八幡神社 (大垣市墨俣町)


美濃国安八郡
岐阜県大垣市墨俣町墨俣1
(P無し、土手向こうの河川敷公園Pに停め置くのが良いかと思います)

■延喜式神名帳
荒方神社の論社

■旧社格
村社

■祭神
応神天皇


「長良川」に「犀川」が合流する少し手前、南岸堤下、「墨俣町墨俣(すのまた)」に鎮座する社。「西町八幡神社」とも称されます。
◎創建由緒等は不明。かつては「犀川」河川敷の、本巣郡と安八郡との境付近に鎮座していたとのこと。これは同じく式内社 荒方神社の論社として挙がる白鬚神社と同じ内容のもの。かつては同一の境内だったのでしょうか。遷座時期、理由ともに不明。
◎当社は式内社 荒方神社の論社。もう一社は東方300mほどの合流地点に鎮座する白鬚神社。古来この辺りは荒れ地であり、「荒方」などと称されていたことからの社名由来とする説があるようです。
◎古額面に「八幡宮」、その肩書きに「荒肩神社」とあるとのこと。また天保三年(1832年)と同五年の棟札に「荒方八幡神社」とあると。さらに安政四年(1857年)、嘉永二年(1849年)の古書に「荒方神社八幡宮」とあるようです。以上から当社の方が有力視されます。また式内社 荒方神社に八幡神社が被さったと考えられます。
◎「美濃国神名帳」(天慶から天徳の頃、10世紀)では「従一位」の神階を授かり、「素盞嗚尊八世孫 和邇君祖 吾田片隅命を祀る」と記載されるとのこと。
◎和邇氏の裔である和邇君手(和珥部君手)が壬申の乱において功を上げます。以下大意を。
━━大海人皇子(後の天武天皇)が吉野での挙兵2日前、君手を含む3人が安八郡に向かう。目的は当地の多品治(オオノホムヂ)に挙兵させ、「不破の関」を塞ぐこと。無事任務を果たしそこに大海人皇子が合流。大和進攻軍と近江進攻軍と二手に分かれ、君手らは近江進攻軍を率いて連戦連勝。大海人皇子軍が乱に勝利する原動力となった━━
◎君手は挙兵前は吉野の大海人皇子の側にいたものと考えられます。ところが美濃国出身であったため当地をよく知り、皇子に戦略を指南したのではないかという考えも。和珥部氏は大和はもとより(総氏神は和爾坐赤阪比古神社)、尾張から美濃、加賀等に拠点が広がっています。
◎当地周辺の荒れ地「荒方」を開拓した和珥部氏が奉斎していたのが当社であり、社名由来に繋がったとするのが大方の見方。
ところが祖神の吾田片隅命(吾田賀田須命)の神名が「荒方」へと転訛した可能性もあると考えます。そのような説を取る資料は見られませんが。いずれにしても君手の功が壬申の乱の勝利に大きく寄与したと考えられ、式内社となり、また従一位という高位を授かったものと思われます。
◎当社には小栗判官が現人神として祀られているとのこと。詳細は案内板を写した下部写真にて。




中世に武家からの崇敬が篤かったらしく、社殿等はかなり立派なもの。

ちょうど逆光になってしまい、少々残念な写真に。



以下境内社を。