尾鷲神社


志摩国英虞郡
三重県尾鷲市北浦町12-5
(P有)

■旧社格
郷社

■祭神
建速須佐之男命
櫛御氣野命 彌都波能賣神 大山祇神 天之忍穂耳命 猿田彦神 天之菩卑能命 応神天皇 天津日子根命 若狭姫命 熊野久須比命 菅原道真 活津日子根命 火之迦具土命 多岐理毘賣命 大物主神 市寸嶋比売命 国之常立尊 多岐津比賣命 宇迦之御魂神 級長戸邊神 事代主神


尾鷲七郷の総鎮守、尾鷲市街地内に広大な境内を有し鎮座する社。「北川」河口に位置します。当社は奇祭「ヤーヤ祭り」で知られます。
◎創建由緒等については、江戸時代の二度にわたる大地震による津波で記録等が流失しているため不詳。創建時期を巡ってはもつれているようです。
◎まず現存する記録、当社サイトには以下のように記しています。
「宮座に伝わる見聞闋疑けつぎ集等から主祭神である武速須佐之男命(素戔鳴尊)が鎮座するこの地に、当時の本地垂迹説の考え方で藥師如来と同体であると金剛寺(旧薬王山光林寺)が1597年に再興され、尾鷲七郷の総鎮守、氏神様として崇め祀られていたが、寬文年中(1661~72)時に宮座、同住職、七郷村役等の相談の上、氏神神社確立と拡充を図って、大楠の後ろに建っていた二階建ての御社を現在のところに新しく建て移動、又、境内を整備し寺役(今の檀家)から神主を選んだと伝わっている」と。
これによると既に鎮座はしていたものの、創建されたのは寬文年中(1661~1672年)であると解されます。
◎その「二階建ての御社」については、境内の隅に「舊宮(もとみや)」として奉斎されています(下部に写真あり)。
◎一方で古老伝として、「大宝年間(701~703)に播磨国・広峯社より武速須佐之男命(素戔鳴尊)を勧請した」と。
ただし広峯神社(記事未作成)の創建は天平五年(733年)とされているものの、創祀に至っては崇神天皇の御代とも。したがって大宝年間に勧請してきたというのはあり得るとしています。
◎また例祭は鎌倉時代から行われていたように考えられること、さらに御神木が樹齢1000年以上であると考えられることなどから、古老伝のいう大宝年間の創建説が有力であるとのこと。
◎Wikiには「紀伊続風土記によれば、尾鷲神社は伊勢神宮の神領にあり、遷宮の際には豊受大神宮(外宮)の神職が神事を執り行ったとの記述がある」と記しています。
いつの時代の遷宮であったのかは記されておらず不明。これは当地が天正十年(1582年)に伊勢国度会郡に編入されて以降のことではないかと考えます。
◎「ヤーヤ祭り」は2月1日から5日間に渡り行われる壮大なもので、4万人もの人出があるとか。起源は鎌倉時代に遡ると考えられ、武士が合戦時に名乗りを上げる「ヤーヤー我こそは…」に端を発すると考えられているようです。建速須佐之男命を勇猛な武神になぞらえてのことかと思います。
◎境内の二本の巨樹「夫婦楠」は県の指定文化財。北側の「雌楠」は幹回り9m、南側の「雄楠」は幹回り10m。巨樹が同方向に寄り添うように流れる様は圧巻。「雌楠」の幹元には大きな瘤があり、触れると…というのは残念でならないものの、これほどの愚行を繰り返されても衰えないのは、これぞ真の御神木といったところでしょうか。昭和の中頃には、腐った大楠の幹の空洞に火が入り3日間燃え続けたが、大楠は無事だったとも。


ちょうど梅が美しい季節でした。




こちらが「舊宮(もとみや)」。「太陽神」としているのは不可解ですが。

「舊宮」の案内板。