神明神社 (桜井市下居)


大和国十市郡
奈良県桜井市下居
(詳細住所不明、アクセスや駐車等は下部写真にて)

■延喜式神名帳
下居神社の論社

■祭神
天照皇大御神


「御破裂山」の北尾根筋、山村集落「下居(おりい)」の外れ、山中に鎮座する社。急斜面の山腹に社殿を有し、鬱蒼とした樹叢を掻い潜りながらの登拝道。ほとんど人が訪れることの無いような地にひっそりと佇んでいます。
◎当社は式内社 下居神社の論社。比定社は北西700~800mほどに鎮座する下居神社。他にもう一ヶ所、多坐弥志理都比古神社の神域または周辺の場所が挙げられていますが、こちらは廃滅という格好に。
◎まず当地「下居」には現状、当社一社しか存在せず、有力な候補後継社。「神名帳考証」「式内社の研究」は当社を比定しています。
下居神社は「下」に鎮座し、比定前は天満神社。「下」が「下居」を連想させます。「大和志」はこちらを宛てています。
「文徳実録」という書には、「椋橋下居神」に天安元年(857年)神階の授与の記述があるようです。「椋橋」とはおそらく「倉橋」のこと。下居神社が鎮座する「下」と、当地「下居」との間に挟まれています。
◎他方で多坐弥志理都比古神社の神域または周辺の地も。こちらは当地より10km以上も離れた地。北西から南東へと細長い十市郡の両端。
「和州五郡神明帳大略注解」(1446年)には、「意富郷意富村平森」に鎮座するとあり、これは磯城郡田原本町「大字多」、つまり多坐弥志理都比古神社の神域またはその周辺。おそらくこれを受け、こちらを宛てているのは「大和誌料」。
◎「多神宮注進状」という書状(1149年)には、式内社 下居神社について記されます。ご祭神は神八井耳命であると。また河内国志貴郷の志貴御主神社のご祭神と同神であると。
多坐弥志理都比古神社は多氏が奉斎したと考えられている社。志貴御主神社は志貴縣主が奉斎したと考えられている社。多氏も志貴縣主も同祖とされています。
◎これについては「大和誌料」が、神八井耳命は渟名川耳命(ヌナカワミミノミコト)に皇位を譲ったという紀の記述を、「降居」と捉えています。ところが当時は末子相続制の時代。順当な皇位継承であり、記述はあくまでも美談と思われます。
そもそも多坐弥志理都比古神社のご祭神が神八井耳命であるというのも問題があります。
◎なお「御破裂山」は山頂を談山神社(未参拝)の神域とする霊峰(明治までは神社ではなく仏教施設であった)。当社と反対側(西側)の「横柿」には磐座の上に祠を設けた御歳神社が鎮座しています。


県道37号線を北方向から。崇峻天皇陵から南東300m辺り。山手へ向かい右折します。


駐車場所は遠くに見える赤い車。吉野や大宇陀方面との往来で通行は多く、坂道のためカなり加速しているので歩く際は慎重に!

右折したところ。山手へ向かいます。

「寺川」を渡ります。

分岐が現れます。左手へは数軒ある集落へ、当社は右手へ。上に見えているのは廃滅寸前の仏教施設。

このソーラーが目印!この左手の細い山道を登ります。3度目のチャレンジでようやくこの道だと分かりました。


ソーラーの所から10分ほど杣道を登ります。

上方に建物らしきものが見えています。

年に数人は参拝に上がってはいるのだろうと思います。

磐座かどうかの判別はできかねます。

この辺りで、「恒例の迷子」になりました。上の方に建物らしきものは見えているので遭難はしていませんが…「恒例の」どこかで道を誤ったのでしょう。

何度か滑落しつつも斜面を這い登り、何とか杣道に合流。建物(拝殿)に辿り着きました。

拝殿下の鳥居。道を間違えてなければここに辿り着くはずだったと思います。

巨石とご本殿の瑞垣が上方に。

拝殿から鳥居を見下ろすとこのような感じ。

石段は45度くらい、落葉で滑らないように!


3度目のチャレンジでようやく参拝にこぎつけました。4年ほどかけて…。