等彌神社 境内社・史跡等
(とみじんじゃ)


大和国城上郡
奈良県桜井市桜井1109
(P有)


こちらでは等彌神社の境内社や史跡等を紹介します。木材の町としてかつて大いに栄えた「桜井村」の氏神。その富豪たちからの崇敬も篤く、当社も大いに栄えたようです。「鳥見山」を含む神域には境内社や史跡等も多く、それらを紹介します。

等彌神社の概要については本編記事をご覧下さいませ。なお神域内ではありますが、「鳥見山」及びその山中の境内社や史跡等は、下部にリンクを貼る別記事にて。

「鳥見山」内境内社・史跡等 





◎祓戸石
二の鳥居を潜ったすぐに鎮座します。


◎猿田彦大神社

下津尾社前に鎮座します。

(冒頭写真も当社のもの)




◎恵比寿社(石灯籠には「蛭子社」とあります)
下津尾社の境内に鎮座します。



◎剣池
下津尾社の境内、恵比寿社の隣に。かつての祭祀場、神籬跡でしょうか。


◎金毘羅社/愛宕社

ともに下津尾社の向かいに鎮座します。




◎弓張社
上津尾社の境内に鎮座します。
桜井弓張皇女を祀る社。大祭の際は上津尾社で祝詞奏上後、当社で拝礼、下津尾社で祝詞奏上という流れとなっています。特別な扱いを受けていることが窺い知れます。「桜井」の地名由来になったとも(→若桜神社にも由来あり)

桜井弓張皇女(記では桜井玄王)は、第30代敏達天皇と豊御食炊屋姫(後の第33代推古天皇)との間の皇女。
記には押坂彦人大兄皇子の妃となり、山代王・笠縫王を生んだと記述あり。ところが紀には記述無し。
一方で「上宮記」には敏達天皇の娘として由波里王が見えますが、桜井弓張皇女と同一人物とされます。そして久米王(来目皇子)に嫁いだと記されます。

どうやら押坂彦人大兄皇子と来目皇子と、両方の妃となったようで、再婚したということに。どちらが先かは不明。


◎桃神社

意富加牟豆美命(オホカムヅミノミコト)を祀る社。社務所脇に鎮座します。


意富加牟豆美命は伊邪那岐命が黄泉国から逃げ帰る際に、追っ手に対し桃を投げつけると退散したので、無事に帰還できたと記されます。

(参照→【古事記神話】31.桃の名は…)


帰り際、最後に参拝すべき社でしょうか。




◎桜井市護国神社



◎「大孝」記念碑
神武天皇が即位後、天神地祇に「大孝」を述べられた事蹟(史上初めての「大嘗祭」)を顕彰して建てられたもの。
上津尾社ご本殿脇にあります。刻銘は保田與重郎によるもの。



◎お祓所
「鳥見山」登拝道前の磐座



下津尾社ご本殿と恵比寿社の間に立てられています。



◎百度石




◎歌碑 堀口大学/句碑 佐藤春夫
第一駐車場の背後にあります。故佐藤春夫氏を慕う碑文も。当地「桜井村」で生まれた保田與重郎。知人を大和に連れて来ました。





*誤字・脱字・誤記等無きよう努めますが、もし発見されました際はご指摘頂けますとさいわいです。