三島鴨神社


摂津国島上郡
大阪府高槻市三島江2-7-37
( 境内に駐車可、進入は境内東側から)

■延喜式神名帳
島下郡 三島鴨神社の論社

■旧社格
郷社

■祭神
鴨事代主神
此花咲耶姫大神



「淀川」中流域の西岸畔の平野部、高槻市「三島江」に鎮座する社。
◎創建由緒等の社頭案内は以下の通り。
━━創建は古墳時代で、仁徳天皇が茨田堤を築かれる際、淀川鎮守の神として百済より摂津の「御島」に大山祇神をお祀りした事が起源と伝えられる。「御島」とは三島江付近にあった川中島のことであり、「御島(三島)の社」と崇められ、三島神社の根源社として淀川の平静・農耕の発展・王都難波の安泰が祈り続けられた。(中略) 1598年(慶長3)豊臣秀吉の命で淀川右堤防が築かれる際、現在地に遷された━━
◎「茨田堤(まんだのつつみ)」とは、仁徳天皇十一年に記される「淀川」の水害対策と農地開拓のために行われた、大がかりな治水事業。かなりの難工事であったとされ、高度な技術を持った渡来人が活躍したとみられます。秦氏や茨田氏(茨田連)が関わったのであろうと。
◎社伝によると当社は伊予、伊豆の三島とともに「三三島」と称せられたとのこと。伊予の三島とは越智郡の大山祇神社、伊豆の三島は伊豆国賀茂郡の三嶋大社(未参拝)のこと。また「日本最初の三島神社」としています。
◎「伊豫國風土記」逸文によると、「伊予国乎知郡(越智郡)御島に坐す大山積神は、仁徳天皇の御世に百済より渡来し津の国の御島に鎮座していた」(大意)とあります。この「津の国の三島」というのが当地、すなわち「摂津国三島」のことと考えられています。そして推古天皇二年(594年)に、当社から伊予国越智郡の大山祇神社へ遷座されたと記されます。また当社社伝には伊豆国賀茂郡の三嶋大社に対しても、当社から遷座されたとしています。
◎これらとは別に当社には鴨族の氏神である事代主神も祀られています。
紀には「事代主神が八尋熊鰐(ヤヒロワニ)と化して、三島溝樴姫(ミシマミゾクイヒメ)の元に通って生まれたのが姫蹈鞴五十鈴姫(ヒメタタライスズヒメ)」と(大意)。姫の大便中に女陰を…という有名な神話。姫蹈鞴五十鈴姫は神武天皇の后であると記されます。
三島溝樴姫は三島溝橛耳(ミシマミゾクイミミ)の娘。一族が奉斎した氏神と思われる溝咋神社が島下郡に鎮座しています(当社からは北西2km程度の地)
大山祗大神(天神)と鴨事代主神(地祇)と別系統の神が祀られており、それぞれ当社に関わる歴史を有しています。これについて当社案内は、
━━大山祇神 … 我が国で初めて広域的な統一王国をつくった出雲王族の祖霊 / 事代主神 … 当地域三島族の姫と結ばれた出雲王族━━
以上のように別系統の神を結び付けています。大山祇神については異論があるでしょうが、当社でこうして祀られている事実、また大山祇神と事代主神の関わりを持つことも多いことから、無視できないものと考えます。
◎そしてさらに、
━━初代皇后は事代主神が丹塗矢に化身して三島の姫に通い授かった姫という話(日本書紀)は山(命の源)と朝日(命の再生)を拝む出雲族の信仰。淀川御島(当神社)から朝日の光線が淀川水面に映り、三島の姫を祀る西側の溝咋神社に向かう様子。高張提灯の由来は丹塗矢と思われる━━と。
◎また鴨族の根源に関して、
━━事代主神の出雲王族本家は富家(登美家)であり、富田や登美の里の地名が残る。トミ家の別名を神(カム)家と呼び鴨、加茂、賀茂の字が使用されるようになった。
事代主神の御子たちが大和に進出する際、移住した葛城に全国に分布する鴨神社の根源社ができた。御子たちは三輪山の祭主となり、山と太陽を崇拝した━━と。
良く知られる「富家」の伝承。少々踏み込んだ言及をされています。
「富家」の伝承は元より出雲族に関しては、こちらでは言及せず紹介するに留めておきます。


一の鳥居

二の鳥居



ご本殿、下の1枚も。


境内社 唐崎神社(大山祗命・天児屋根神・菅原道真公)

牛像

八幡宮(誉田別天皇)

境内社 國廣神社(宇賀御魂神・菅原道真公)