☆ 聖武天皇 堀越頓宮伝承地 (奈良市都祁友田町)



大和国山邊郡
奈良市都祁友田町182 (都祁水分神社の神域内)
(P無し、駐車は都祁水分神社の記事参照)



天平十二年(740年)に聖武天皇が行幸の際に使用したという「堀越頓宮」の伝承地の一。

もう1ヶ所の伝承地は
室生向渕(むろうむこうじ)の堀越神社


「続日本紀」には、「天平十二年十月壬午 是の日 山邊郡竹谿村堀越頓宮に到る」と記されます。

その3日前に天皇は臣下らを集め、
「思うところがあって、しばらく関の東へ往こうと思う。(このような一大事に)そんな時ではないと言っても事はやめられない。将軍はこれを知っても驚き怪しまないように」(大意)と。

◎「竹谿村」とは「都祁村」のこと。
◎「関の東」とは、現在の「関インター」辺りの東側ということ。
◎「一大事」とは「藤原広嗣の乱」のこと。

藤原広嗣は総勢1万人を要する反乱軍を伴い挙兵、それに対し朝廷は総勢1万7千人の軍で対抗。鎮圧に2ヶ月を要しています。

そんな真っ只中の東国巡幸。
逃亡?

ここでは詳述を避けごく簡単に。
◎一つ目は乱鎮圧の奉幣
◎二つ目は壬申の乱追体験(ルート完全一致)
◎三つ目は遷都

聖武天皇は東方へ向かい、伊賀国、伊勢国、美濃国、近江国を歴巡。
そして恭仁京、難波京、平城京と遷都を繰り返しました。

いずれにしても、この一大事にこのような事を行ったのは「社会不安」があったから。

神亀六年(729年)に長屋王の変が起こり…
天平九年(737年)から流行り始め藤原四子が相次いで命を落とし…長屋王の祟りなどと言われ…

その上に藤原広嗣の乱が起こり、国家沈没を杞憂する事態までに。

聖武天皇は遷都を繰り返し、国分寺・国分尼寺造立、大仏造立…とおたわぶれになられたわけですが。


とにもかくにも東国巡幸の第一歩がこの「堀越頓宮」。翌日には伊賀国入りしています。


赤の三角印が冒頭写真の石碑が立つ場所。