◆ 「祝詞新講」 次田閏著 (~18)







昨日、生島神・足島神の記事を上げましたが…
もちろん今日のこの日の記事のため。


解つたような…解らないような…

ずつと難解であり続けたものの


宝賀寿男氏のおかげで

今ではすつきり!何の疑ひもなく!



頭の固さが故

なかなか柔軟な發想ができないもどかしさを感じますが…


いろいろな方のお知恵を拝借しつつ
學んでいけたらよいかと思ひます。


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【読み下し文】(本書より原文引用)
生嶋の御巫(みかんなぎ)の辭竟へ(ことおへ)奉る、皇神等(すめがみたち)の前に白さく(もうさく)、生國・足國(いくくに・たるくに)と御名は白して辭竟へ奉らば皇神の敷き坐す嶋の八十嶋(やそしま)は、谷蟆(たにぐく)の狹度る(さわたる)(きはみ)、鹽沫(しほなわ)の留まる限(かぎり)、狹き(さき)國は廣く、峻しき(さがしき)國は平らけく、嶋の八十嶋堕る(おつる)事無く、皇神等の依さし奉るが故に、皇御孫命(すめみまご)の宇豆の幣帛(みてぐら)を稱辭竟へ(たたへことおへ)奉らくと宣る(のる)


【現代語訳】(本書より原文引用)
生島の御巫がお祭り申上げてゐる神々に申上げる事は、御名を生國足國の神と稱へて、鄭重にお祭を營みましたならば、神々が守り給ふ國土は、蝦嚢(*)が這ひ行く國土の隅々までも、海潮の泡が流れ留る海洋の果までも、狭い國土はいよいよ廣くあるやうに、峻しい國土はいよいよ平かであるやうに、天下四方の國を漏らし落す事なく、神々が天皇に寄せ奉り給ふによつて、謹んで貴い幣帛を供へ奉りますといふ詔命であります。


【釈】
◎「生嶋の御巫」
生嶋の神を齋き祭る御巫。生嶋の神とは「先代旧事本紀」及び「古語拾遺」に「大八州の靈」とあることから、大日本國の靈を祭つたもの。

「神名帳」記載社
*「神祈官西院坐生嶋巫祭神二座 並大 月次新嘗 生嶋足嶋神」
*「和泉國大鳥郡 生國神社」 → 船待神社
*「信濃國小縣郡 生嶋足嶋神社二座 並名神大」 → 生島足島神社
*「攝津國東成郡 難波坐生國咲國魂神社二座 並名神大 月次新嘗相嘗」 → 生國魂神社



[攝津國東成郡] 生國魂神社(難波坐生國咲國魂神社)




◎「生國足國

「生」は「生魂」と同じで永久涸れる事のない意。「生嶋足嶋」とも稱するので、共に生嶋の神を對立の二座としたもの。賀茂眞淵はこれを生嶋の神の荒魂和魂と見て居るやうです。


次田潤氏は、「島」には「國」と共通の意義があるとしています。元来「島」は一區(一区)の地域を指していふのが本義であつて、海中の島を指す時に限られていないと。「シマ」の語源に就いて、「シ」は「スム」(住む)の義で、「マ」は「間」の義であるといふ説を引用しています。

(引用元不明。「金澤博士」とするが金澤裕之氏のことか)


これに就ひては何となくさふいうことなのだらうと思つてはいましたが、根拠が明示されています。非常に重要なこと。

ただし…なぜ「シ」が「スム」(住む)の義であるのかの根拠が示されておらず、また残念ながら引用元が不明瞭なため、流用は憚られるかな…。



◎谷蟆の狹度る極(たにぐくのさわたるきはみ)
「谷蟆(たにぐく)」は記では「多邇具久」、萬葉では「谷潜」と記される例が有り。本居宣長の説によると「谷卽ち物の迫間(はざま)でググと鳴く虫の義」と。守部(国学者の橘守部か)の説によると「物の蔭を自由に潜り行くからタニグクと呼ぶ」と。要するに「ヒキガエル」のことであるとしています。
「狹」は接頭語。通して谷間や物蔭のやうな隅々果々までもを泄れなく網羅してゐるという意。



◎「鹽沫(しほなわ)の留まる限」

「鹽沫」は「海の潮が滿ちる時流れる泡沫をいふ」と。前の句と對を爲し、「海にあつては潮の沫が流れ留まる果まで」と。前の句と合わせて、天下の遠き限りまでも含めてゐるとしています。




