■表記
*紀 … 小子部連蜾嬴・少子部連蜾嬴
*「日本霊異記」 … 小子部連栖軽
*訓みはいずれも「チイサコベノムラジスガル」

■概要
雄略紀に雷神を捕らえてきたと記される伝説の人物(神)。小子部連の祖。紀と「日本霊異記」に説話が記されます。

◎雄略天皇六年三月の記述
━━天皇は后妃たちに、養蚕のために桑を摘ませようとし、蜾嬴(スガル)に命じて国内の「蚕(こ)」を集めさせた。ところが蜾嬴は間違って「嬰兒(こ)」を集めて献じた。天皇は大笑いし、「嬰兒(こ)」を蜾嬴に与えて「汝自らが養え」と言った。蜾嬴は宮墻(宮室の周囲に巡らした垣)の下で育て、少子部連の姓を賜った━━

◎雄略天皇七年七月の記述
━━天皇は少子部連蜾嬴に詔して「朕は三諸岳の神の姿を見たい。或いはこの山の神は大物主神だと言う、また或いは菟田墨坂神だとも言う。汝は人を超越した力を持つ。自ら行って捕らえてくるように」と言った。蜾嬴は答えて「試しに捕らえて来ましょう」と言い、三諸岳に登り大蛇を捕らえて来て天皇に奉った。斎戒をしていない天皇に、雷の如き轟き、まなこは輝き、天皇は畏みて目を覆い、殿中に引きこもった。大蛇は岳に放たれた。これにより雷という名を賜り改めた━━

◎「日本霊異記」の記述
━━雄略天皇が磐余宮に住んでいた時、天皇と后が大安殿で愛し合っていたところに、栖軽は気付かずに参入してしまった。天皇は恥ずかしくて行為を止めた。その時、雷が鳴った。そして栖軽に「鳴雷(なるかみ)を捕らえてくるように」と命じた。
栖軽は詔を請け、緋(あけ)の蘰(かづら)を額に着け、赤い幡鉾(武具)を備えて馬に乗り、阿部の山田(桜井市西端、明日香村に隣接)の前の道と豊浦寺の前の道を走らせ、軽(かる、近鉄岡寺駅の周辺か)の諸越の衢(ちまた)に至り、「天の鳴雷神(なるかみ)よ、天皇の命令で呼んで来いと言われた」と叫んだ。そしてここからまた馬を走らせ、「雷神(なるかみ)と雖もどうして天皇の命令を聞かないのだ」と言った。また走り出すと豊浦寺と飯岡との間に鳴雷(なるかみ)が落ちていた。栖軽はすぐに神司(神官)を呼んで籠(かご)に入れて大宮に持ち帰り、天皇に「雷神を捕らえて参りました」と申し上げた。すると稲光を放ち輝いた。天皇はこれを見て恐れをなし、幣帛を奉り落ちた所に戻させた。今は「雷丘」と言う━━

◎「新撰姓氏録」の小子部宿祢
「左京 皇別 小子部宿祢 多朝臣同祖 神八井耳命之後也」とあり、注釈として「大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)御世 所遣諸国 取斂蚕児 誤聚小児貢之 天皇大哂 賜姓小児部連」と記されます。
これは上記の雄略紀六年三月の記述を受けてのものと思われます。

◎「三諸岳」は「三諸山(三輪山)」と考えます。ここに鎮まるのは大物主神であることは疑いようもなく、当時も同様の認識であったと思われます。ところが「或いは菟田墨坂神(墨坂神社のご祭神)」としているのが甚だ気にはなりますが。

◎これらの興味深い神話に対しては多くの捉え方がなされており、枚挙に暇がないほど。ここでは自身が腑に落ちるもののみを、かいつまんで挙げておきます。

先ずは谷川健一氏の捉え方。「雷神」を製鉄鍛冶集団が奉斎した神とみなし、少子部連蜾嬴はそれに従事した小人(こびと)たちを掌握していた人物(神)であろうと。少子部連は多氏と同族とされ、また多氏は製鉄鍛冶集団である「伊福部氏」との関連もみられると。
これは製鉄鍛冶集団が奉斎する「雷神」、そして彼らが童子(小人)であるとされ、そこから少子部連蜾嬴へと関連を見出だしたパターン。

