横内神社 (撞賢木嚴御魂天疎向津姫命神社)
(つきさかきいつのみたまあまさかるむかつひめのみことじんじゃ)


大和国十市郡
奈良県桜井市大福字コウロン
(P無し、近隣に停め置きできる場所やコインPも無し)

■祭神
撞賢木嚴御魂
天疎向津姫命


「横大路」に近接して鎮座する社。近鉄「大福駅」の南東すぐ側、わずか3~4mほど背後に電車が走ります。かつての正式社名が撞賢木嚴御魂天疎向津姫命神社、通称が横内神社。
◎「横大路」は紀によると、推古二十一年の条に「難波より京に至るまでに大道を置く」と記される官道であり、古代の大動脈。社名は「横大路」に関連するものと思われます。字名の「コウロン」は役人に「講論」する所であったことによるものであるとか。
◎創建由緒等は伝わっていないようです。ご祭神として撞賢木嚴御魂と天疎向津姫命の男女二座として祀る社とされます。
◎撞賢木嚴御魂天疎向津姫命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメノミコト)は天照大神の荒魂のことではないかとされる神。また瀬織津姫命、八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)と同神ではないかとされる神。スピリチュアルなどと気取る低俗な輩たちが好んで取り上げる神ですが。
当社において撞賢木嚴御魂と天疎向津姫命の男女二柱に分解している根拠は不明。知り得る限り類例はなく初見。当記事内では私論を挟まず、最小限にこの神について触れておきます。
◎紀においては神功皇后紀の仲哀天皇即位九年の条に見えます。
夫の仲哀天皇が朝鮮半島へ向かえという神の教えに背き崩御、仲哀天皇に祟った神を知り財宝の国(朝鮮半島)へ向かうことを決意します。皇后は斎宮入りし神主となり、その神の名を請います。そして最初に返ってきた答えが撞賢木嚴御魂天疎向津姫命。
「神風の伊勢国の百伝ふ度逢縣の拆五十鈴宮に居る神 撞賢木嚴御魂天疎向津姫命」と。「拆五十鈴宮」とは伊勢の神宮のこと。つまりは天照大神ということに。
◎朝鮮征伐後の皇后摂政元年 香坂王・忍熊王の反乱の中では、紀伊水門から難波へ進もうとするも船が回って進まず(鳴門の渦潮)占うと、天照大神が「我の荒魂を廣田國に祀れ」という教えがなされています。これが天照大御神荒御魂を祀る廣田神社(記事未作成)の創建由緒。
◎天照大神の荒魂が瀬織津姫、八十禍津日神と同神としているのが「倭姫命世記」「天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記」「伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記」の「神道五部書」のうちの三書。
他に「中臣祓訓解」の計四書。さらにスピリチュアル低俗輩が好んで拠り所とする「ホツマツタヱ」も。
◎「神道五部書」は鎌倉時代に執筆したとみられるため、この頃には同神であると考えられていたことが窺えます。
「中臣祓訓解」は、陰陽道や仏教の輩たちが中世以降に神道の「中臣祓」を勝手に取り入れていた際に、放埒に訓解したもの。こちらも鎌倉中期頃に成立したとみられます。
◎主に以上から、撞賢木嚴御魂天疎向津姫命=天照大神荒魂=瀬織津姫=八十禍津日神とみられていた時代があるということが分かります。
他に饒速日神との関連を謳う説もネット上では散見されますが、もちろん浅薄な愚説。
◎瀬織津姫神については祓戸四神の筆頭であり、本居宣長が八十禍津日神と同神であると強力に推したことでも有名。弟子の平田篤胤との間で悪神か善神かで論争したことでも知られますが。

*写真は2021年1月と2022年7月撮影のものとが混在しています。


「横大路」の通りに案内標識があります。

軽なら通られる道ですが駐車スペースも無ければ、転回スペースもありません。