【評】

◎大地への神格化

次田潤氏による、神道に對する思惟的な内容が見られるので原文まま掲載しておきます。


━━自然を直覺的に觀た上代人は、大地を、人類を始め動植物などと同じく、一の生命のあるものと見倣したのである。卽ち日月や草木や河海や岩石などを神として崇拜すると同様に、長い年月の間に徐々に變化(変化)して、或は洲が島となり、島が陸地に連なつて行くやうな、偉大な地變を見て、これに神格を興へて崇敬したのである。(中略)… 大地そのものを神と見た自然宗教から更に一歩を進めると、大地に生成化育を掌る神靈が宿つてゐるものと考へ、其の神靈に對して、廣大無邊の恩惠を感謝するやうになる。神祈官の西院に祭られた生島足島神や、各地の神社に祭られてゐる國魂神は、此の過程を經て崇敬された神である━━


「神道」を「宗教」と捉へることに賛成はできかねます。またこの後に続く「國魂神」の術解にはまつたく同意できかねるものなので、切り棄てて居ます。

それらを除き賛同できる部分だけを載せておきました。




生島神・足島神と八十島神

生島神・足島神と八十島神とを「同一の性質の神」と次田潤氏はみています。「延喜式」臨時祭に「八十島神祭」があり、其の資料の中に「挿幣帛木一百廿枚」とあり、數多くの島々の神靈纏めて祭つてゐるということ。而して此の祝詞に「皇神の敷き坐す島の八十島は云々」とあるのを見ると、共に群島の神靈を崇め祭るものであることが明白、同一の性質の神であると。




◎賀茂真淵の見解

「祝詞考」(賀茂真淵)の説によれば、生島足島神は前(さき)の座摩(いかすり)の御巫の祭る、生井榮井以下の神々と共に、もと仁徳天皇の「難波宮」の内に齋ひ祭り給うたのが起原であつて、其の後歴代宮中に祭つて、國土の平安と隆昌とを祈り給うたのであると。




◎「難波江」について

賀茂真淵の見解を受け次田潤氏は、元來「難波江」は古今地形の變化(変化)の著しい所であつて、上古に「難波崎」と稱した所は、今の大阪市の「上町」一帯の、南北に延びてゐる丘陵であつて、「難波江」は其の丘陵に擁せられてゐたので、今の大阪市の「上町」一帯の地は、大部分昔の江灣(江湾)であつたとしています。


「難波崎」は今は「上町台地」と稱するのが一般的。此処に「難波宮」があつたとするのが有力で、次々と建物跡等の遺跡が発見されています。これに對して千田稔氏は、現在の「高麗橋」付近にあつたとみています。こちらは特に遺跡が発見されて居らず、やや劣勢か。


一先づ「難波崎」(上町台地)にあつたと仮定して…

「淀川」を始め「大和川」「河内川」等から運ばれた土砂によつて、次第に成長して、島と島とが連續して、平野を形成するに到つたもの。それと共に國土の成長發達の偉大な力に神靈を認めて、生島足島神、若くは(もしくは)八十島の崇拜が起つたものと考へられるとしています。


どうやら次田潤氏は平野が形成される様子を、生島足島神の崇拜に準えてゐるように思ひます。

これに對しては少々異論を抱きます。「河内湖」には「島」は存在しません。次田潤氏は「八十島」の「島」はいわゆる「島」に留まらず「國土」のことだとしてゐるものの、仁徳朝にはおそらくまだ陸地化はしておらず、湖の状態であつたと考へます。この「崎」(岬)の突端から「河内湖」だけではなく、四方を見渡し「國土」と捉へたと考へる次第。「國土の隅々…」「海洋の果…」といつた表現が爲されてゐることからも、それは明らかかと。



「難波宮史跡公園」 *画像はWikiより



今一つ留意せねばならないことは、「八十島祭」の起原を仁徳朝に遡らせるのであれば、「高安山」を考へねばならないかと。下に掲げる絵地図で言えば「恩智」とある所。「高安山」山頂より冬至に太陽が昇る地に坐摩神社を創建し(舊社地)、春秋分の日に太陽が昇る地に住吉大社が創建されたこと、この時代の祭祀を考へる上で大變に重要な事柄であらうかと(詳細は → 恩智神社の記事にて)。「八十島祭」に對しては濃厚に絡むことであると考へる次第。



「難波崎」は「上町台地」の北端(「森の宮」のまだ先)。こちらは弥生時代の状態であるため、古墳時代以降はさらに「河内湖」に土砂が堆積し、陸地化が進んでゐたと思われる。
*写真はかつてあつた「大阪歴史博物館」の展示物を廃館に伴ひ梶無神社宮司が譲り受けたパネルを、撮影させて頂いたもの。





今回はここまで。

「八十島祭」につひてはもつと深く追及していかねばならんですね…。



*誤字・脱字・誤記等無きやう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさひわいです。