☆ 西山塚古墳


大和国山邊郡
奈良県天理市萱生町
(「萱生町1021」の家が前方後円墳のくびれ部分を削って建てられています)



■形状
前方後円墳
■全長
114m(周濠有り)
■築造時期
6世紀前半(古墳時代後期前半)
■埋葬施設
(不明)
■出土品
埴輪
石棺・勾玉・鈴・土器・人造石(大正時代の「山辺郡誌」に明治二十年に出土した記述あり)
■周辺の状況
大和古墳群の一
*南東100m余りに衾田陵(手白香皇女 治定墓、後ほど記事UPします)
*その東隣に東殿塚古墳
*南西100m余りに下池山古墳
*南300mほどに中山大塚古墳
*他周辺に認定されていない古墳が多数有り
■被葬者
継体天皇皇后 手白香皇女の説有り


大和古墳群の密集地に築造される前方後円墳。
どうやら発掘調査はなされていないようです。

古墳時代前期のものが多くを占める大和古墳群、その中で古墳時代後期のものという数少ない墳墓。

被葬者は継体天皇皇后 手白香皇女(タシラカノヒメミコ)ではないかと考えられています。

治定墓は衾田陵(西殿塚古墳、後ほど記事UPします)。ところがこちらの築造時期は3世紀前半、古墳時代前期前半のもの。

手白香皇女が生きた6世紀とは時代が合わず、逆に当古墳は時代がぴったり。


ここで手白香皇女について簡単に。時代としては専門外ですが、なかなか興味深いものです。

*第26代継体天皇の皇后
*父は第24代仁賢天皇(億計王)
*父方祖父は市辺押磐皇子(イチノヘノオシハノミコ)
*母は春日大娘皇女(カスガノオオイラツメノヒメミコ)
*母方祖父は第21代雄略天皇、祖母は春日和珥童女君

この辺の時代の流れを見るに、少なくとも第21代雄略天皇にまで遡らないと見えてきません。

暴君、専制君主として知られる雄略天皇。政敵を一掃して皇位を継承しました。その一掃した中に皇位継承の有力候補であった市辺押磐皇子が含まれています。

身の危険を悟った皇子のヲケ王・オケ王兄弟は丹後へ逃げ落ちます。さらに播磨へ移ったところで発見され、大和へ迎え入れられそれぞれ第23代顕宗天皇・第24代仁賢天皇として即位します。

第22代清寧天皇がアルビノ症であったと推され御子がいなかった、また雄略天皇が次々と政敵を排除したため候補者がいなかったためヲケ王・オケ王が継承することになりました。

手白香皇女はその代仁賢天皇の娘として生まれています。

母方祖母の名を見ても分かるように、母方は和珥氏の血を引く春日氏系。この時代、和珥氏一族が皇后を次々と送り込んでいました。

仁賢天皇からは男子が一人しか生まれず、第25代武烈天皇として即位。ところが皇女が一人生まれただけで皇子は生まれず、この系統はここで断絶。

雄略天皇の政敵一掃による影響が大きく、次代天皇として迎えられたのは、越前国を支配していた男大迹王(ヲホド王)。

第26代継体天皇として即位。そこに手白香皇女が皇后に迎え入れられました。

第15代応神天皇の五世孫。皇統からは大きく外れた遠戚。

継体天皇はおそらく大和王権を打倒した、つまり政権交代があったと考えられています。手白香皇女とは政略結婚であったと思われます。


後方部から。かなり掘削されており、原型を留めていません。

かつての周濠跡。

くびれ部に民家。こちらもかなり掘削されています。