結城神社


伊勢国安濃郡
三重県津市藤方2341
(大型P有り)
(名所「垂れ梅」の時期は梅園のみ要拝観料)

■社格等
[旧社格] 別格官弊社
[現在] 別表神社

■祭神
結城宗広公
[配祀] 結城親光卿一族殉難将士


「伊勢街道」のすぐ側、海岸近くの津市「藤方」に鎮座する社。一帯は「結城の森」と称されますが、津八幡宮の神域の北半分を割いて建立されました。
◎後醍醐天皇による「建武の中興」に尽力した結城宗広公を祀る社。境内には墓所もあり、「建武の中興十五社」の一でも。
◎後醍醐天皇はそれまでの武家中心の社会から、天皇中心の社会へ戻そうと企図したもの。この頃幕府は威信を失っており、朝廷側も南北朝対立が起こっていました。南朝方の後醍醐天皇は南北に分かれていた朝廷を統一させ、次い倒幕をも狙います。全国への支配を高めていくなか、関東から東北地方への支配を行き渡らせるために陸奥将軍府を定め、腹心の北畠親房・顕家を派遣。結城宗広は顕家に従い、陸奥方面の政務を任されました。
延元三年(1338年)には高師直との戦いで顕家は敗死、結城宗広は辛うじて南朝の吉野へと逃れました。宗広は南朝方再起のため義良親王を奉じて奥州へ向かうも、海上で遭難し安濃津で死没したと「太平記」(室町時代)にあります(→ 伊倉津鹽竈神社の記事参照)
◎実際のところ漂着したのは尾張国の知多郡篠島、死没したのは伊勢市の光明寺とするのが有力とされるようです。
◎「太平記」の当地で死没したというのは既に室町時代には広まっていたようで、「結城塚」も文献には残っています。
津藩主の藤堂高兌(トウドウタカサワ)により、文政七年(1824年)に結城神社が創建されました。明治十五年には別格官弊社に列しています。
◎境内は300本あるという垂れ梅の名所として知られます。2月中旬~3月中頃にかけて多くの拝観者が訪れるとのこと。


広大な神域を有しています。


別格官弊社に相応しい拝殿内部。

狛犬好きには堪らないものでしょうか。


こちらが「梅園」。

結城宗広公の「結城塚」。



結城医王大明神


福松稲荷大明神





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