅れはじめた。一二ノットしか出ないという。
明けがたの警戒で、配置についていた(戦艦大和搭乗員)畑中兵曹が、それを見つけ、気をもんだ。
「朝霜ガンバレ。ひとりになると、あぶないぞ。ガンバレーッ。」
※吉田俊雄著「大和と武蔵」より

三月二九日に、機雷に傷つき行動不能となった驅逐艦「響(ヒビキ)」を曳航(えいこう)し無事を見届けた彼女は、その僅か九日後の昭和二〇年四月七日、沖繩に集結した米國軍を討つべく、戰艦大和ら合計十隻の艦隊で呉軍港を発ち、鹿兒島縣南部の沖合まで来ていた……

朝霜は、甲型驅逐艦の後期型にあたる夕雲型全一九隻中の一六番艦として日本敗戦が濃厚となった昭和一八年一一月に竣工。生まれたときから戦場があった。
一九年一一月には、フィリピンオルモック灣へ物資兵員を運ぶ多號作戰第三次輸送に参加。艦隊に随伴する為三五ノットを発生できるが、僅か六、七ノットしか出ない船團を護衞。猛攻撃を受け、ソロモンで勇戦した姉の長波、玉波ら驅逐艦四隻も沈み、船團は朝霜と驅潛艇四六號を除き全滅した。
一二月には禮(れい)號作戰に参加。作戦は成功したがその闘いで夕雲型末妹の清霜を失い、夕雲型の残りは朝霜ひとりになった。
二〇年二月に北(ほく)號作戰に参加。
満足な修理も行わず、また、物資も燃料も人員も、なにもかも不足していた。

……大和は速度を緩めて朝霜の修理が終わるのを待ったが、修理は終わらなかった。
大和は再び速度を二二ノットに上げ、朝霜が修理を終えて追いついて来るよう祈った。
一二時二一分。「九〇度方向ニ敵三〇数機ヲ探知ス。」の電報を大和に送って来たあと、幾ら呼び出してももう應答は無かった。
我々日本人が彼女の最期を知ったのは、戦後だいぶ経って米國軍の戦闘詳報が最期の寫眞とともに公開されてからだった。
朝霜は大和の護衞を務めることができず、陽光を浴びた朝霜のように波間に消えた。搭乗員三二六名全員の命とともに。
搭乗員たちは、そして彼女自身は、最期にどんな気持ちだったでしょうか。














昨年4月に制作し、とくにアメーバ版でたくさんの方が見に来てくださった、驅逐艦「響(ヒビキ)」制作記の続き、のような話です。
この艦(フネ)自身の命日にあたる4月7日までに完成予定、学校を卒業する4月までに完成予定、だったのですが、忙しく、大幅に遅れてしまいました。

キットはピットロード社1/700(現在絶版)を使用。
このキットは、小学生の頃よく作っていたウォーターラインシリーズを今の技術で製作してみたくて重巡「利根」とともに1995年に購入。
小学生の頃買ってもらい、艦船に興味を持つきっかけとなった本「大和と武蔵」のなかに出てくる、沈みゆく武藏を助ける為に駆けつけた「利根」と、驅逐艦「清霜」の場面を再現しようと製作開始。
しかし当時の自分の技術力ではまだまだ無理で、それから実に19年も製作を中断していました。
昨年11月に、当初予定していた清霜ではなく朝霜として制作再開。ようやく完成しました。










以下、マニアックな制作記。

船体。
まず船體上面と下面を貼り合わせ、艦尾の下の方に0.5mmプラ板を貼ってパテを塗り、デストロイヤースターンを再現。目立たないですが。
舷側の舷窓はピンバイスで開口して再現。朝霜は戦時中の完成なので、おそらく戦訓対策で舷窓は最初から閉塞された状態で竣工したと思い、響のときに貼った舷窓を塞ぐ蓋のエッチングパーツは貼らずにおきました。
船體をグルリと囲む、機雷対策で巻きつけてある舷外消磁電路も、新造艦らしいきれいな雰囲気を出したく、エッチングパーツは使わず0.4mmのミクロンラインテープを巻きつけてサーフェイサーを吹き再現しました。
船首楼後端の艦橋が取りつくところはプラ板を貼って少し延長。
次に、吃水線のところを#29艦底色でエアブラシ塗装。今度は赤く残したいところに0.7㎜のミクロンラインテープを貼って赤いところをマスキングしておきます。
艦尾の爆雷投射機はハセガワのエッチングパーツ。爆雷が入っていなかったので、0.64mmのプラ棒を切って入れました。投射軌条は左舷を眞鍮線貼って延長。

艦橋、構造物。
艦橋は「日本海軍小艦艇ビジュアルガイド駆逐艦編」に載っている図を参考にプラ板とパテで修正。接着位置のダボは削り取り、できるだけ後方にずらして接着。
水密扉や梯子はライオンロアのエッチングパーツ使用。
二一號電波探信儀(電探、レーダーの和名)が設置された前檣(マスト)は、一部を眞鍮線に置き換え、 後檣は全て眞鍮線で自作。夕雲型用エッチングパーツセットの一三號電探と信號燈を貼りました。
艦首艦尾の旗竿も眞鍮線で自作。
裝載艇は、「真実の艦艇史2」に載っている米軍が撮影した最期の寫眞のとおり数を減らしていました。本の作例を参考に七米橈艇(7mとうてい※カッターボート)と七・五米内火艇(7.5mうちびてい)のみ配しましたが、左舷がカッターのように見えます。間違えたかな。

機銃座。
この頃の夕雲型は艦橋前と一番煙突後ろ、二番煙突前に機銃座を設置していました。
まず艦橋前の臺ですが、支柱はキットのような円筒状のものや五本の鋼材で支えているもの、三角柱になっているものなど、いくつかあるようです。今回はプラペーパーで三角柱を作り、再現しました。
一番煙突後ろの臺を支える支柱も、アルファベットのAのような形のものやお好み焼きの小手のようなものなど、これもいくつかあるようです。朝霜のは寫眞からアルファベットのAのような形。夕雲型用エッチングパーツセットのものを使用しました。
臺のフチは削り取り、プラペーパーで防彈鈑を再現。
機銃は九六式二五粍機銃(96式25㎜機銃)。艦橋前の臺は聯裝、残りは三聯裝。ファインモールドのナノドレッドシリーズに置き換えました。絶版となった防盾のエッチングパーツつき。

武装。
主砲は五〇口径三年式一二・七糎聯裝砲(50口径3年式12.7cm連装砲)。朝霜は仰角七五度の高角射撃が可能となったD型を装備したようですが、対空射撃の能力は高くなかったようです。側面に丸い突起と補強鈑、後部にエッチングパーツの扉を追加。夕雲型は大戦末期になっても二番砲塔は撤去されませんでした。
魚雷は防盾附き九二式四聯裝魚雷發射管二型。側面の扉はエッチングパーツを貼り、この他プラペーパーで前面にディテールを追加してます。
今回も主砲と魚雷發射管に手すりは貼りませんでした。
「日本駆逐艦物語」巻末の資料によると、一九年六月の時点で朝霜は七挺の單裝機銃を設置していたようですが、最期の寫眞では艦橋左右の短艇を撤去してもう少し多く設置されているように見えます。ファインモールドのナノドレッドシリーズに置き換え、合計で一三挺設置しました。

塗粧。
朝霜は大阪市にあった民間の藤永田造船所で建造されましたが、どのような色で塗られたかははっきりしませんので舞鶴工廠色で塗ることにしました。
響は昭和八年、朝霜は昭和一八年竣工と十年開きがあります。
年季が入った感じを出してみたく、響のときはジャーマングレーを下地に吹いてから舞鶴工廠色としましたが、朝霜は新造艦のような雰囲気を出してみたく、より明るい#13ニュートラルグレーを下地にして舞鶴工廠色を吹きました。同じ色でも下地でだいぶ雰囲気が変わります。
搭乗員が足を痛めないように貼られたというリノリウムは、大むかしに買ったピットロードのリノリウム色を筆塗り。
煙突頂部は#40ジャーマングレー。
主砲身の防水布と内火艇の上部は真っ白だと浮いて見えるので#97ライトグレー(灰色9号)。
カッターの内側は#24スカイ。
沖繩特攻作戰(天一號作戰)に参加した艦は何れも煙突に菊水マークを描いたとされていますが、「駆逐艦磯風と三人の特年兵」の記述によると、マークを描いたのは磯風のみだったようです。

彈片避け。
最後に彈片避けを貼ります。
市販の繃帯を留める白いテープを細く切り、巻きつけていきますが、響のときに使ったのと比べちょっとテープの厚みが薄かったですね。
單裝機銃のところの手すりにも貼り、その上から軍艦色を塗装。
短艇のベルトは、これもテープです。
艦橋側面と二番砲後部にエッチングの救命浮輪を設置。









こうして見比べると、艦首の形状は似てない感じ。艦尾の爆雷投射軌条も角度が違いますね。



朝霜が曳航した僚艦の響と並べてみました。手前が響。





左から、響、朝霜、神風。




主な制作資料、「日本海軍小艦艇ビジュアルガイド駆逐艦編」、「艦船模型スペシャル30日本海軍駆逐艦の系譜3」、「歴史群像太平洋戦史シリーズ19陽炎型駆逐艦・同51真実の艦艇史2」、「軍艦メカ4日本の駆逐艦」、「日本海軍艦艇写真集・駆逐艦」、「日本駆逐艦物語」、「憤怒をこめて絶望の海を渡れ」、「駆逐艦磯風と三人の特年兵」、「地獄の海レイテ多号作戦の悲劇」、「第二水雷戦隊突入す・礼号作戦最後の艦砲射撃」、「写真で見る太平洋戦争5・大和と武蔵」