蛭子神社 (隠市守宮)


伊賀国名張郡
三重県名張市鍛冶町97・98
(P無し、近隣停め置きも不可)

■祭神
八重事代主命
三筒男命 伊邪那岐命 火之迦具土命 天照皇大神


「名張川」北岸、かつての宿場町として栄えた「初瀬街道」沿いに鎮座する社。伊賀国では上野・阿保・名張のみ藤堂藩より3ヶ所だけ許された商業の町。
◎当社は「倭姫命世記」に記される元伊勢「隠市守宮(なばりいちもりのみや)」の候補地の一。崇神天皇六十四年に遷幸し二年間奉斎されたとあります(「倭姫命世記」血汗涙物語 10(隠へ) の記事参照)。
他の候補地は名居神社美波多神社に合祀された田村大明神、宇流冨志禰神社、瀬古口稲荷神社に合祀された三輪神社。
◎創建年代は不明、古来より「市守宮」と称されていたとのこと。
当社由緒書には、「このいわゆる伊勢遷宮伝説(『倭姫命世紀』としている)は架空の物語ですが、しかし神社名や地名などはすべて実在の者を用いられていますので、鎌倉時代に名張に「市守宮」と称する神社が存在したことは、まずまちがいのないこと」としています。
「倭姫命世記」は中世に著された「神道五部書」の一であり、この時代にはそのように考えられていたというもの。偽書説を唱えたり、この研究を意味が無いものとして切り捨てる者が、研究者でも一部にはいます。ところが倭姫命の足跡を追うとそれらは鮮やかに蘇るもの。上のような批判的な態度をとる者は実地研究の至らなさを露呈しているようなもの。もちろんこの書においてすべてが信用に足るものではないが、むしろ足跡の一部のみが記されていると考えます。そもそも「倭姫命世紀」などと平然と誤記しているレベルのものかと。
◎いずれにしろ「倭姫命世記」が世に著された時代として有力な鎌倉時代には、既に創建されていたのであろうと思われます。
◎明治初年の「伊賀国誌草稿」という書には、「崇神天皇六十四年…(「倭姫命世記」から引用)本社すなわち旧跡なりと」とあるようです。この時代には当社こそが「隠市守宮」の伝承地であると考えられていたことが分かります。
◎一方で当社が「市場」に関わる社として、「三国地志」(宝暦十三年 1763年)に、古くからここで「六箇日市」が開かれていたというのを、由緒書には上げています。








「初瀬街道」の面影を残す社前道路。