八幡神社 (元石清水八幡宮)


大和国添上郡
奈良市東九条町1316
(大安寺Pより南へ50m余りで表門へ)

■旧社格
村社

■祭神
応神天皇
仲哀天皇
神功皇后


山城国綴喜郡に鎮座する「男山」の石清水八幡宮の元宮と称する社。大安寺という仏教施設の鎮守社として創建されたと伝わります。
◎当社が石清水八幡宮の元宮かどうかを巡っては、双方の主張が対立しています。
「大安寺八幡宮御鎮座記」(応和二年 962年)という書は以下の通り。大安寺の僧侶という行教(空海の弟子という)なる者が唐に渡った帰路、宇佐八幡宮(記事未作成)より神影を奉戴、大安寺「東室第七院」に鎮めたというのを以て起源としています。
そして後に神殿を造立し遷座、「石清水八幡宮」と号し大安寺の鎮守神になったと。さらに貞観元年(859年)に神託があり現在の「男山」に遷座、その跡地に造立されたのが当社であるとしています。
◎これに対して、同じく貞観元年(859年)に行教という僧侶が宇佐八幡宮にて、「われ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との神託を受け、翌年に石清水寺の境内に創建されたとしているのが石清水八幡宮側。
◎これらとは別に「七大寺巡礼私記」(嘉祥元年 1106年)という書は、斉衡二年(855年)に行教が宇佐八幡宮より勧請したと伝えています。
◎当社に最初に鎮まったという「東室第七院」については詳細不明。大安寺の古地図(境内図)を見る限り金堂と称される東側に「東室」というのが見え、この近辺かと思われます。
◎「七大寺日記」(嘉祥元年1106年)という書には以下のようにあるようです。
大安寺金堂の東に南北1町ほど(およそ120m)に連なった僧坊跡があることを記し、その北から4番目の坊が行教の坊であったとの古老の伝えを紹介、次いでその傍らに石清水という井戸があることを述べるが、現社地北方の御霊神社境内にある「石清水の井」がその井の遺称であるという(Wikiより)。
◎当社の公式サイトには以下のように記されています。
行教和尚により宇佐八幡宮より「大安寺本坊第七院石清水坊」に勧請されたと。ここまでは概ね同じ内容とみていいかと。続けて「ほんの一時期を経て、八幡大神は平城天皇の勅命により、現在の位置に祀られたと言われておりますが、その際、手を洗うための水が無かったため、行教和尚が松林の中の磐座を法具で叩いたところ、美しい清水が湧き出し、池を作ったと伝えられております。現在の御霊神社の龍池です」と。
当社サイトによると井戸は御霊神社境内に保存されているとのこと。「龍池」と思われるものの背後に井戸跡が見られます。磐座については現在も存在するのかどうかの確認はできていません。
◎御霊神社由緒記として社頭案内には以下のように掲げられています。
「大同二年(859年)八月十七日、大安寺の僧、行教和尚が、大安寺の鎮守社として築紫(大分)宇佐八幡宮より大菩薩を勧請せしとき、お供えする御手水閼伽井の水(石清水と号す)を求めて此処に、行教和尚の託宣により獨鈷を用いて掘らしめたところ、清湛な法水湧き出る」と。
◎これらによると最初の鎮座地というのは、現在の御霊神社の鎮座地であろうと推し量られます。そしてこれが社名由来となったものかと。
一方で石清水八幡宮側は、「男山」に既にあった石清水寺に由来するとしています。或いは「男山」の中腹から湧き出る「石清水」に由来すると。こちらは境内社である石清水社(記事未作成)が関わると思われます。
◎当社のかつての社地は現社地よりもう少し北側、大安寺と当社との間くらいであったとされます。ただし当社公式サイトは上述のように、平城天皇の勅命にて現社地にて創建されたとしています。
以降中世の戦乱でその仏教施設とともに衰微していったようです。「慶長伏見地震」では仏教施設の方が廃寺に追い込まれたため、当社を独立させ氏子たちで復興させたとのこと。由緒深い社ながら列格したのは村社であるというのは、このような歴史によるものかと。

関連社



参道は東西に100mほどあろうかと思われます。

参道途中にある小祠。瀬織津姫命を祀る祓殿社でしょうか。古地図ではこの辺りに加茂社が鎮座していました。

こちらは「表門」。

こちらは「中門」。奈良県指定文化財に登録されています。

「中門」の内側を。




県内最大の陶器製狛犬であるとのこと。

ご本殿の左前方(向かって右前方)に若宮神社(仁徳天皇)が鎮座。

ご本殿の右前方(向かって左前方)に武内神社(武内宿禰命)が鎮座。





池と祠が描かれています。