◎ところが、━━「小子部」という名称からは「侏儒」(こびと)を連想する向きもあるが、「侏儒」の訓は「ひきひと」であり、「ちいさこべ」とは異なる━━(Wikiより)とあるように、谷川健一氏の説を誤りとするのが現在の趨勢。

◎「日本古典文学大系 日本書紀」には「少子部連」を、「天皇の側近に奉仕する童子・女孺(にょじゅ・めのわらわ)等の資養費を担当する品部で、その管理者たる連の祖としてスガルの名を思いついたのであろう」としています。

◎その「スガル」という名ですが、「新編 日本古典文学全集 日本書紀」には、「腰の細いジガバチという虫。捕えた虫をくわえて巣に運び、子を養う習性をもつ。少子部蜾蠃のスガルも、この虫の習性から考えついた説話上の名であろう」とあります。

◎紀の雄略天皇七年七月の記述の方で、「これにより雷という名を賜り改めた」とありますが、文脈から判断するに「蜾蠃」が「雷」へと名を改めたものと考えられます。
「新撰姓氏録」には、「山城国 諸藩 秦忌寸」の項の注釈に、大泊瀬稚武天皇(雄略天皇)の所に「小子部連雷」と見えます。

ところが別説として「丘」の名を「雷」にしたというものも。これは「仍改賜名爲雷」と「賜」とある以上は成り立たないと考えます。
また「鳴雷神」を「雷」と改めたというものもありますが、こちらも同様に神に対して「賜」は用いられるはずはなく、また既に蜾蠃が「鳴雷神」と呼びつけているためこちらも考えられないと思います。

◎これらに対してまったく異なる捉え方が存在します。
上記のように「蜾蠃」とは「ジガバチ」のこととする考えがあります。その「ジガバチ」は蝶の幼虫の「螟蛉」を捕って来ては「我に似よ、我に似よ(似我似我)」と言い続け、七日で自分の子にするという習性があるとのこと。
雄略天皇六年の記述に於いて、他所の子をとってきて自分の子にしてしまうように養育させたとあり、これらから創作された神話ではないかというもの。突飛ではあるものの卓見に値するかと思います。

◎Wikiでは「小子部」の解釈を以下のように記しています。
━━大王に近侍する少年男子の一群の存在が推定される。すなわち「小子部」は少年にまつわる部であり、将来の軍事力である少年男子を養成・管理して大王に近侍した伴造と考えられる。加えて「雷」にもかかわりがあるものと想定され、幼児を伴なって、宮廷での避雷の呪術の祭祀をする部であったことも窺われる━━

◎紀や「日本霊異記」の記述から読み取られるのは、少子部連蜾嬴が「雷神」(大蛇)以上の力持ちではないかと考えられていたこと、そしてありのままの姿で捕らえることができるだろうと目された人物(神)であったということ。「力持ち」というのが仮に後付けで付加された資質とするなら、少子部連蜾嬴が「雷神」と何らかの関わりを持つ人物(神)であったと考えます。

◎以上から類推するに、「小子部」から「侏儒」を連想するのが例え誤りであったとしても、小子部連蜾嬴が「雷神」を奉斎していた氏族だったのではないか。多氏と同族であり、その多氏は本来は天火明命を祖とする氏族ではないかと考えていますが、もしそうなら同じく天火明命を祖とする製鉄鍛冶集団である伊福部氏と関連するのではないかと。つまり詳細部分は別として谷川健一氏の説は揺るがないと考えます。


■系譜
「多神宮注進状」には、神八井耳命九世の多武敷の子として蜾嬴の名が見え、嫡子の多清眼の弟とされます。


■祀られる神社・関連する史跡
(参拝済みのみ掲載)
[大和国高市郡] ☆「雷丘」


[大和国高市郡] 「雷丘」



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