八所御霊神社 (奈良市秋篠町)


大和国添下郡
奈良市秋篠町742
(駐車場は無かったと思います、秋篠寺はP有るものの有料かどうかは未確認、大きな駐車場が有り駐車場内が通用道路として使われる「奈良競輪場」から徒歩10分足らず)

■祭神
崇道天皇
伊豫親王
藤原廣嗣
文室宮田麻呂
橘逸勢
吉備大臣
藤原夫人


西大寺の北方、秋篠寺の鎮守社として鎮座する社。その仏教施設の「南門」の南側に隣接しています。
◎社伝によると創建は宝亀十一年(780年)としています。秋篠寺には同年に食封一百戸の施入があったとの記述が「続日本紀」にあり、既に創建されていたことは分かるものの、そちらの創建自体も不詳。当社創建年代についても根拠となるものは無いようです。
◎宝亀十一年は第49代光仁天皇の御宇。その光仁天皇の皇后が井上内親王であり、その間の子が他戸親王。光仁天皇などを呪詛したとして廃后、他戸親王も廃太子され、宇智郡にて幽閉されたまま薨去しています。宇智郡の御霊神社 本宮を始めとして各所で祀られる祟り神。井上内親王は身籠ったまま亡くなっていますが、それが火雷神。ご祭神に上がる火雷大神とは、本来はこの火雷神であったという考えも。また火雷大神に習合された菅原道真公という考えも。
◎光仁天皇と高野新笠との間の子である早良親王(崇道天皇)も、藤原種継暗殺事件に連座して廃され幽閉、無実を訴えるために絶食して憤死したという祟り神。
◎「御霊信仰」は第50代桓武天皇(光仁天皇の子)の御宇に早良親王(崇道天皇)を鎮魂したのが始まりとされ、54代仁明天皇・56代清和天皇の御宇に井上内親王・他戸親王・藤原夫人・橘逸勢・文室宮田麻呂を合祀した計六座で鎮魂されました。さらに火雷大神と吉備大臣(吉備真備)が合祀されました。
吉備大臣を除く七座はいずれも祟り神。以上の計八座が「ハ所御霊神」と称されるもの(「上御霊」による)。ところが神社により内訳に多少の誤差があるようです。当社においては伊豫親王・藤原廣嗣の二座が異なります。
◎当初は「御霊神社」と称されていたようですが、貞観年間(859~877年)に現社名に改称。これは清和天皇の御宇であり、上記「御霊信仰」の変遷と合致するもの。
◎保延元年(1135年)に類焼の厄に遭うも再建。現在のご本殿は、春日大社 中社(「摂社」のこと)である三十八所神社からの春日移しであると考えられています。


向かって右手に見えるのが秋篠寺南門。


ご本殿は囲われており、これが限界。精一杯手足を伸ばしましたが…。